承・豪腕は愁い、鬼は救う
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東京都、渋谷。指定暴力団青州会直轄碇組事務所の一端。
暴力団と耳にすれば誰もが恐怖を抱き、関わりたくはないと思うものだが、現在のヤクザには一昔前までのような勢いは無い。
連日テレビや新聞で取り上げられることもなければ、その存在すら今の子供達の間ではヒーローや怪獣と同じ空想上の生き物として見られている。
それ程に彼等は裏社会の影に息を潜めるようになった。
此処もまたその一例。実質はガラの悪い極道達が出入りする小さなビルだが、表向きは建設会社と名乗っている。
近隣住民達は中に居るのがどんな人種の人間か理解していながら、自分達に万が一にでも危害が及ばないようにと関わりを恐れて黙認し続けている。
先日も同じ系列の事務所に爆弾が投げ込まれて騒ぎになるという事件が起こった。
その分、普段に増して事務所周りに立つ若いヤクザ達は警戒してピリピリとした空気を醸し出していたし、一般人達もそれに見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
例え中で人殺しが起ころうとも、彼等は誰一人として通報したりはしないだろう。
「オヤジの件、どないなっとる?」
自らの事務所の中。お気に入りの外国産の座椅子の上で寛ぐ碇は、競馬の予想表が掲載されている雑誌を流し読みしながら周囲の部下達に声を掛ける。
部下である若いヤクザ達は自分達の内一体誰が声を掛けて貰っているのか悩んだが、数秒経つとヤクザとして一番経歴の浅いヤンキー上がりの若者が頭を下げながら返答を口にする。
「蛇我樂の叔父貴が上手くやってるとは言ってましたが」
「何や今はあの小僧の所おるんかい……そうかぁ。まぁ何か解ったんなら言ってくれや」
彼にしては随分と嫌味も刺も無い返事をして、碇の意識は再び雑誌へと戻った。
声を掛けられた時点から殴られる覚悟をしていた若衆達は決して自分達の親に気付かれないように安堵の息を漏らし、再び事務所の掃除だの炊事だのそれぞれの仕事に戻っていく。
荒々しいイメージとされる極道にも在るのどかな時間。碇はそれを嫌いながらも今は仕方ないと甘んじてその時間を受け入れていたのだが、不意に環境音を打ち消す電話の音が事務所に鳴り響く。
音を聞けばすぐに近くの若衆が電話に出ようと走ってきたのだが、碇は無言でその動きを制し、煙草を吹かしながら受話器を耳に近づける。
自分達のオヤジが表の仕事である不動産の対応をしているところなど見たことが無かった為、周りの若衆達の間に微妙な緊張が走る。
しかしその緊張も、開幕一番に受話器から漏れた奇怪な声を聞いた途端に強制的に解かれてしまうのだが。
『こんにちは。碇の親分さん』
「……ええ加減、そのけったいなロボ声やめんかい。雌狐」
受話器から流れ出てくる声に碇が訝しげな顔をするのも、若衆達が微妙な顔をするのも無理は無かった。
何しろ受話器越しに聞こえてくる声は明らかに正常な人の声ではなく、何らかの機械で加工した声、もしくは合成音声としか思えないような不気味な声だったのだ。
電話越しに何度か交流のある碇は、言葉遣いなどから相手を勝手に女性だと思いこんでいるが、幾らでも加工の手立てはある為実際のところは定かではない。
『随分と連れないのね。今日は良いニュースを持ってきたのに』
「何や。俺も俺で忙しうてな。さっさと言えや」
電話越しの報告が気に入らないのか。素っ気ない態度の碇に電話の向こう側の相手は軽く微笑してから、彼が欲している情報を口にし始めた。
『貴方のところの若い幹部さん。蛇蛾樂さんが大勢兵隊を雇いたいそうなの』
「兵隊ぃ?なんでそないなこと情報屋のお前に言うねん?」
『あら、余裕ね。兵隊を使って狙われているのは貴方かもしれないわよ?』
「阿呆抜かせ。俺のタマ取りたかったらゴルゴでも連れて来いや。さっさと続き話せ」
先日も腹を殴るなど、蛇蛾樂から十分に殺意を抱かれるような行為をしていながら、碇の表情には少しも危機感が浮かんではいなかった。
極道が最も勢いを付けていた時代に生きていたせいもあるのだろう。平和な時代に生まれて、金勘定しかできないと思っている若造相手にまさか自分が殺されるとは夢にも思わないのが当然だ。
むしろ狙われれば返り討ちにして拷問師に蛇蛾樂の整った顔をグチャグチャにさせる未来を想像して、笑みを浮かべる。
碇という男はそういう下劣な手段も甘美に感じる男なのだ。
実際、碇はそんな風なことを思って雑誌を横目に凶悪な笑みを浮かべていたし、それが解っている電話の相手は続けて報告を続ける。
『そう余裕ぶっていられないかもしれないわよ。彼、相当な人数の兵隊を所望していたから。質は気にしてなかったみたいだけど』
「何や、あの小僧、何しでかすつもりなんや」
『さぁ。電話してきたのは彼の使いだっていうヤクザからだったし、詳しい内容は聞かされてないわ』
取引先の相手がどのような人物か解っている為、なるべく機嫌を損ねないよう次々と知っている情報を出す情報屋だったが、先程まで金歯を出して笑みを浮かべていた男の顔からは表情が消えていた。
言うなれば不機嫌、と形容するのが最も近しいのだろう。その証拠に碇の握る受話器が握力によって少し軋みを上げている。
「解らん解らんばっかり言いよって。使えん駒はいらんぞ雌狐」
『待って。もう一つ。情報はもう一つあるわ』
碇の声のトーンの下がりように電話越しだというのに全身に緊張が走って、やや焦った様子で情報屋は言葉を紡いだ。
『貴方の組が一枚噛んでるあのビル。蛇蛾樂くんが兵隊を送ったのはその場所で、其処に今、彼も居るらしいわよ』
「彼?」
情報屋の勿体ぶった言い方に再び苛立ちを抱きかけた碇だったが、次の瞬間耳に入った名前を聞くなり、その眼が唐突に見開かれた。
『青州会元構成員━━眞殿隆一』
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居炉仔町、最北端━━十王字ビル。
オープンから3週間。都市の最北端に位置していながら、其処は正しく街の中心と形容していいほどの賑わいを見せていた。
雑貨、娯楽、飲食など、人々が求める大概なものを内包したそのビルは、もはや天空へと続く歓楽街と言っても差し支えないだろう。
例えるならば人々の欲望という名の蜂蜜を集めた巨大な壺であり、当然ながら其処には大量の蜜蜂、つまりは人が流れ込んでくる。
何百という人が一斉に動いている様は圧巻であり、よっぽどの観察眼を持っていたとしても、この中から探し人を探し当てるのは相当な労力を必要とすることだろう。
つまり、逃亡者が隠れるにはうってつけの場所というわけだった。
2階洋服売り場。
別段用があったわけではなく、数ある入り口の1つからふらりと真殿はこのエリアに足を踏み入れた。
どうやら今居る場所は婦人服が売っている店が立ち並んでいるらしく、ザンギリ頭に汚れだらけの服の真殿は人の目を集めた。
━━騒ぎになるのはまずいか。
いくら追手の目を誤魔化せるとはいえ、カモフラージュの周りの客達に騒がれては意味もない。
なるべく目立たないように人目のつかない場所に移動しようと踵を返した真殿だったが、頭の中が逃げることでいっぱいだったせいか、背後に迫る歩行者に気が付かなかった。
「おっと!」
振り返った矢先にぶつかってしまったものの、衝突相手の身体が軽かったおかげもあって真殿はバランスを崩さず、咄嗟に手を伸ばして相手の腕を掴むことができた。
結果、衝突相手に見たところ怪我は無さそうだったのだが、その姿を見て真殿は一瞬だけ目を丸くした。
━━金髪の、女……軍人?
刑務所に入る前から秋葉原かそこいらには流行りのアニメだか漫画を真似てこんな格好をする奴らが居たなと記憶の中の思い出に浸りつつも、なるべく相手に負荷が掛からないように真殿は掴んだ腕を引き上げた。
「悪い。考え事をしてよそ見しちまってたみてぇだ。怪我はねぇか?」
「オゥ……ダイジョブデス。ゼンポウフチュウイ、オタガイサマ。ワタシモワルイコワルイコデシタ」
丁度、真殿の胸板にぶつかった額を擦りながら金髪の女軍人は照れたように笑顔を浮かべる。身体のラインが出にくい軍服を着ていても解るグラマラスな体型や、唇下の艶ぼくろなど大人びた顔立ちに比べてその笑顔は随分とあどけない幼さを醸し出していた。
本当に怪我が無いか一応目視で確認すると真殿はその場から立ち去ろうとしたのだが、通路奥の階段から何か叫ぶ声が聞こえた途端、軍服女が慌てて背後に回り込んできた為身動きが取れなくなる。
「おっ、おい!」
「そ、ソーリー!デモスコシダケ……オセナカ、オナガシシマス?」
「意味がわからん……」
日本語があまりよくわかっていないのか。頓珍漢な言葉を放つ外国人に頭を痛めていたのも束の間。
奥の階段から聞こえてきた声は更に大きくなり、やがてその主と思われる黒服の男達が必死な形相である単語を何度も叫びながら走って行った。
その内の1人が真殿の背後に立つ女に視線を向けたかと思ったが、すぐに視線を外して同じ様に走り去っていった。
やがて場から取り敢えず騒がしい声が遠ざかると、金髪の女軍人は真殿の背後に隠れるのを辞めて、勢い良く頭を下げる。
「タスケテイタダキ、アリガトウゴザイマス」
「俺は何もしてねぇよ。それよりさっきアイツらが言ってのは」
そこまで問い掛けて真殿の言葉は一旦、1階から響く轟音によって掻き消された。
真殿達のすぐ後ろには1階と吹き抜けになっており、手摺を越えて覗き込むと1階ホールの様子が容易に見える。
何の騒ぎだと内心疑問を抱いた真殿だったが、一目すれば何故沸き立っているの理解ができた。
何しろ御丁寧に書かれていたのだから。
大勢の人々が集まるホール、集まった子供達と触れ合う奇妙なタコの着ぐるみ、そして巨大な看板に書かれた『満員御礼全国ツアー』の文字。
出所したての真殿の預かり知らぬことではあったが、東京を代表する巨大経済建築物の1つである十王字ビルではこの日ある映画のイベントが行われていたのだ。
それもただのイベントではなく、映画を見る前に昼はキャストや制作陣のトークが聞けるという、ファン御用達のイベント。
「……そういうことか。アンタが『監督』って叫ばれながらさっきの黒服共に追われていた理由がわかったぜ」
したり顔で指摘する真殿。
一方まんまと正体を暴かれた金髪の女軍人は恥ずかしさで涙目になって、その青少年の教育上宜しくない凶悪な身体を真殿に押し付けながら必死に懇願する。
「オネガイシマス!スタッフニハ、イワナイデ!」
「だとしてもなぁ。アンタ、あそこに行かないと行けないんじゃないのか?」
深入りするつもりは無かったが元来の人の良さのせいだろう。思わず不良少女に帰宅を促すような調子で話かけた真殿に女は弱々しくも首を縦に振った。
「デモ、モウスコシ、ニホンデアソビタイデス」
「イベントが終わってからじゃ駄目なのか?」
「ノー!スタッフ、ユルシマセン!メイドノミヤゲモユルサナイ!」
「だからさっきから何か微妙に言葉の使い方が違うんだが……」
困ったように頭を掻きながら真殿は視線を逸らす。
このまま彼女と行動を共にしても良いことは無い。それどころか、追手に彼女の存在を誤解されて、危険な目に合わせてしまうかもしれない。
日本の観光を楽しみにしてくれている女性を助けたいと思う反面、例えこの一時だけの関係でも見知った女性を危険な目に合わせたくはないという良心。
複雑な感情を懐きながらやはり断ろうと唇を動かしかけた真殿の耳に入りこんできたのは、全く予期していなかった不幸そのものだった。
『繰り返しますが速報です。本日正午頃、居炉仔刑務所で殺傷事件があった模様です。容疑者の1人は軽自動車を乗り捨てた後未だ逃走中。乗り捨てられた軽自動車からは重症の男が警察によって保護されており、男が指定暴力団青州会の関係者であることから警察は暴力団組織の抗争を視野に入れてます』
あまりにも聞き覚えのある惨状。
耳で聞いただけだというのに、酷いデジャヴに襲われながら真殿の両目は2階の壁に備え付けられた液晶テレビへと移り、そしてそこで自分と全く同じ顔と目があってしまった。
『容疑者は真殿隆一元受刑者。容疑者もまた青州会の関係者であり、警察は全力で行方を追っているとのことです』
自分が容疑者になっていた。
真殿そのものが引き起こしたわけではないが、出所した直後に銃撃戦を行ったのだ。元々の職業もあって疑われても仕方ないと思うが、まさか全国ネットで顔写真まで流されているとは思わなかった。
真殿は今、顔を前に向けられない。
きっと位置的に金髪の女も液晶テレビは見えている。だとすればいくら日本に疎い外国人とはいえ、目の前の男が指名手配犯であることぐらい理解しているはずだ。
どうするべきか。悩みながらゆっくりと首を元に戻し始めた真殿の視界が頭上から飛来した何かによって一瞬で奪われる。
何事かと焦って頭に被せられた物を触る真殿だったが、すぐにその正体は気がつくことができた。
帽子だ。目の前の金髪女が軍人の仮装の一片として着用していた何処の国のモデルかもわからない軍帽子。
「フフフッ。ミズクサイコト、アメノゴトシデハアリマセンカッ」
相変わらずわけの分からない日本語を使う女を訝しげに思って帽子の鍔を上げると、其処には何処か嬉しげな満面の笑みを浮かべた銀髪女が仁王立ちをしていた。
「アナタモビックスターダッタノデスネ! ソレデヌキアシシノビアシ! リカイシマシタ! ソレデハワタシタチ! フレンズデス!」
「あ?いや、おい」
「サァ! イキマッショウ! ツマラナイヒャッキヤコウナンテスコシホウッテオイテ〜! ドリームノタビヘゴー!!」
一体何処をどう見ればテレビに流れる指名手配犯出没の警告が、有名人出没の吉報に見えるのか。
全く理解できないままこの後少しの間、真殿は見知らぬ外国人女性映画監督と出所後初の『デート』に洒落込むこととなった。
結局。十数年の投獄生活を経て漸く娑婆の空気を吸えた極道が辿り着いたのは、見知らぬ外国人美女の道楽に付き合わされるというとんだ珍道中だった。
ゲームセンターに玩具屋に喫茶店に洋服屋。
追われる身でありながら色んな場所に連れ回れされた真殿の表情には疲労の2文字がまざまざと浮かんでおり、せっかく手に入れた新しい服も至る所を引っ張られて草臥れてしまった。
まぁ、汚れ塗れの衣服のままでは目立ってしまうと新しい服を買ってくれのも、皺だらけにしたのも金髪の女なので文句は言えないのだが。
そもそも服装が目立つ点で云えば彼女こそそうだと思ったところ、まだ自分が連れの名前を聞いていない事実に気が付き、真殿は一足先に階段を昇る彼女の背中に問い掛ける。
「で、アンタ。名前は何て言うんだ?」
「アンジェラデス!アナタノオナマエハ!?」
階段上で危なかっしさなど微塵も感じさせない器用なターンをして屈託の無い笑みで問いを返してくるアンジェラに、半ば真殿も気を許し始めて拒むことなく唇を動かした。
「真殿だ」
「マデーェン?オカワリナオナマエデ」
「確かにな。で、もう1つ聞いていいか監督」
不思議とアンジェラはそう呼ばれると頬を膨らませて不機嫌になるのだが、真殿もそれが少し面白くて訂正せずそのまま問を投げ掛ける。
「そろそろ戻ってもいいじゃないか?」
「ッ。オナマエキケバ、キリステゴメンデスカ?」
唇を尖らせて俯く姿は、まるで半べそをかく子供のようにも見える。見方によってはアンジェラの美貌を鑑みて蠱惑的にも見えるかもしれない。
しかし、恐らく目の前の女性よりも2倍近い年齢の五十路手前の真殿には、人種は違えどやはりべそをかく少女にしか見えず、垂れ下がった眉をしている頭を優しく撫でた。
「お前を待ってる奴らが大勢居るんだろ。だったら行ってやるべきだ」
「デモ」
「息抜きには十分付き合ってやったつもりだぜ」
真殿の押しの一言。それに納得したのか、アンジェラはそれ以上駄々は捏ねなかった。
最初は弱々しく頷き、しかしすぐに彼女らしい満面の笑みを浮かべると自分よりも遥かに巨大な真殿の手を両手で握って上下にブンブンと回す。
「マデーンサン! ホントニ、アリガトウゴザイマス! マデーンサンハ……エト、ニホンニキテカラ、『ゴニンメ』ノオトモダチデス! コノゴオンハイッショウオワスレシマセン!」
「おう。行ってこい」
「ハイ!」
万人を照らす太陽のような笑み。誇張無くそのように思い、面白い出会いをしたと自然と微笑を浮かべる真殿。
そのまま感慨な気分になってニヒルな笑みを浮かべてエレベーターに乗る彼は気が付いていなかった。
乗る前は確かに今居る『5階』から『1階』へと下ると表示していたエレベーターの表示が。
まるで真殿が乗るのを待っていたかのように、彼が足を踏み入れた途端、その表示を大きく変える現実に、男は気が付いていなかったのだ。
そうして意図せず老齢の極道は天上へと押し上げられていく。
行く先は十王字ビル最大の目玉。このビルを作ったオーナーが最も拘り、資金を注ぎ込んだという空中の花園。
即ち、『屋上庭園』へ。
屋上のテラス。
流石の高度というだけあって、都会という割には空気が澄み切っており、何処かに空調機能を備えているのか真夏の屋外だというのに不思議と全く不快感を感じさせない。
テラス全体に続く芝生とその他の植物達は見るものに幻想的な感覚を抱かせる。
桃源郷というよりは幻想郷、空中庭園と呼称するのが最も親しいかもしれない。
しかし、非現実的な美しい空間である反面、十王字ビル内部の賑わいに比べれば些か此処は人通りが少な過ぎるようにも感じる。
別段、此処に登ってくるまでの間『屋上立入禁止』と書かれた看板を目にしたり、係員とすれ違っても注意されたりはしなかったので、眞殿は自分が立入禁止エリアに踏み込んだという不安は無い。
それに、追われる身である眞殿からすれば人通りが少ないのはむしろ好都合。安心して内ポケットから煙草を取り出そうとしたのだが、当然ながら出所と同時に逃亡撃を繰り広げた元囚人が煙草など持ってる筈もなく。
己が長らく忘れていた『習慣』を無意識に行ってしまったことに微妙な気分になっていると、不意に背後から此方を呼ぶ声がした。
「あのアンタ。もしかして煙草探してんのか?」
振り返ると、其処には小汚い作業服の男が立っている。
隈や手入れさせれていない髭など、疲れ切った表情から一瞬老人かと思ったが、よく見るとそれ程歳は取っていない。
それどころか自分よりも歳下だろうなと、筋骨隆々とした肉体のせいか年齢よりも若く見られる四十代後半の眞殿は内心分析をする。
「ああ。いつもは持ってるんだが、車の中にでも忘れちまった」
流れるように嘘をつぎながら眞殿は目の前の男が煙草を差し出して来るのを待った。
案の定、終始沈鬱な顔色ながら人の良さそうな作業服の男は安物の銘柄の紙箱から煙草を一本取り出すと、先を摘んで眞殿に差し出す。
「よかったら。もう俺には必要ないから」
差し出された煙草を素直に受け取り、作業服の男が続けざまに親切にも貸してくれたライターで火を付ける。
吸ってみると随分と懐かしい味がした。
投函される前に吸っていた物とは銘柄も風味も違うが、煙草という概念が人に感じさせる根本は変わらない。
肺の中に溜まっていく生暖かい感覚。口内に残る余韻すらも懐かしい。
「美味い。ありがとよ」
「いいさ。丁度最期の1本だったんだ。これも何かの縁さ」
そう言って空の紙箱を片手で潰す作業服の男の顔は、やはり晴れない。
何処か物憂げな表情である男に、眞殿は先程の聞いたばかりの不可解な言葉を思い出し、両方を合わせた疑問を口にする。
「豪くわけありげだが、何かあったのか?」
「いや……まぁ。うん」
歯切れの悪い返答。
これは他人においそれと言えない事情があるのではないかと、眞殿が気を遣って話題を変えようとしたのも束の間。作業服の男は不意に歩き出すと空中庭園の外壁を覆う硝子の壁の前まで進んで行く。
その光を反射させない黒い眼が硝子の壁、ひいてはその遥か下の地上を見つめており、眞殿の頭に嫌な予感が走る。
まるで映画を見ている時にお気に入りの登場人物が話から退場するのを感じ取ったようだ直感。
「お前。まさか死ぬ気か?」
「……」
作業服の男は肯定も否定も口にしない。ただ、硝子の壁に手を置くその背中はあまりに弱々しく、まるで今にも泣き出しそうな子供の背中を見るようだった。
「言葉じゃ言い表せないほど辛いことが沢山あって……それで、俺は」
自殺に思い立った。そう口にできない理由を眞殿は知らない。
誰もに辛いことがある。大なり小なり、それこそ千差万別。
だから、此処で知ったような口を叩くべきではないのだろう。簡単に同調したり、自分のことを棚に上げて説教をするのは何か違うと感じたのだ。
少なくとも、人を殺して刑務所に入っていた自分が他人に説教をするのは筋が通らない。それが、眞殿の考え方だった。
「死のうが生きまいがお前の人生だ。好きにしたらいいさ。――ただ」
与えられた貰い物の煙草を深く吸い込み、眞殿の視線は上を向く。
青空に飛び交う白い鳥の名前を眞殿は知らない。
しかし、それらが美しいということも、それを堂々と見れるこの場所が快適だということも理解している。
「こんな気持ちの良い場所で死ぬのは勿体無くねぇか?」
「……気持ちの悪い場所で死ぬよりかは、気持ちの良い場所で死んだ方が良いと思いますけど」
「それはそうだがな。こんな場所に居る時は楽しいことするもんだろ。酒飲んだり、ダチと喋ったり、こいつを楽しんだり」
足元の煉瓦の道に灰を落としながら、振り返った作業服の男に向けて真殿は煙草を掲げる。
静かに笑うの口元には話を聞く者の意識を引き寄せる凄みがあった。
「だから勿体無ぇって言ったのさ」
「そんなこと医者に言われ飽きました」
「ははっ、だろうな。そんな顔してるぜアンタ」
自分から自虐した筈なのに、他人に追求されれば途端に自分の不幸が更に息苦しく感じる。
自分自身のせいでこの楽園のような場所が気不味い雰囲気に包まれている状況に罪悪感すら抱く作業服の男。眞殿はそんな男の心境を知ってか知らずか、突然立ち上がると、羽織っていた上着を脱いで赤のYシャツの裾を捲り始めていた。
露出された丸太のような筋肉の塊に作業服の男は目を丸くする。素人目ではあるが、何かのスポーツで作り上げられる筋肉の形には思えなかった。
あれはそんな健康的な物ではない。作業服の男の警戒レベルが急速に跳ね上がる。
つい先程まで気楽に喋っていた筈の相手が、まるで今では別人のように感じる。それ以上に、軽く肩を回す男の背中はもはや同じ人間とすら思えなかった。
「アンちゃん。名前は?」
「えっ。あ、えっと、霜北、です」
「そうか。じゃぁ霜北。絶対に其処から動くなよ」
一瞬本気で目の前の男が何を言っているか解らず混乱する霜北の視界に、次の瞬間更なる混沌の使者達が現れる。
服装は様々。しかし、こののどかな庭園を直通エレベーターに乗って一瞬で埋め尽くした男達の手にはそれぞれ凶器が握られている。
金属バット、ナイフ、スタンガン、エアガン。中には鎖鎌などという古風な武器さえ持ち出している者さえ居て、その中心に立つ眞殿はその表情から笑顔を消して勇ましい覇気を周囲に撒き散らす。
「てめぇら。何処の鉄砲玉だ」
言葉で応える者は居ない。
返答は、何処からか投擲された硬球によって返されたのだから。
「ッ!危ない!!」
霜北の悲鳴も虚しく高校球児に勝る勢いで投擲された硬球は眞殿の後頭部を砕くかと思われた。
しかし、そうはならない。そうはならなかったのだ。
「━━シュッ」
振り返りもせず。弾道も距離も速さも何もかも確認せず。
眞殿は僅かに身体を後方に仰け反らせると、何と片手で豪速球を素手で掴んだ。その上で、痛みなど微塵も感じていないと言わんばかりの素っ気ない態度で硬球を地面に転がした。
「当たったら、危ないな」
人間離れした男にこの場に居る誰もが息を呑み、同時に直感していた。
この場に居る全員が束になってもこの男には勝てない。
熊や狼などを前にしたどころではない。鬼や竜などの絶対に人間が勝てはしない相手を前にした絶望的な気分。
しかし、突然現れたチンピラ集団も何か引けない理由があるのか武器を地面に捨てようとはせず、未だ数の暴力の優越感に判断を任せて戦うつもりでいた。
そんな相手に真殿も溜息を吐きながらも構えを解こうとはしなかったのだが、少しするとチンピラ達の代表角らしい青年が前に出て来る。
「ちょっと待った。待てよ。おっさん。俺らが用があるのはアンタじゃねぇ」
先程の真殿の人間離れした芸当に流石に度肝を抜かれたのだろう。
彼にしては━━サカキ ジュンイチロウにしては珍しく、感情に任せない冷静な対応で先頭に立つ青年は初対面の男に声を紡ぐ。
「アンタの後ろの小汚えオッサン。そっちが俺らの目的なんだよ。そいつ連れてったらさっさと引き上げるからよ」
「霜北に何の用だ」
知り合ったばかりとはいえ、知り合いは知り合い。
いきなり襲撃を仕掛けてくる相手に、はいそうですかと引き渡せるわけもなく、不審に思った真殿は当然のように疑問を投げかける。
それが未だ若いままの精神の青年の感情に火を付けた。
「あぁ?そんなのてめぇには関係ねぇだろがっ。こっちはイライラしてんだよ。さっさとそのおっさんで憂さ晴らししねぇと気が済まねぇ」
「持ってる物といい、随分と物騒だな。こっちの質問に何も答えないのならはいそうですかと引き渡せるわけがねぇ。失せろ」
「あぁうるせぇっ……うるせぇなぁったくよぉっ!!どいつもこいつもどいつもこいつもぉ!!」
唐突に激昂したサカキが右手に持った拳銃を振り上げるようにして真殿に向ける。
霜北のような一般人からするとサカキのような街のチンピラが実銃を持っているとは考えられなかったが、元極道の真殿は一目見ただけでそれが本物の拳銃だと理解し、眉間に皺を寄せた。
「……おい。そんな物、何処で手に入れた」
「質問ばっかでうるせぇおっさんだなぁ!!ゴタゴタ言ってねぇんで後ろのおっさんをさっさと寄越せ!!」
「な、何でオレがお前らみたいな奴らに襲われないといけないんだよ!!」
いい加減この緊迫した空気に嫌気が刺したのだろう。
日常から乖離した現状にそれまで黙ったままだった霜北が震えた声で叫ぶと、サカキは苛立たし気な表情で漸く理由を口にし始めた。
「……そんなにてめぇが死ぬ理由が知りてぇなら教えてやるよ、おっさん。半分はてめぇを半殺しにすれば報酬を支払うって言ってきた胸糞悪ぃ男がいたから。もう半分は……」
続く言葉と同時に、穏やかな日常を払い除けるように爽やかなビルの屋上に銃声が響き渡った。
「昨日、てめぇの娘と、主にそのダチにボコボコにされた俺らの恨みだ!!ボケ!!」




