第一章 第二話 異端の報告書
異端の神官、ユーグ・リンデ。俺は今、貴族の坊ちゃんに雇われようとしている。
「私を、雇う?」
「はい。あなたがクィルタース神の敬虔な神官であることは重々承知しております。大変真面目に日々の勤めを果たしておられることも。けれど、どうかしばらくの間、ぼくらにその知識と知恵をお貸しいただきたいのです」
ヤトゥリウスは、期待に満ちた眼差しで俺を見つめた。
青い光がきらきらとまたたく黒い瞳の中に、口を半開きにした、情けない顔が映りこんでいる。珍しくもない茶髪に茶色の瞳。母親似の、どこにでもいそうな顔。こんな綺麗な目に映るにはあまりにも平凡で、申し訳ないような気さえする。
そんな俺を、雇う?
本気なのか?
……からかわれているんじゃないのか。
思考がそのまま顔に出ていたらしい。ヤトゥリウスは身を乗り出すと、その端麗な顔をぐっと近付けてきた。
「念のため申し上げておきますが、冗談やでまかせではありません。ぼくらは本気であなたを雇いたいと考えています」
近い近い!
俺が思わず身を引くと同時に、クソ従者のわざとらしい咳払いが聞こえた。ヤトゥリウスは数回まばたきをすると、はっとしたように目を見開き、姿勢を戻す。
「……失礼しました。ですが、本当に、からかっているわけではないんです」
揺るぎない意思の宿った目。
相手の心の奥底まで見通すような。
——本当に、本気なのか。
最初の衝撃が落ち着いていくにつれ、俺はひとつの疑問が胸の内で膨らむのを感じた。
「……どうして、私を?」
教会には、俺より優秀な神官はいくらでもいる。教義に忠実で、余計なことを考えず、素直に祈りを捧げられる"ちゃんとした"神官が。……なのに、どうして俺なんだ?
ヤトゥリウスは、静かに微笑んだ。
「あの上奏文を書いたのが、あなただからです。小宝珠への祈祷時間の短縮、あるいは不要の可能性を論じたあの上奏文です」
ほ、本当に読んだのか、あれを。
俺ですら、もう原本も持っていないというのに。
苦さと、ほんの少しの懐かしさが胸を締め付ける。
俺が押し黙ると、何を思ったか、ヤトゥリウスは唇を引き結んだ。膝の上に置いた手を握りしめ、硬い声で語りだす。
「……これはまだ、王家と宝珠守りの二家しか知らない極秘情報なのですが……」
「ちょっと待ったぁ!」
「ヤトゥリウス様!?」
俺とクソ従者の叫び声が見事に重なる。
待て待て待て、この貴族様、今なんつった!? 王家と宝珠守りの二家っつったか、おい!?
王家といえば、当然この国を治めるオルム王家のことだ。そして宝珠守りの二家といえば、大宝珠のアルヴェオン家、それから——小宝珠のニウェーウス家のことに他ならない。王家と、国の魔法的守護を担う二家しか知らない極秘情報。そんなもの、危険に決まっている。絶対知りたくない。
「そこまで話すのは早計では? コイツがどんなヤツかもまだ分からないんですよ!?」
クソ従者が慌てて俺たちの間に割って入り、ヤトゥリウスを軽々と抱え上げてソファーに戻す。なんだこいつ、顔の割にすごい力だな……。
「でもエリオ、人を雇おうというのに仕事の中身を隠したままというのは、誠意がないんじゃない?」
「ご自分でおっしゃいましたよね!? 極秘情報だって! 極秘情報というのは、誰にも漏らしてはいけない情報ってことですよ!」
そうだそうだクソ従者、お前の言うことは全て正しい!
いまだ絨毯の上の俺が激しく首を縦に振ると、ヤトゥリウスは俺と従者を交互に見て、眉尻を下げた。
「でも、嘘をつくのは良くないよ」
「ただ言わないだけなら、嘘ではありません! 大体、コイツが断ったらどうするんです? ……いや、まあ、その時は僕とガルドでなんとかしたらいいか……」
聞き捨てならん呟きが聞こえたのだが。なんとかってあれか、冥府送りにするつもりだな!? そんな極秘情報、ますます聞きたくないぞ!
不敬でも構うものか、俺は咄嗟に両耳を塞ごうと手を上げ——。
「だって、問題は小宝珠の異変についてなんだから、そこを隠してしまったら……」
「ヤトゥリウス様!」
従者の悲鳴。
「……あ」
ヤトゥリウスは、ぱちりと目をまたたかせた。
それから、俺を見る。
俺も、ヤトゥリウスを見る。
「…………」
「…………」
「……今、なんと?」
「ええと……実は、各地の小宝珠に、異変が起きているんです」
視界の端で、従者が頭を抱えて悶絶する。
「言っちゃった! お父上に極秘って言われたでしょう!」
「でも、彼を雇おうというのに、そこを隠したままじゃ納得してもらえないよ」
言い合う二人を前に、俺は呆然としていた。
小宝珠に、異変。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
「……異変とは、どういうことですか」
気付けば、俺はそう尋ねていた。
ヤトゥリウスと従者が、揃ってこちらを見る。
従者は「本気かコイツ」という顔で俺を睨んでいたが、ヤトゥリウスが片手を振ると、あっさりと引き下がった。次いで、ヤトゥリウスは俺にもソファーに戻るよう、目線だけで命じる。
俺が急いで元の位置に戻ると、彼は身を乗り出すようにして語り始めた。
「実は、小宝珠の魔力が、これまでとは違う動きをしているんです」
その瞬間、俺の背筋を冷たいものが走った。
「……違う、動き?」
「はい」
ヤトゥリウスは、今度こそ慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「聖典の通りに祈祷を行っているにもかかわらず、小宝珠への魔力の集まり方に、これまでにはなかった変化が見られています」
俺は黙り込んだ。
それは、俺が窓際に追いやられる原因となったあの上奏文の、まさに核心に触れる事態だったからだ。
小宝珠は、大宝珠から届く魔力を受け止め、周囲に結界を生じ、維持する宝珠だ。神官が毎日、決められた手順で祈祷を行うことで、結界は安定する。
聖典にそう記され、この国の人間なら子どものうちに学ぶ。少なくとも、そう教えられている。
だが、俺は疑問に思った。
本当に、祈祷が必要なのか。
小宝珠の結界の維持に、神官の祈祷は必ずしも必要ではないのではないか。
だから調べた。そうして、上奏文を書き上げた。教会を貶めるつもりなんて、これっぽっちもなかった。……それを「異端」呼ばわりされたあげく、窓際に座らされることになるなどと思いもせずに……。
「……どうして、そんなことに?」
「それが、分からないのです」
ヤトゥリウスは、心苦しそうに眉を寄せた。
「この件をぼくらが知ったのは、およそ半年前のことです。エリオ、資料を」
ヤトゥリウスの背後で天を仰いでいた従者が、素早く数枚の紙を俺に突き出す。怒っているというより、もはや諦めたような表情をしていた。
すぐに資料に目を落とす。異変発見の経緯がまとめられた一枚目を読もうとして、ふと二枚目へ目が滑った。【異変報告のあった小宝珠一覧】と題されたそれは、いや、いやいや、ちょっと待て、なんだこれは——?
ヤトゥリウスの玲瓏な声が補足する。
「半年前から、いくつかの小宝珠で、それぞれ異なる問題が発生しています。そちらが一覧です」
いくつか、という数ではなかった。地方教会の名前が、有名どころから知らないものまで、紙面いっぱいにずらりと並んでいる。三枚目も……四枚目も同じだった。たった半年の間に、こんなに異変が起きているというのか。
「多すぎる」
思わず漏らした言葉に、ヤトゥリウスは厳しい表情で頷く。
「一つ一つは些細な異変なのですが、これだけの数が同時にとなると、看過できません」
ヤトゥリウスは資料に視線を落とし、硬い声で続ける。
「幸い、今のところ、大宝珠側には異常はありませんし、いずれの小宝珠も現地での調律によって落ち着いたとのことです。結界に目立った乱れが生じたという報告もありません。少なくとも、現時点で差し迫った危険があるとは考えていません」
そこで一度言葉を切り、彼は再び俺を見た。
「ですが、異変そのものがなくなったわけではないのです。調律で抑えられているからといって、この先も同じように対処できるとは限りません。だからこそ、今のうちに、秘密裏に原因を突き止める必要があるのです」
「なぜ秘密に? こんな重大事変、すぐにでも全教会、いや国民に通知して、対策を取るべきで……」
俺なんか雇って調査などしている場合ではない。小宝珠の異変は、結界の異変に直結する。今は大丈夫だと言うが、この先、もし結界が消えるようなことがあれば、被害を被るのはその地域に住む人々だ。一刻も早く報せて、当該地域から退避を——。
……いや。
そうか。
そういうことか。
俺が口ごもるのを見て、ヤトゥリウスは目を細めた。
「お気付きの通りです。もし、原因も特定できないまま、『各地の小宝珠に異変が起きている』などと公表したら……」
「……この数だ。大混乱が起こるでしょうね」
俺は呻くように答えた。
王都からそんな通達が届けば、商人は荷を止め、旅人は道を変え、農民は収穫を急ぐ。人々は、住む場所を変えようとするだろう。原因も、対策も分からないとなれば、教会には人が押し寄せ、不安と憶測が広がる。そうなれば、国は不安定になり、最悪の場合……王政そのものを揺るがしかねない。
「それだけではありません。この機会に乗じて、悪行を働こうとする者が出るかもしれません」
かもしれないというより、確実に出るだろう。
この国がこの地で千年にわたって繁栄し続けられたのは、大宝珠の大結界と、小宝珠の結界の守りがあったからだ。それが崩れればどうなるか——。
「だからこそ、ぼくらは、この異変が各地で起きていることを、教会上層部に……そして大教主様にはお伝えしていません。少なくとも、原因と、今後起こりうる事態を把握してからでなければ」
ヤトゥリウスは言葉を切ると、物憂げにため息をついた。
なるほど、この言い方。教会上層部——というより、大教主は蚊帳の外というわけか。
……当然と言えば当然かもしれない。あの大教主がこのことを知ったら、大混乱どころではすまないのが目に見えている。
だが、いつまでも隠しとおせるものではないはずだ。できるだけ早く調査を進めなくてはならないだろう。
「……なるほど。だから、私を誘拐したんですね」
俺が苦々しく呟くと、ヤトゥリウスは目を丸くした。
「誘拐……?」
……おい。
おい、まさか、自覚がないのか?
「おや、穏便にお連れしたつもりですが」
従者が涼しい顔でうそぶく。
……このクソ従者、穏便の意味を辞書で引いてこい!




