転・拳達は交差する
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十王字ビル付近、鉢筋置通り。
騒がしい婦警と別れた後、全身を駆け巡る気持ち悪い感覚から大方開放された倭は、腹の虫と銀翼の少女というお供を連れて比較的人通りの少ない商店街を歩いていた。
何しろこの通りからは直接すぐに十王字ビルに繋がる道は無く、若者達は皆隣の七八通りという大通りを使って様々なスポットへと遊びに向かうのだ。
対して倭が歩く鉢筋置通りは云わば辛うじて残っている半分廃墟だらけの商店街であり、殆どの店は閉まっていて、たまに擦れ違うのは猫か老人程度。
隣で黙って歩く銀翼の同居人の姿を見られても大した騒ぎにはならない。
「あの。本当にお腹減ってないの?」
自分は空腹で今にも倒れそうだというのに、隣に佇む同居人は全くそんな素振りを見せない為、益々人間らしくないその態度に倭は不安になって立ち止まった。
あらゆる点で不安になるのが些か遅すぎるような気もするが、落ち着いた頭を通して見れば食事を全く取ろうとしない隣人の姿はあまりに不可解に思える。
食べはしなくても、せめて何か飲むではないかと試しに藤鷲に貰った炭酸飲料を渡してみたものの、視線だけを合わせて容器を持とうともしなかった。
いよいよただ単に無視されているだけなのではと心労に押し潰されそうになる倭だったが、ふと視線を向けると銀翼の同居人の目線が自分から外れていることに気が付いた。
「ん?」
合わせて倭も視線を同じ方向に向けると、方向は完全に十王字ビルの方を向いており、商店街の穴だらけの天井から薄っすらと見えるビルの側面を見据えているようにも思えた。
今まで興味を示したものといえば蝉の亡骸ぐらいのものだったというのに、急に田舎から出てきた浮浪者のように都会のビルに興味を示した同居人の姿に益々倭は頭を悩ませたのだが。
「行ってみたいの?」
どうせ返答は無いだろうと何の気無しに口にした言葉は、銀翼の同居人の視線を合わせないままの頷きによって肯定されてしまった。
「……え?」
一瞬、完全停止する思考。
銀翼の同居人は我先にと十王字ビルに向かって裸足のまま歩き出しており、口を開けて呆けていた倭がそれに追いついたのは数十秒後のことだった。
考えてみれば昨夜コンテナから連れ出したときから今日まで、これが初めて倭と銀翼の同居人が交わした人間らしいコミニュケーションであった。
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十王字ビル2階、エレベーターホール。
さながら、狩人に狙われた兎。
エレベーターから出てきたばかりのスーツ姿の美形の青年と目が合ったモエは、そのような錯覚を覚えるほど全身に寒気を感じた。
ほぼ独学ながら格闘術を始めて5年近い彼女でも判る。視線が合っただけでも感じる身の毛もよだつ強者の風格。
ほんの数秒前まで気取った店に居るホストにしか見えなかったただの優男が、今は全身武装を身体に纏わせた歴戦の兵士のように見える。
あれと闘ってはいけない。守るべき友人が側に居るこの状況では尚更武芸者と拳や脚を交わす暇など無い。
だというのに。モエは震えは止まらず、その口元には親友に見せるものとは別種の笑みが浮かんでいた。
「モエちゃん……?」
見上げて首を傾げる友人の視線にも今は気が付かない。
今やモエの頭の中を支配するのは純粋な闘争本能。
闘いたい。腕試しをしたい。蹴りを叩き込み、同精度以上の技を目にしてみたい。
武人であるが故の生物の本能からは逸脱した歪んだ欲求がとめどなく湧き出ては、消えることなく全身に駆け巡っていく。
浮かぶ笑顔は数時間前までの少女らしさを残した向日葵の如き色を消し、堪えきれなくなった1匹の獣がエレベーターホールに再び躍り出ていた。
「おや」
突然現れた見知らぬ少女に、蛇蛾樂はわざとらしく驚いてみせる。
といってもモエが現れる前から睦月も含めその存在には気がついており、表情は変わらない爬虫類を連想させる厭らしい微笑を浮かべたままである。
すかさず拳銃を翳そうとする部下2人を片手で制してから、一歩前に踏み出した蛇蛾樂は目の前に飛び出して来た獣に一応疑問を投げ掛けた。
分かり切った答えが返ってくるのを知りながら。
「お尋ねしますが、何の御用ですか?私達は先を急いで、」
━━瞬間、何か凄まじい速度の物体が風を切る音と何かがぶつかり合う音がこの階層中に響いた。
未だ物陰に隠れたままの睦月も、すぐ目の前で2人の相対を目にしていたヤクザ達も、突然の転回に同じように目を見開いている。
驚きながらも一種の特殊な『眼』を持つ者達には理解するのは簡単な話なのだ。それ故に通常の思考回路を持つ者にはわけがわからない光景だった。
確実に初対面の2人。その2人の内黄色いパーカーを着た少女の方が、目の前のスーツ姿の若いヤクザに対して一言も言葉を発さないまま、目にも止まらぬ速さの蹴りを叩き込んだ。
それも全力疾走からノーモーションで飛び上がり、空中で回転しながら10以上身長差がある青年男性の顔面に向かってだ。
体操選手でも思わず息を呑む柔軟さと俊敏さで叩き込まれた完璧な奇襲は、しかし予め動きを読んで顔の横に添えられていた蛇蛾樂の右腕によって阻止された。
ちなみに、この間2人の男女の顔面に彩られた表情は特色こそ違うものの、やはりどちらも笑みであった。
「随分な御挨拶ですね。肝が冷えましたよ」
あまりの蹴りの衝撃に痺れる腕を振る蛇蛾樂。余裕な微笑をしているが、内心、防御が遅れていれば最悪首の骨が折れていたかもしれないと首の裏に軽く冷や汗を掻いていた。
対して脚を降ろしたばかりのモエは、短く息を吸い込み、防御体制を解き掛けた蛇蛾樂の胸に向かって再度蹴りを叩き込む。
今度はもう片方の脚、右脚を軸にして横回転し左脚裏を回し蹴りの要領で叩き込む。
「シッ!!」
「ッ!?蛇蛾樂さん!!」
このままではまずいと一足遅く援護に入ろうとする蛇蛾樂の部下達。
しかし、彼等の行動は本当に遅かったのだ。
数度の挑発を受けて、獣は既にもう一匹目覚めてしまっていたのだから。
「足癖の悪いお嬢さんだ。何度も受けてたら此方が保ちませんね」
軽口を口にしながら、重心を横へ。
速度はモエの回し蹴りと同等ながら、たったそれだけの行動であっさりと回避した蛇蛾樂の腕が真っ直ぐに伸びる。
狙いはモエの首。優男のような雰囲気に似合わず、よく見れば古傷だらけのゴツゴツとした手が迫って来て後方へ逃げようとするモエだったが、それが間違いだった。
背後へ下がったところで蛇蛾樂の手はモエの蹴り以上の速さで伸び、モエの襟を掴んだかと思うと、そのまま力を込めて引き寄せ、拳を作って喉を無理矢理殴り付けた。
「かはっ!!?」
器官が潰れる感触に喉が焼けるような感覚を味わいながらも、ただやられるわけにはいかないと、すかさずモエは身軽なのを良い事に蛇蛾樂の腕に飛び付いて十字硬めを決め込もうとする。
腕の関節を外せば多少動きが鈍くなるだろうと、その後叩き込む蹴りの種類まで考えていたのだが、その行いは間違いだったとすぐに気が付くこととなる。
片腕を外されながらも伸びてくるもう片方の腕。
痛みを感じていないわけではない筈。若干ながら苦痛に歪む蛇蛾樂の表情を目にしたというのに、その確信が揺らいでしまうほど蛇蛾樂の対応は早過ぎたのだ。
モエが蛇蛾樂の関節を外したと同時に、蛇蛾樂のもう片方の腕がモエの頭を掴んでいた。
「掴まえた」
声は短く。万力を込めた蛇蛾樂の握力に掴まれながら、モエはエレベーターホールの床に後頭部から全身を打ち付けられた。
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十王字ビル、正面入口前。
普段であれば街の住人や他区から押し寄せてくる人々、更に観光客まで加わって遊園地にも等しい賑わいを見せる十王字ビル前。
それが今日はいつもとは全く別の異質の喧騒に包まれていて、腹ごしらえさえ未だに済ませていない倭のエネルギー不足の脳を激しく掻き乱した。
「なんだ、これ」
無数に並ぶパトカー。
居炉仔の新たな象徴とも云える十王字ビルの異変に気が付き群がる野次馬達と、その処理に追われる警官達の壁。
あらゆる出入り口と窓がシャッターによって閉じられ、完全に外部との交流を遮断した巨大な鉄の城。
はっきり言って、その様子に倭は現実味を感じられなかった。すぐ横で無表情のまま同じようにビルを眺める銀翼の同居人の方がよっぽど非現実的な存在である筈なのだが、すでに慣れてしまった異常よりも、飛び込んでくる新たな異常に倭は意識を奪われる。
この異常が渦巻く現状で何が一番常軌を逸しているかと云えば、それは何も解っていないことだった。
事故か、事件か、テロか。十王字ビルが封鎖されている原因を誰も詳しくは知らないのだ。
この現代社会でこれほどの大きな騒ぎとなればあらゆるメディアが我先にと美味しいネタを報道するのが恒だが、此処に来るまで倭は十王字ビルがこんな状態になっていること全く知りもしなかった。
その間、何度も自身のスマートフォンを使用しているのにも関わらずだ。
「なんだよこれ」「なんか地震で警備システムが誤作動起こしたらしいよ」「地震なんか起きたったけ?」「火災じゃなかった?」「映画の撮影で一時的にビル全体貸し切ってるんだって」「海外のセレブすげー。日本でもワガママロケかよ」「聞いたかよ!!中にヤクザいるって!!」「ついに警察とこの街の頂点決める決戦かぁっ!?かー!!俺も最前線で見てぇー!!」
周囲の野次馬達の言葉に耳を傾けてもやはり確信めいた情報は聞こえてこない。
皆、思い思いの推理やネットで集めた情報を適当に話題として口にしているのだろう。
人気SNSアプリである『ボール』を開けば、同じように暇つぶし程度の考察が閲覧できるだろうと手元のスマートフォンを開く倭だったが、画面をスワイプするその表情が少しずつ変化していく。
「えっ……?」
そうして倭は眉を僅かに寄せ疑問を口にすることしかできなかった。
「何も、載ってない……?」
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「モエちゃん……?」
その見た目からは想像も付かない剛毅な身のこなしで格闘少女の後頭部を硬い床へと叩き付けた若い極道幹部。
未だ油断せず少女の顔面を掴んだままの邪蛾樂の耳に、今まで隠れていたもう一人の少女の悲痛な声が入り込んで来る。
「も、モエちゃん、嘘でしょ……?」
青冷めた表情と震えた脚でゆっくりと近付いてくる睦月に、沈黙を保っている邪蛾樂の部下達が警戒して銃口を一度向けたが、邪蛾樂はまた片手でそれを制す。
勿論、同情しているわけではない。
そんな人並みな優しさを持っている人間であればそもそも人が簡単に命を落とす領域の技を、武道を嗜んでいるとはいえ年端もいかぬ少女に叩き込むわけがないし、例え同情していたとしても仕事であれば簡単に他人の命など奪ってみせる。
蛇蛾樂にとってはそれが極道のあるべき姿と認識していたし、彼自身自分がその考え方を常に確立させている人間だと自覚していた。
蛇蛾樂がすぐにムツキを始末しなかったのには理由がある。
「これは霜北さんの娘さんじゃないですか。お父様はお元気ですか?」
ニコニコ、と。如何にも悪意など微塵も持っていないといわんばかりの人懐っこい営業用スマイルで、蛇蛾樂はこの場に現れたばかりの睦月の苗字を当ててみせた。
彼女の父親の知り合いであると自白することによる、遠回しなやり方ではあるが。
「えっ」
全く予想だにしていなかった言葉の羅列。
何故、父親の名前が。自分の姓が目の前の見知らぬ男に知られているのか。
不安と得体の知れない恐怖に背筋が寒くなる睦月に、蛇蛾樂は気づいている上で厭らしい言葉を次々と投げ掛けた。
「そうだ。娘さんの方からも言ってくれませんか?早く『組』にお金返してくださいって」
「えっ。な、何の話」
「おや?お父様から聞いてませんか?困りましたねぇ。最悪、借金を返済して頂けない場合、身内の方を担保として頂くつもりだったんですが……」
唐突な思考停止が睦月の頭を襲う。
理由は明白。今聞いたばかりの最悪な単語のせいだ。
借金だなんて聞いたことがなかった。新しい仕事ができるまでの間、睦月は父親がどうやって生活していたのか甚だ疑問だったのだが、漸く合点がいく。
父親は闇金に手を出していたのだ。
「お、お父さんは、今何処に……?」
「私共が紹介したお仕事場で頑張ってますよ。いえ、なに危険なお仕事じゃありません。ちょっと生きてる肉を切ったり、死んでる肉を処理したりするお仕事ですよ」
瞬間、少女の時間が止まる。
初めて聞いた父親の仕事。事務的な仕事をしていると語るあの苦笑の裏に隠されていた真実に睦月は驚きを隠せずにいる。
だというのに、蛇蛾樂の執拗に痛め付けるような言葉の羅列は続く。
「まぁ仕方ありませんよね。貴女のお父様は何年も経済的援助を受けるだけで禄に仕事もして来なかった男ですから。それが撃ち止められた途端、当然まともな仕事なんかができる筈がありません」
「なんで、なんで、そんなウチの家のこと……お父さんのこと知ってるの!?アンタ誰なの!?」
悲鳴にも似た声で絶叫する少女。混乱した頭は自分の居る建物が武装した集団に選挙されていることすら忘れてしまっていた。
蛇蛾樂は哀れな少女を前にしながら表情を変えることも無く、また悲痛な叫び声に直接答えることも無く、視線を動かし己の左手で掴んだままのもう一人の少女に目を向けた。
同時に、今まで気を失っていたかと思われていたモエが唐突に両脚で蛇蛾樂の腹部を蹴り上げた。
「ッ……おっと」
ほぼ奇襲に近い形で腹部を蹴り上げられ、反動で背後に蹌踉めく蛇蛾樂。といってもその顔には未だ余裕の微笑が浮かべられており、恐らく右腕で咄嗟に蹴りを防御したのだろう。
ダメージは少なく、蛇蛾樂は軽くを腕を振るだけで済ませていた。
大して、後頭部を打ち付けられた思わしきモエは仰向けの状態から跳ね上がって立ち上がった後も、やや苦悶の表情を浮かべている。ただ後頭部からの出血は見受けられず、代わりに彼女のテーピングされた右手の指は2本ほどおかしな方向を向いていた。
「私と同じ様に、咄嗟に右手を下敷きにして頭への衝撃を分散させましまか。流石ですね」
「人のこと知ってるみたいに言うな……クソ野郎」
心底嫌そうに相手を睨むモエとは対象的に、蛇蛾樂は少し驚いたような表情で目の前の少女を見据えていた。
その顔色の訳は少女二人には解らなかったが、彼が次に発した言葉によって、少なくともモエは完全に目の前の男の正体に気が付いてしまう。
「驚きました。まさか私の正体に感づかないで死合を挑んできたとは……会長も大層な狂犬を雇ったものですね」
「……ッ?……ッ、お前まさか……!!」
「……?な、何?何なの?」
嘲笑う男、狼狽える友人。
何も知らない睦月だけを、自らの意思などお構い無しに進んで行く転回が怯えさせる。
そんな少女に同情した訳でも何でも無く。ただ話を面白く進める為だけに、享楽主義にも近い蛇蛾樂の口は今まで数多くの大人が隠してきたある“事実”をいとも簡単に口にするのだった。




