第一章 第一話 窓際神官、誘拐される
ユーグ・リンデ、三十歳。俺は今日、誘拐された。
「初めまして、ユーグ・リンデ神官」
この野郎、一体どこのどいつだ?
俺みたいな窓際神官を誘拐するだなんて、なんのつもりだ。
……宿舎へ続く道を歩いていたら、いきなり頭から袋を被せられた。抵抗も虚しく馬車に放り込まれて、延々連れ回された挙げ句、ようやく袋を外されたと思ったら、今度は目隠しだ。
その間、俺の丁寧な質問——「クソ野郎!」「犯罪者め名を名乗れ!」「何考えてんだ馬鹿!」——はすべて無視された。殴る蹴るの暴行はなかったが、丁重に扱われれば誘拐されてもいいというものではない。
そうして長々歩かされた末に、やたら座り心地のいいソファーに座らされた。くそ、縛られてるわけじゃなし、こんな目隠しなんて取って——刹那、目の前が突然明るくなった。
恐怖より、怒りが勝る。声の主を怒鳴りつけてやろうと、思い切り息を吸い込む。
けれど、俺の口から漏れだしたのは——。
「あえええ……?」
……世にも情けない悲鳴だった。
目の前に座っていたのは、思いもよらない相手だった。
少年、だった。
年の頃は、十五、六だろうか。さらりとした黒髪に、銀縁の眼鏡。仕立てのいい、濃紺と白を基調とした衣服を身にまとい、静かにこちらに微笑みかけている。
……というか。
綺麗すぎるだろ、こいつ。
シミ一つない白い肌、まるで人形のように整った顔立ち。けれど、真っ直ぐに俺を見る目——その眼鏡越しに覗く黒い瞳の奥底は、午後の穏やかな光を受けて、かすかに青く煌めいている。
……只者じゃないな。
俺は背筋を伸ばした。何者だろうと、やられっぱなしでたまるか。
「……どちら様ですか?」
格好からして、明らかに貴族だろう。というか、この部屋がもう、貴族の屋敷でしかあり得ない。家具も調度品も、安物はひとつもない。座らされているソファーひとつとっても、弾力がある座面の座り心地の良さといったら。俺の給料何ヶ月——いや何年分だか。そもそも、こんな白いソファー、小汚い俺の部屋にはとても置けたもんじゃない……。
少年は、背後に立つ金髪の従者に向かって、嬉しそうに話しかけた。
「ぼくのこと、知らないみたいだよ」
俺より年下らしき従者は、柔和な笑みを崩さぬまま首を傾けた。
「うーん、神官なら知らないはずはないと思いますが……神官だから、あり得ますね」
「どういうこと?」
「研究熱心な神官ほど、世情に疎くなりがちですから」
従者は、しかめっ面の俺に、妙に余裕ありげににっこりと微笑んでみせた。
……なんだコイツは。失礼だな。
二十代後半といったところか。金髪碧眼、腰には細身の剣。この甘ったるい顔で微笑まれたら、若い婦女子なら黄色い悲鳴を上げて喜ぶのだろう。だがあいにくと俺は三十路の男だ。人間、顔より中身であることはよく分かっている。
「で、どちら様なんですか? あなたがたのような人たちに、私のような平民出の神官から得られるものがあるとは思えませんが」
思い切り睨みながら言ってやると、従者はくすくすと笑った。
「おや、ご謙遜をなさいますな神官殿。……いや、異端のユーグ・リンデ」
横っ面をぶん殴られたかと思う。
久しぶりに聞いたその呼び名は、俺をしたたかに打ちのめした。
「……俺は」
きつく握りしめた手に、爪が食い込む。
異端。
俺が窓際神官になった原因の、あの出来事。
それを、こいつらは……知っているのか。
腹の奥が、ずんと重くなる。
俯きかけた俺の耳に、柔らかな声が響いた。
「エリオ、その言い方は失礼だよ」
思わず顔を上げると、少年は、どういうわけか、期待に満ちた目で、俺を真っ直ぐに見つめていた。
「ユーグ・リンデ神官。あの上奏文を書いたのは、あなたで間違いありませんね?」
——上奏文!
「……読んだんですか? あれを?」
あれは、異端思想であるとして、とっくに焼却処分されたはずだ。それを、こいつらはどうやって……?
「はい。とても興味深い内容でした。父上や兄上も、感嘆しておりましたよ」
素晴らしいことのように言われても、誰なんだその父上と兄上というのは。いや待て、まさか、一家であれを読んだのか?
なんなんだ、こいつは。
俺は、改めて少年を観察する。
さっき従者は、「知らないはずはない」と言った。ということは、相当な有名人だ。父と兄がいる裕福な貴族。それも、異端思想として処分された上奏文をどこからか手に入れられる権力がある。しかも、あれが読めて、意味まで理解できるということは、教会の教義にも相当に通じた人間だ。
……待てよ。
俺は、従者の胸元に光る徽章に目を凝らした。
白銀の円珠を、三重の青と銀の輪が囲んでいる。円珠から伸びた四つの細い金の光条が、その輪を貫いている——。
……あ。
俺の視線に気づいた従者は、いたずらが成功したかのように、にっこりと笑った。
恐る恐る、視線を少年へ滑らせる。
さらりと揺れる黒髪。濃紺と白で仕立てられた、上質で滑らかな衣装。格調高い屋敷。教義を理解するほどの知識。そして、あの徽章。
……そうだ、知ってる。
中央教会の祭礼で見かけた、貴族の一家。あの徽章を胸に、同じ紋様を染め抜いたマントを翻して歩く、当主、嫡男、その後ろに、もう一人——。
心臓が跳ねまわる。指先が痺れる。異端などと呼ばれた時より、遥かに胸が痛みだす。
……まさか。
まさかとは思うが、確かめないと、窓際より遠いところへ飛ばされる可能性がある。……冥府とか。
「あ、あの、も、もしかして、や、や、や……ヤトゥリウス・アルヴェオン様でいらっしゃいますか……?」
少年は、にこにこと頷いた。
「なんだ、ご存知だったんですね」
冷や汗がどっと吹き出す。
まずい。
まずいぞ。
焦り倒す俺をよそに、少年は居住まいを正すと、ひとつ息を吐いて堂々と告げた。
「改めて、初めまして。大宝珠と大結界の守護家、アルヴェオンの当主ナディリウスが次男、ヤトゥリウス・アルヴェオンです。どうぞ、お見知りおきを」
「うえええ……!?」
俺はもう喘ぐしかなかった。
アルヴェオン家。
王都を守る大結界と、それを作り出す大宝珠を管理・維持する任を担う、名門中の名門貴族だ。
俺はソファーから素早く滑り降りると、力強く——土下座した。
「大変失礼いたしました! どうか首だけはご容赦ください!」
従者の野郎がブッと噴き出す音がしたが、構っている場合じゃない。
ふかふかの絨毯の上で土下座しても誠意は示せない気もするが、俺はとにかく頭を下げ続けた。
「……エリオ、こういう時ってどうするもの?」
困り果てた調子で、少年——ヤトゥリウスが従者に問う。
「くくっ……ん゙、ん゙ん゙っ。あー、ユーグ・リンデ。ヤトゥリウス様がお困りである。無礼はさておき、ひとまず顔をあげよ」
楽しんでる。
絶対楽しんでやがる、このクソ従者め。
悪態をつきたい衝動を堪え、俺はそろそろと顔を上げた。
「あの、そんなに畏まらないでください。ぼく、怒ってないですから。首にもしないです、いや、できませんし」
困り顔でヤトゥリウスはおろおろと白い手を彷徨わせているが、畏まるなというのは無理がある。
王都守護の要、アルヴェオン家。その家格は王家に次ぐ高さだ。そんな貴族の次男坊に対して、こっちは王都下町の雇われ商人の息子、つまりド平民。
どう考えても、釣り合わない。
「……それで、アルヴェオン家のお方が、私のような者に何のご用でしょうか」
恐る恐る尋ねると、ヤトゥリウスはぱちりと瞬きをした。
「ああ。そうでした」
ヤトゥリウスはソファーから立ち上がると、俺の前まで歩み寄り、ふわりとしゃがんだ。
「ヤトゥリウス様!」
クソ従者が慌てて声を上げたが、ヤトゥリウスはそれを片手で制し、絨毯に膝をつく。
そうやって、俺と同じ目線になると、真面目な顔で言った。
「ユーグ・リンデ神官。あなたにお願いがあります」
「お、お願い、ですか?」
「はい」
俺の裏返った声を笑うことなく、ヤトゥリウスは、まっすぐに俺を見る。
「あなたに、ぼくのもとで働いていただきたいんです」
「…………へ?」
「つまり、あなたを雇いたいんです。ユーグ・リンデ」
……………………は?
──それが、俺とヤトの出会いで、全ての始まりだった。
雇用主と、被雇用者。
主人と、使用人。
そんな関係から、始まったのだ。
俺が窓際神官でなくなるまでの、ほんの一瞬の物語は……。




