第一章 第三話 窓際神官、雇用される
平民出の神官、ユーグ・リンデ。俺は今、依頼を断ろうとしている。
クソ従者のせいでぶり返した怒りをどうにか抑えこみ、目の前のヤトゥリウスへ視線を戻す。
「……話は分かりました。つまり、あなた方は私を雇って、小宝珠を直接調べに行かせようというわけですね」
「そうです。お引き受けいただけますか」
俺の苛立ちに気付かず、ヤトゥリウスは嬉しそうに顔をほころばせた。
あまりに純粋そうな笑顔に、一瞬、怒りが揺らぎそうになる。いや、絆されるな。コイツは大貴族アルヴェオン家の次男坊で、俺は——俺は、しがない平民出の窓際神官だ。
「いいえ、お断りします」
静かに首を横に振ると、ヤトゥリウスは息を呑んだ。
「な、なぜですか」
「私は窓際とはいえ、神官です。日々の勤めも、私に割り振られた仕事もありますから。……あの上奏文を評価してくださったことには感謝いたしますが、所詮は異端とされた思想です。あんなものを書いた人間などお雇いになっては、アルヴェオン家の名に傷がつきかねません」
俺は居住まいを正すと、深々と頭を下げた。
「お役に立てず、申し訳ありません。この件は、無かったことに」
沈黙が落ちた。
クソ従者あたりが怒りだすのではないか——そう身構えていたが、なぜか何も言わない。
静かだった。
誰でもいいから、せめて呆れてため息をつくなり、怒って暴言を吐くなりしてほしい。
けれど、静けさの果てに聞こえてきたのは、小さな笑い声だった。
「あなたは、本当に真面目な方ですね。伯父上のおっしゃった通りでした」
そろそろと顔を上げる。
ヤトゥリウスは、微笑んでいた。
「ひとつ、お伝えしておきます。家名のことなら、ご心配には及びません」
微笑んだまま、ヤトゥリウスは穏やかに、けれどきっぱりと言った。
「アルヴェオンはそんなことでは傷つきません。それに、もし傷がつくことがあっても、それはぼくが負うものです。十五歳という若輩の身ではありますが、その覚悟はできています。あなたが気にすることではありません」
その言葉に、俺は思わず口をつぐんだ。
十五歳の少年が、家名の傷は自分が負うと、こうもあっさり言い切るとは。しかも、彼が背負っているのはアルヴェオン家——王国屈指の名門貴族だ。その重圧は、俺にだって想像できる。俺が窓際に追いやられたことで失ったものなど、彼が背負うものに比べれば、取るに足らないのかもしれない。なのに、目の前の少年は、それを当然のことのように引き受けようとしている……。
ふと背後の従者に目をやると、笑みを崩さないまま、ほんの一瞬だけ視線を落としたように見えた。
……気のせいか?
俺が黙っていると、ヤトゥリウスはそれを了承ととったのか、微笑んだまま再び口を開いた。
「実は、あなたをお連れしたのは、あの上奏文だけが理由ではないのです。……シルヴェウス伯父上の、強いご推薦があったからなのですよ」
……シルヴェウス?
……ものすごく、聞き覚えがある名だった。
教会に属する者にとっては、ある意味アルヴェオン家より身近で、敬うべき御方と同じ名前だ——。
「ぼくらアルヴェオン家と対を成す、ニウェーウス家の当主。シルヴェウス・ニウェーウス伯父上のご推薦です」
俺は危うくソファーから転げ落ちそうになった。
シルヴェウス・ニウェーウス。
小宝珠の守護を担う、ニウェーウス家の現当主だ。
教会に属する者で、その名を知らない者はいない。
そもそも、すべての小宝珠は、かつて初代ニウェーウスが作り出し、各地に置いたものだとされている。教会は、その管理と維持を任された組織でもある。
つまり、教会にとって小宝珠は、守るべき聖物であると同時に、ニウェーウス家から預か
ったものでもあるのだ。
教会最高位の大教主ですら、ニウェーウス家の当主に対しては、相応の敬意を払う。それほどの御方だ。
俺にとっては、雲の上どころか、雲のさらに上にいるような存在である。
「……なぜ、シルヴェウス様が?」
ようやく絞り出した声に、ヤトゥリウスは笑みを深くした。
「ぼくらにあの上奏文を見せてくださったのは、伯父上なのです」
な。
なんだって?
シルヴェウス様が、どうやってあれを!?
「伯父上は、あなたのことを、とても高く評価しておられます。教会では、受け入れられなかったようですが……」
あいた口が塞がらない俺に、ヤトゥリウスはそっと告げる。
「小宝珠について、誰もが疑わなかったことを疑い、実際に調べ、上奏文まで書き上げた。その姿勢こそ、今の我らに必要なものである、と」
心臓が、どくりと鳴った。
俺はずっと、自分が間違っていたのだと思おうとしていた。
いや、正確には。
間違っていたことにしてしまおうとした。そうすれば、楽になれたからだ。
聖典にそう書いてある。
教会がそう教えている。
長年そうやって祈られてきた。
なら、疑った俺がおかしかったのだと。
……そう思いこもうとしていた。
けれど。
「シルヴェウス伯父上は、あなたなら今回の異変を調べ、何かを見つけられるかもしれない、とおっしゃいました。調査に同行させるなら、あなたをおいて他にはあるまい、とも」
ヤトゥリウスは、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「だから、ぼくはあなたにお願いしたいんです」
胸の奥で、何かが静かに揺れた。
小宝珠の異変。
祈祷を続けているにもかかわらず、変化していく魔力。
そして、かつて俺が抱いた疑問——結界の安定に、本当に祈祷が必要なのか。短縮可能、あるいは、不要かもしれないという推測……。
もちろん、まだ何も分からない。
俺の上奏文が正しかったと証明されたわけじゃない。小宝珠の異変が、あの時の疑問と関係しているとも限らない。
それでも。
もし。
もしも、あの時の俺の疑問が——いや、そもそも、疑問を抱いたこと自体が間違いではなかったとしたら。
「……参ったな」
思わず、額を押さえる。
ここまで聞かされて断れる神官が、どこにいる?
小宝珠に何が起きているのか。
そして、あの時の俺の疑問は、本当に異端呼ばわりされるほど間違っていたのか。
確かめられる機会が、目の前にある。
知りたい。
確かめたい。
腹の奥底に渦巻いていた怒りや苦しみが、吹き散らされていくようだった。
俺は姿勢を正し、ひとつ深呼吸をしてから、口を開いた。
「……分かりました。お引き受けします」
ヤトゥリウスの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当ですか! ありがとうございます!」
身を乗り出さんばかりの勢いで礼を言われ、俺は思わず面食らった。
そんなに嬉しいものなのか。
ヤトゥリウスは、まるで長年探していたものをようやく見つけたかのように、嬉しそうに笑っていた。
……本当に、参ったな。
こういう顔をされると、どうにも弱い。
いや待て、ついさっき思ったばかりじゃないか——絆されるな、と。いいか、俺。相手は大貴族アルヴェオン家の次男坊で、こっちは窓際神官だ。身分も立場も違う。あまり気安く接していい相手じゃない。俺は雇われる側で、コイツは雇い主。それを忘れるな。
「それでは、明日の朝には出発しましょう」
「…………はい?」
思わず首をひねる。
「ですから、明日の朝です」
「どこへ?」
ヤトゥリウスも、不思議そうに首をひねった。
「……小宝珠の異変を調べに、ですよ?」
「…………」
そういえば。
さっき、何か言っていた。
確か。
――調査に同行させるなら、あなたをおいて他にはあるまい、と。
同行。
その言葉の意味を、俺は今の今まで深く考えていなかった。
「……ちょっと待ってください」
嫌な予感がする。
「まさか、あなたも行くんですか?」
「はい、もちろん」
ヤトゥリウスは、にっこりと微笑んだ。
いやいやいや、ちょっと、ちょっと待て。
てっきり、俺だけが調査に派遣されるものと思いこんでいた。
「な、なぜです? アルヴェオン家は大宝珠守りであって、小宝珠は教会とニウェーウス家の……」
ごほん、とクソ従者のわざとらしい咳払いが割り込む。
「そのあたりのお話は、極秘情報です。後ほどお話させていただきますので」
ぐっ、こ、この野郎……! 後ほどっていつだよ!
どうにも釈然とせず悶々とする俺に、ヤトゥリウスは無邪気に笑う。
「調査、がんばりましょうね!」
「うっ……、そ、そうですね!?」
おい従者、いいのか本当にこれで!?
俺のすがるような視線を受けて、クソ従者は、それはそれは楽しそうに笑った。
「あなたの休暇届なら、提出済みですよ。ご安心ください」
「不安しかないんだが!?」
俺の叫び声が、貴族の屋敷に響き渡った。
こうして俺は、アルヴェオン家の次男坊に雇われることになった。
小宝珠に起きている、不可解な異変を調べるために。
俺とヤトの、忘れがたい微行の始まりであった。




