第84話「師匠の基礎は基礎ではない」
師匠の言う「基礎」は、たいてい他人の応用より重いものです。
六属性を一から積み上げた弟子が教官会議へ座ると、責められているのが師匠なのか弟子なのか分からなくなります。
教官会議室の長机には、レイルの一年間の成績表が積まれていた。
結着理論、上位。
魔導安全学、上位。
契約・組合法規、時間超過で中位。
近接防衛、上位。
六属性基礎、すべて合格。
ただし、最後の項目には教官の書き込みが並んでいる。
【属性切替回数が一年次標準を大幅に超過】
【専門属性の決定を妨げる可能性】
【魔力経路炎症歴あり】
【指導者の訓練基準を要確認】
「要するに――だ」
魔導科主任が眼鏡を外した。
「一年次の生徒へ、熱、流動、風圧、地質、光、生命の六基礎を同時に課した理由を聞きたいんだが、エルシアよ」
「同時じゃないよ。順番にやらせただけさね」
エルシアは椅子へ浅く座り、出された茶を勝手に二杯分飲んでいる。
「結果として一年間、六属性すべてを並行して使っている。復習という量ではない。毎週、術式記録が増えているんだが」
「忘れないための復習は必要でしょ。使わない属性から鈍るんだからのう」
「一般生徒は二属性を選び、残りは共通知識へ留める。六本すべてを毎週通す生徒など、学院の基準にはいない」
「一般生徒じゃないからね、うちのバカ弟子は、昨日できたことを三日空けると”失った可能性”を数え始める」
「その性格を知っていて、学院へ相談せず入学前に固定したのか?」
「入学前の弟子を、学院へどう相談するのさ。”村に基礎を六つ全部やりたがる面倒な子がいます”って?」
「推薦状を出す時点で報告できたろうが!」
「書いたよ。【六属性基礎修得済み・専門未決定・放置すると勝手に復習量を増やす】って」
「最後の一文を、なぜもっと大きく書かなかった!」
「”修得済み”の意味が、学院と私で違ったみたいだね」
「違いすぎるわ! こちらは”一度安全に使える”と読む。あなたは”日常動作になるまで叩き込んだ”だろう!」
「基礎って、そういうものじゃないのかい」
「その基礎は基礎ではない!」
主任の声が会議室へ響いた。
レイルは成績表を見ながら口を開く。
「俺は、一つに絞るべきだったんですか。学院へ来る前に?」
「今はエルシアへ聞いている。お前が答えると、師匠の教育方針まで正当化し始める」
「俺が選ばされた側です。最初に何をさせられたかは、本人の方が正確に話せます」
「”選ばされた”と思っているのか」
「最初は。火も水も土も風も、逃げ道を作るために必要だと言われた。正直、二つくらいでいいと思っていました」
「途中からは?」
「自分で続けました。一つ忘れると、助けられたはずの場面を考えるようになったからです」
「ほら、勝手に重くする」
「師匠が始めたんでしょう?」
「弟子が育てたんだよ、その病気は――」
エルシアの視線が少し動く。
「熱を諦めれば、凍えた人へ種火を作れない。流動を諦めれば、水を動かせない。地質を諦めれば、崩れた足場を読めない。光を諦めれば、暗い場所で記録できない。生命を諦めれば、怪我の状態も分からない」
「専門家へ任せるための学院だ」
「任せるには、何を任せるか分かる必要があります」
「だからといって全部を自分で扱おうとするな」
「扱える入口まで学ぶことも、諦めるべきでしたか?」
会議室が静かになった。
エルシアが額へ手を当てる。
「おいバカ弟子。火へ油を注ぐなら、熱属性の実演までしなくていい」
「聞かれたから答えただけです」
「正論を六本束ねて振り回すところまで、私に似なくていいんだよ、はぁ」
「似たのかな?師匠に」
「そこは否定してくれないかい?」
魔導科主任は長く息を吐いた。
「六属性を学んだ事実は戻せない、また成績も否定しない。ただし、二年次は【|総合術式科・特別監督枠《そうごうじゅつしきか・とくべつかんとくわく》】とする。専門教官の許可なく、属性横断の新規試験を増やさないこと」
「既存試験の発展は?」
「言葉の隙間を探すな」
ヘルマンが机を叩いた。
「次は【未完蓄魔】の問題について」
試験記録がエルシアの前へ置かれる。
彼女は一頁目から最後まで目を通し、レイルを見た。
「三時間、胸に鎖。工房外で右目発熱。形成速度一・八倍。回収三四%」
「はい」
「寝る前に爆発予定を抱える技」
「爆発は予定していない」
「完成しようとする魔力を一件抱えたまま寝るなら、眠った後の解除は予定外になる。予定外の爆発予定だよ」
「睡眠試験は禁止されています」
「これからも禁止。気絶も同じ。保持中に頭を打ったら、誰も解除できなくなるじゃろ」
『【未完】解除権限ハ使用者ノミデス』
ニアが机上へ投影された。
「だから、オムニアへ解除代行を入れられないですか」
「だめじゃ」
エルシアは即答した。
「どうしてです?」
「対象を選び、返す責任まで道具へ渡したら、あんたは自分で止める判断を学べない。それにニアは疑似人格で、レイルの固有律そのものじゃない。外から命令しても、完成権を返す手はあんたにしかない」
『機能制限ヲ確認』
「不満か?ニア」
『安全上、妥当デス』
「いい子じゃ」
『猫型投影ヘノ頭部接触ハ不要デス』
エルシアが撫でようとした指を、ニアは半歩だけ避けた。
「ただし、表示は増やせるぞ」
エルシアはレイルの左手首にある【万式魔導環】へ指を触れた。
「第二階梯までで、単一術式の構造、属性経路、警告は見えてる。第三階梯の入口から、”複数媒体の経路分類”と”完成順表示”だけを開ける」
「”未完”の複数保持ということですか?」
「違う」
声が少し低くなった。
「保持枠は一件。増えない。二つ三つの媒体が同時に動いている時、どれがどの経路へつながり、何から完成しようとしているかを並べて表示するだけ。自動形成も自動発動もない。ニアが魔法を撃つこともない」
「事故時の順序管理に使えそうです」
「そう。あんたが全部抱えるためじゃなく、誰へ何を任せるか見るための機能」
銀黒の腕輪から、三つの細い環が浮かんだ。
第一環に【媒体】。
第二環に【経路】。
第三環に【完成予定順】。
机上の灯光具、記録板、冷却扇へ細い線が伸び、それぞれの流路を分類する。レイルが触れなくても、ニアが状態を読み上げた。
『第一媒体、灯光。完成予定、一。第二媒体、記録板。完成予定、二。第三媒体、冷却扇。未接続』
「見える。熱、風圧、光、地質、流動、生命。どの流路が先に結着するかも!」
「見えるだけじゃぞ。見えたからといって、全部をお前が動かしていいわけじゃない」
「順序を変える必要が出たら?」
「術者か担当者へ頼め。自分で六本まとめてつなぎ替えようとしないことじゃ」
「担当者が動けない場合はどうします?」
「別の担当者へ頼みな」
「俺が一番近く、時間もない場合は」
「安全条件を確認してから、一件だけ触る。二件目へ手を出す前に声を出しな」
「毎回答えを先に塞がないでください。質問する余地がなくなります」
「バカ弟子の逃げ道は、育つ前に塞ぐ。お前は”必要なら”の中へ、三件くらい勝手に詰め込むからね」
「一件で足りない場合もあります」
「その時は、足りないと言いな。お前一人で足りる形へ世界をねじ曲げるんじゃないよ」
会議室の端で、リィナとセレネが同時に頷いた。
エルシアは二人を見た。
「ところで、今のバカ弟子の監督者はどっち?」
「私です」「私です」
声が重なった。エルシアは肩をすくめて笑う。
セレネ「リィナは身体状態と実地退避。歩幅、呼吸、姿勢、無理をした時の顔を見ます」
リィナ「セレネは保持時間と術式条件。温度、距離、誤差、中止基準を管理してるよ」
「役割が違うので、両方必要です。片方だけでは、レイルは身体か数値のどちらかを理由に続行します」
「朝練と共同課題で時間も分けてるの。どちらかが全部を取る形にはしてないかな」
セレネ「本人の判断権もあります。私たちは命令するためではなく、判断材料を増やすためにいます」
「……本人を前に、本人より整理して話すんじゃないよ」
「レイルが自分のことになると言葉を増やしすぎるからです」
「私は短く言うようにしてる。二人とも必要。レイルも決める。以上!」
「リィナの方が早いな」
「でしょ」
レイルが口を挟む。
「俺が試験を受け、止めるか決める。二人は監督者ではなく、共同判断役だ」
「三人とも廊下に立ってな」
エルシアが言った。
「何で?」
「リィナとセレネは本人を所有物みたいに監督者争い。バカ弟子は共同判断を覚えた直後に、自分の最終権限を強調。三人とも話の中心を安全から自分の席へずらした」
「私は席の話をしていません」
「私もレイルが倒れないように」
「俺は責任の所在を」
「廊下へ行きな」
三人はそろって会議室の外へ出された。
扉が閉まる。
「師匠、理不尽だな」
「少しは理屈があるよ」
リィナが壁へもたれた。
「どこが」
「私たち、監督者って言った」
「共同判断役です」
セレネが訂正する。
「レイルもすぐ権限の話したし」
「重要だ」
「うん。でも、最初に”二人がいると助かる”って言えば、追い出されなかったかも」
「それは議題と関係ない」
「関係あると思います!」
セレネまで同意した。
レイルは二人を見る。
「……二人がいると、俺一人では見えない条件が分かる。身体の変化も、術式の誤差も、俺は自分に都合よく解釈する時がある。止められるのは腹が立つこともあるが、助かっている」
「そこまで言えるなら、会議室へ戻ってから言えばよかったのに。追い出される前に」
「今言わせたのはリィナだ」
「うん。でも、聞けた。腹が立つこともあるってところまで含めて、ちゃんと聞けた」
「そこは聞き流していい」
「嫌。都合の悪いところだけ未完にしないの!」
「使い方が違うぞ」
「言葉は合ってるでしょ」
リィナは少し笑った。
扉の向こうで、紙をめくる音が止まる。
「入っていいよ」
エルシアの声がした。
会議室へ戻ると、地下設備の図面が広げられていた。
「二年次の進級資格実習を兼ねて、地下の補助魔導炉で安全停止実習を行う」
ヘルマンが説明する。
「停止、排圧、避難、記録、搬送。授業で学んだ手順を、専門別に分担する。第一結着塔事件後の再点検も兼ねる」
「......白環文法がある場所ですか」
「補正環に一部残っている」
エルシアの指が、また一瞬止まった。
「師匠」
「何だい。今度は怒る順番を紙へ書くのかい」
「知っていることがあるなら、先に言ってください。学院地下の白環文法についてです」
「古い文法の癖なら教える。私が触った初期層と似ている部分もね。でも、全部を知ってるわけじゃない」
「知らない部分と、言いたくない部分を分けてください」
「……そういう聞き方を覚えたか」
「共同判断です。俺だけが危険を知らない状態は、もう安全とは呼びませんから」
「分かった。地上で話す。読めたところ、読めなかったところ、私が隠していた理由もな」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
レイルはそう感じた。
(師匠は、俺を守るために黙る時がある。だが、黙ったことが安全になるとは限らない)
「分かりました。でも、実習前に読めた部分は全部共有してください。危険を避けるために黙るなら、黙る理由もです」
「弟子に条件を付けられるとはね。昔は杖で叩けば、文句を言いながら薬草を数えてたのに。かわいげがなくなったもんだ」
「今も文句は言います。ですが、共同判断です」
「覚えた言葉をすぐ使うね」
「使える言葉は使います。師匠が教えた基礎と同じです」
「……言い返し方まで育てすぎたか」
「そこは師匠の成果ですよ、誇ってください」
エルシアは笑った。
その笑顔の奥で、白い環の記憶だけが笑っていなかった。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
六属性基礎を諦めなかった理由を教官会議で答え、オムニア第三階梯の表示機能を一部解放された特別監督枠の術師。
・エルシア・ヴァント
自分の基礎訓練を責められながら弟子の成長を認め、複数媒体の経路分類と完成順表示だけを解放した【空廊の魔女】。
・リィナ・アルセイル
身体状態と実地退避の共同判断役を名乗り、セレネと同時に監督者を主張して会議室から追い出された剣士。
・セレネ・グランツ
保持時間と術式条件の共同判断役を名乗り、レイルから「助かっている」という言葉を引き出した術式設計役。
・ヘルマン教官
二年次進級資格と再点検を兼ねた補助魔導炉安全実習を決定した責任教官。
・ニア
第三階梯入口として、複数媒体の経路分類と完成予定順を表示できるようになった案内人格。
【今回の能力・設定メモ】
・【万式魔導環】第三階梯の一部として、複数媒体の経路分類と完成順表示が解放されました。
・レイルの【未完】保持枠は一件のままです。
・自動形成、自動発動、解除代行、ニアによる魔法発動は追加されていません。
・レイルは二年次【|総合術式科・特別監督枠《そうごうじゅつしきか・とくべつかんとくわく》】へ仮配属されます。
・次の実習は地下の【補助魔導炉】を用いた安全停止実習です。
【次回】
停止レバーを引くことが目的ではありません。アルドは【完遂】の対象を、「全員が帰れる状態で炉を止める」と定義し直します。
基礎を六本積んだ弟子と、逃げ道を六本塞ぐ師匠。レビュー、ブックマーク、フォローで、地下実習へ続く足場を支えてください。




