転・相反する者達は走り、天使は羽を広げる
◇━◇━◇━◇━◇
「あの日、貴方にとって娘も同然の会長の娘さんの変わり果てた姿を見て、貴方は半狂乱に陥った。真殿さんほどの男性が理性を失うぐらいですから相当なショックを受けたんでしょう」
下の階の蛇蛾螺同様、空中庭園の語り部となった安藤はその厳つい見た目に反して丁寧な口調で前方の真殿に語りかけていた。
場には偶然居合わせただけの霜北や逃げ遅れたサカキなど明らかな部外者もちらほらと見受けられたが、後で適当に始末するつもりで情報漏洩の心配なく安藤は言葉を紡ぐ。
「妊娠していたんでしょう。彼女は」
「……」
答える言葉は無かった。
それは単に答え難いというだけでなく、安藤の人の過去に土足で踏み入る行為に真殿が腹を立てていることも同時に表している。
いつにも増して気迫溢れる真殿の雰囲気に蹴落とされそうになりながらも、人質がいる分優位なのは自分なのだと内心言い聞かせて安藤は勢いに任せて凄んでみせる。
「ッ!だんまり決め込んでじゃねぇぞ真殿!てめぇがお嬢を孕ましたんじゃねぇかって訊いてるんだよ!!」
「!?」
思いがけない問に思わず一瞬威圧感十分の顔色が解けてしまったものの、その分を取り返すように僅かな憤りも含めた形相で真殿の双眸が安藤を睨みつける。
「待て。どういう経緯でそんなふざけた話に辿り着きやがる……? 誰がそんな話流し始めた?」
一歩。また一歩と。
実際よりも遥かに重く大きい足音を感じさせながら伊鶴来を乗せた車椅子を挟んで安藤の元まで歩き出す真殿。
もはやその気迫は彼の背中に掘られた『刺青』同様に、鬼を通り越して鬼神の領域に達しており、正面に立つ安藤は勿論、真殿から背後に位置する霜北さえも怖れで腰を抜かしていた。サカキにいたっては両手で目を隠してまともに見ようともしていない。
殺される。
自身の前に居るのが別格の極道だと理解していよいよ拳銃の引き金を引くしかないと覚悟を決めた安藤の耳に、不意に皺枯れた老人の声が反響する。
「もういい。真殿」
新たな声にその場に居る全ての人間の視線が一転に集中する。
長らく沈黙を保っていた老人は固く閉ざしていた口を漸く開いたかと思うと、皺だらけ皮膚の下に隠された刃の如き眼光を、かつて鉄砲玉として使い捨てた己の部下へと向ける。
「こんなつまらん奴の戯言でお前がまた手を汚すことは無い」
「……親父」
十数年ぶりに耳にした親の声。
生半可な血縁関係など超えた信頼を寄せている真殿にとって、伊鶴来十四郎という男の言葉は何よりも重く、そして心して聞かなければならないものだった。
親の言葉に応じて自然と歩みを止める子の姿を確認し、老人の視線は次いで銃口を向けてくる親不孝者へと移った。
「あっ、か、会長」
「安藤。お前に真殿を狙わせたのは碇の野郎だな」
「!?な、んでそれを」
安藤の露骨な狼狽のしように、安藤に対する嘆息も含めて杖を握り締めながら伊鶴来は顔を横に振った。
「あいつはまだ真殿のことを目の上のたんこぶだと思ってやがんのか……何年経とうが成長しねぇ。小生意気なガキ大将のままだわな……かかっ」
真殿を狙って安藤を経由してスナイパーなどの刺客まで雇った碇に対し、怒りもせずただ愉快気に笑うのみ。
その嬉々爺っぷりがニュースなどでよく聞き目にする極悪非道の極道の頭目のイメージとはかけ離れ過ぎていて、霜北やサカキは思わず面と喰らう。
安藤も碇の命令で彼を拉致したが、巨大極道組織を束ねる男の器の広さを目の当たりにして気後れしている様子だった。
唯一、古くから老人の本質をよく知る真殿は再び眉を引き締めて依鶴来に対し疑問を投げ掛けた。
「親父。教えてください。俺は、何に巻き込まれたんですか。二十年前のあの日から」
「さてな。儂は長い間、碇と蛇蛾螺の小童に拉致されて最近のことは知らねぇからな」
しれっと、碇と蛇蛾螺が繋がっていることを公言して、緊急会議での騒動も全て親を拉致した犯人ではないと偽装するためのパフォーマンスだったと間接的に告げる伊鶴来。
当然その事実は後に真殿も知ることになるのだが、蛇蛾螺という若い幹部の名前には聞き覚えがなく、なんとなく聞き逃して親の言葉の続きを待った。
果たしてどんな真実が告げられるのか。やや緊張した面持ちで待っていた真殿だったが、対面している伊鶴来の眼は先程までの老人と同様に黙り込んでいる白衣の男に向けられる。
「その辺はあんたが語った方がいいじゃねぇか? 先生」
老人が促すと視線の的は自然に続いて志村へと移り変わる。
そうして沈黙の科学者は吹き抜ける強い風に再び
言葉を乗せ始めた。
◇━◇━◇━◇━◇
十王字ビル前、特別作戦総本部。
「ま、待ちなさぁい!!藤鷲くん!!落ち着いて!!」
今まさにテロリストが市民を脅かしているという危機的な状況下で、本事件の可及的速やかな解決を上に任された中年の刑事は、それとはまた別の理由で肝を冷やしていた。
その理由いうのはとても簡単で、眼前で今にも飛び出しそうなほど昂ぶっている女性機動隊員が原因なのだ。
普段は市民からも名前を憶えられているほど信頼されている若い女性警察官なのだが、正義感が人一倍強く、特にこのような悪人が野放しになっている状況などは耐えられない、上司としては少々頭の痛い人格を持ち主。
それ故にバイクに跨ったのが確認されてから周りの同僚達がまずい雰囲気を察し、十数名で彼女の暴挙を止める為に肉の壁を作り行き先を防いでいる。
「退いてください!! 私、私行かないといけないんです!!」
「気持ちは分かるが二輪車で突っ込んでも何の解決にもならないだろう!?」
「どうにかなるかもしれないじゃないですか!! やる前から決め込んでたら救える笑顔も救えませんよ!!」
何の説得力も無い、と藤鷲の勢いだけの熱弁に内心呆れながら、警察官として気持ちだけは痛い程わかるので直接口に出して否定はしない肉の壁達。
代わりに代弁者として低の良い生贄にされてしまった上司の刑事は、今にも自分に向かって走り出して来そうなバイクに脅えながらも何とか部下を諌めようと試みる。
「逆に事態が悪化するかもしれないでしょ!! 大人しく今は上の判断を待ちなさい!!」
「ヤクザと繋がっている上の判断をですか!!」
万が一マスコミに聞かれでもしたら明日どころか今日の夕方のニュースを独り占めしてしまいそうな発言に、警察官達はどよめき、上司の男の顔色は益々悪くなっていく。
幸い臨時の作戦本部の場所は野次馬達が居る場所からは遠く離れており、此処ら一体の喧騒は凄まじい密度にまで達していたため部外者に聞かれる心配は無い。
「どうなんですか、かちょ━━むぐっ!?」
「ふっ、藤鷲くん!!ちょっと黙って!!」
しかし今の時代、何処に『目』と『耳』があるとも分からない為、上司の男は暫く使っていなかった筋肉を総動員して部下の口を両手で塞ぐ。
無論、そのような行為で藤鷲が黙る筈もなく何か言いたげな視線は一向に収まらなかったのだが、上司の男は諦めたように言葉を紡ぎ始めた。
「……確かに、あの中には青州会の連中が入り込んでいる。だが勘違いはしないで欲しい。我々は断じてヤクザに組みしてこんな場所で立ち往生をしているわけでは無いのだと」
漸く真実を語り始めた。
胸の内で轟々と燃える激しい正義感に駆られ、まくしたてるように藤鷲が詰問する。
「じゃぁどんな理由があってヤクザやテロリストの暴挙を見逃すって言うんです!?」
「大いなる宿願のためだ。致し方あるまい」
返された言葉は予想だにしていなかったあまりに抽象的が過ぎる返答だった。
内容も何も無い。それさえ伝えれば目の前の女は納得するだろうと上司の男は本当に信じていたのだ。
「ふっ、ふざけないでください!!あの中には私の身内もい、」
激情に駆られて警官にあるまじき公私混同とも取れる本音を吐露してしまった藤鷲だったが、その視線が目の前の光景の違和感を捉え始める。
考えてみれば何故気が付かなかったのだろう。
此処に居る警官は不自然なことに大半がキャリアのある四十代から五十代の中年警官ばかりで、若い者は藤鷲を含めて数人程度。武装したテロリストが相手にしては経験はあっても些か機動力が足りないようにも思える。
藤鷲を止めていたのはその中年警官達なのだ。
目に光は無く、ただ虚ろな瞳で何度も同じような言葉で藤鷲を諭してくる。
「貴方達……!」
「何も脅えることは無い。あのビルはね、箱舟なんだよ。天上の御方達に供物を捧げる……そこでは命の差などありはしない。善人も悪人もね」
豹変して、狂ったように静かに己の哲学を語る上司の男。周りに警官達もそれに同調しているようで唯一人藤鷲だけが悪い冗談のような現実に取り残されていた。
まだ若い藤鷲は知らなかったのだ。
二十年前のある事件。小さなカルト宗教集団で起きた大量殺人事件。
この場に居る警官達はその場に実際に居たのだ。狂気に取りつかれて破壊の限りを尽くした伝説の極道と、半狂乱に陥りながら神に救いを求める信者達の衝突を止めるために。
そして彼らが二十年の歳月を経て、警官という立場でありながらそのカルト宗教に見入ってしまったことも。
過去に囚われず今に生き続ける若い婦警は知らない。
◇━◇━◇━◇━◇
銀翼の存在の言葉は、何処にでも居る平凡な青年である倭のは到底理解でき得るものではなかった。
もう一人の自分が十王字ビルに居るという告白。
それが何を意味しているのか理解できない倭は、ただ正体不明の焦燥に駆られて早口で質問を繰り返すしかなかった。
「何を言ってるんだっ。ホントに、何を……何を知ってるんだ。君は、君は何なんだ……」
何もかもがわからない。
自身の内で際限なく増幅する不安の正体が無知への恐怖だと自覚し、情けなさでその場に倒れ込みそうになる倭。
しかし現実はそんな気弱な青年にも非常であり、路地裏を塞ぐ黒服の男達という形を取って絶望は彼の前に顕現する。
「えっ、えぇ?」
「手間とらせやがって。よくもちょこまかと逃げてくれたなぁ、小僧共」
いきなりな展開に黒服の男達が何を言っているのかすぐには理解できなかった倭だが、彼らの背後に立つ数時間前に見たチンピラの顔を見てすぐに察する。
現れた男達の狙いは傍らに佇む銀翼の存在なのだと。
「ひっ!?」
怯えながら咄嗟に銀翼の存在を庇うように、明らかに堅気ではない男達の前に出る倭。
その今にも泣きだしそうな表情や震える脚に黒服の男達はついつい馬鹿にした笑みを溢してしまう。
「おい小僧。怪我したくなかったらさっさと失せな。人前に出られなくなっちまうような顔面にはなりたくねぇだろ」
言いながら片手で拳を作って腕を振るヤクザ風の男。背後に立つ同じような格好の男達も今時の若者の情けなさをほくそ笑んでいたのだが、その背後に群がっていたボロボロのチンピラ達は真逆の青褪めた表情をしていた。
そのことに逸早く気が付いた倭はチンピラ達の視線が傍らの銀翼の存在に向けられているのだと察し、どうにも作り物ではない銀翼に畏怖しているのではないところまで理解するものの、そのわけまでは察しがつかない。
加えてチンピラ達が脅えようがその前に立つヤクザ風の男達は構わず距離を詰めてきているので実質的にはなんの解決にもなっていないのだ。
「あっ」
銀翼の手を引いて後ずさるものの、路地裏の面積はそう広くは無い。
じりじりと距離を詰められればやがて最奥で捕まってしまうだろうし、逃げようにも広い通りに繋がっている唯一の道は男達の壁で塞がれてしまっている。
どうすればいい。必死に頭を回転させ、より多大な混乱の渦に思考が呑み込まれていった矢先、不意に倭が感じたのは、今まである筈で感じ取れなかった人間の手の『温もり』だった。
何処までも非現実的な存在。羽を生やし、性別もよくわからない抽象的で不気味なほど整った相貌。
自ら意思らしい意思など見せたことが無い彼、もしくは彼女の人形のように冷え切っていた筈の掌から、突然人間らしい温もりが放出され始めたのだ。
「えっ」
驚きで真横に立つ相方に目を向けると、温もりの他に目に見える変化も銀翼の存在には現れていた。
何処からか吹き抜ける風が彼女の全身を覆い、やがて元の大きさより一回り大きくなった銀翼が狭い路地全てを覆い尽くすかの如く大きく羽ばたかれる。
「だぁっ!?な、なんだよ!!これ!?」
突然の出来事に混乱するヤクザ達からは先程のような威圧感は消え失せており。
リアルタイムで起きている超常現象の中心に居る銀翼の存在自身にもまた、変化が現れていた。
━━お、女の子……?
吹き荒れる暴風の中、瞼の隙間から見えた銀翼の存在の姿は明らかに変化していたのだ。
一日以上、片時と離れることなく行動を共にした倭だからこそ判る変化なのかもしれないが、一度瞼を瞑った間に不明だった銀翼の存在の性別は随分とあっさりと確定していたのだ。
ボーイッシュだった銀髪は首下まで伸び、中学生ぐらいの小柄な身長が今では少し伸びて倭と同い年の海外の女性といった見た目年齢まで成長してしまっている。
それに合わせて発育も良くなり、ついぞ数秒前まで性別がどっちつかずだったのが何かの悪い冗談であったかのような美貌を持ち合わせていた。
ヤクザの男達も洗練された芸術品のような美しさに一瞬心魅かれるものの、すぐに事態の異常性を再認識して懐から各々拳銃を取り出し倭と銀翼に向ける。
「く、クソ!化物が!碇の親父に殺すなって言われてるが、多少痛めつけるぐらいいいだろ!!」
そう啖呵を切って先頭のヤクザが銀翼の羽に一度銃口を向けるも、異形の存在を目のあたりにして憶してしまい、自然とその銃口はただ巻き込まれただけの哀れな青年である倭へと向けられる。
先程啖呵を切ったばかりだが、お目当ては銀翼の存在の方であるため、できれば無傷で連れて帰りたいというのも本音。
そこで彼女の連れである気弱そうな男を痛めつけて揺さぶろうとしたのだが、その弾丸が発射されるよりも早く、広く羽ばたかせていた巨大な銀翼が何の先触れもなく動き始める。
「えっ!?な、なにこれ!?」
銀翼の存在と出会ってから驚く展開の連続の倭は、突如として銀翼に包まれてしまって再び悲鳴のような驚愕の声を上げるが、すぐにその姿は外界から隠蔽されてしまう。
合わせて銀翼の持ち主の姿もヤクザ達から視認できなくなり、異常な光景に焦ったヤクザ達の一部が銃弾を発射しようと引き金を引く。
もはやなりふり構ってはいられないが故の行動だったが、残念ながら彼らの銃口から弾丸が発射される未来は訪れなかった。
「なっ、おい!こんな時に詰まるなよ!」
「やべぇ俺もだ!」
「俺も!」
一人や二人ではない。銃を構えていた全員が同様の不調を訴えて同じように自分達の銃を確認したのも束の間、吹き荒れる暴風はいっそう強くなり。
気が付くと、路地裏には非現実的な銀翼の持ち主も気弱な少年の姿も何処にもなかった。
空間転移。俗に言うテレポーテーションの類の怪奇現象。
あまりに刹那的な消失に誰もが同じような推理を頭に抱えて呆然と立ち尽くしながら、一足先に公園で超常現象を体感していたチンピラ達は心底疲れ切った表情で弱音を吐きだしていた。
「帰りたい……俺達を日常へ帰してくれ……」




