第50話「書いてはいけない最後」
初めての荷車護衛から、何度も二人を街道へ連れていった御者オルム。
今回は戦闘ではなく、終わった人生と、他人の物語へ最後を書くことの責任を描きます。
御者オルムが荷車を降りたのは、雪が解け始めた年の暮れだった。
最初は長い護衛へ出なくなり、次にハルツ支所までの短い運搬を若い御者へ任せるようになった。それでも天気のよい日には厩舎へ顔を出し、車輪の音を聞いただけで油が足りない、車軸が歪んでいる、積み方が右へ寄っていると口を挟んだ。
「あれ?オルムさん引退したんじゃなかったの?」
リィナが干し果実を頬張りながら尋ねると、オルムは荷車の縁へ腰を下ろし、わざとらしく耳へ手を当てた。
「荷車を降りただけだ。耳まで引退した覚えはないぞ」
「じゃあ、レイルの報告書が長いのも、遠くから分かる?」
「分かるとも。紙の束を机へ置いた時、床が嫌そうな音を立てとるでな」
「必要な記録です。事故の再発防止には――」
「三十七頁を最後に三頁へ直せるなら、最初から三頁で書け。残り三十四頁は、お前が不安を紙へ預けただけだ」
「でも、書かなかった三十四頁に必要な情報があったら」
「その時は追加しろ。最初から全部背負って、荷車ごと動けなくなるよりましだ」
リィナは干し果実を飲み込み、得意そうにレイルの肩を叩いた。
「聞いた? 荷物だけじゃなく報告書まで重いって」
「リィナは食べ物を口へ入れたまま話さないで」
「今、飲み込んだもん」
「そこを張り合うな」
オルムの皺だらけの顔に、いつもの意地悪な笑みが浮かんだ。
オルムはレイルの方位磁針を指で弾き、針が揺れて北へ戻るのを見た。
「ところで、お前ら学院へ行く話があるんだろ。街の連中が、もうお前たちの噂をしてたぞ」
「まだ正式な許可は出ていません。今までのクエストの功績で、推薦と調査が進んでいるだけです」
「そうやって決まる前から逃げ道を作るな。行く時は、向こうの道だけ覚えず、帰る道も頭へ入れとけ」
「学院へ残る可能性もあります。卒業後の進路は未定です」
「残るかどうかは、その時のお前が決めればいい。ただな、帰れる場所を自分から消す必要はない」
オルムは方位磁針の針が北へ戻るのを見届け、レイルの胸へ押し返した。
「迷ったら北を見ろ。それでも分からなきゃ、人に聞け。お前は何でも一人で地図にしようとする」
「人へ聞いた情報が正しい保証は」
「三人に聞け」
「なるほど」
「そこは素直なんだな」
その年の冬、オルムは咳をする時間が長くなった。
ミレアが町へ戻った後も、村の治療師とアウレリオが交代で様子を見た。熱を下げ、呼吸を楽にすることはできても、長く使った身体を新しく作り直すことはできない。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
春を待つ前の早朝、オルムは家族に囲まれ、静かに息を引き取った。
魔物に襲われたのでも、魔法事故や【未完】の暴発に巻き込まれたのでもない。病と年齢によって、始まっていた人生が静かに終わったのだ。
知らせを受けたレイルは、革鞄を抱えたまま長い時間動けなかった。死を【未完】にして引き留めようとは思わなかった。成立した死は戻せず、戻すべきでもないと、エルシアとアウレリオから何度も教えられている。
それでも、送環式へ自分が近づくことが怖かった。
送環式は、成環教会が行う葬送の儀礼である。故人の人生が世界へ結ばれたことを確かめ、遺族が別れの祈りを終え、魂を次の環へ送る。魔法ではあるが、術者一人が完成させるものではない。家族、友人、神官がそれぞれの言葉を終えることで、一つの儀礼になる。
「僕は、参列しない方がいいと思います。オルムさんを見送りたい気持ちより、僕が儀式を壊す危険の方が大きい」
レイルがアウレリオへ伝えると、老神官は慰めるような言葉を急がなかった。まず机へ記録板を置き、いつもの落ち着いた声で条件を確認した。
「現在の保持対象は」
「安全装置用短編です。最後の一語を残していて、昨夜の確認では異常なし。完成圧力も安定しています」
「儀式から、どれほど離れるつもりですか」
「最低十五歩。礼拝堂の外周へ隔離線を引き、祭壇へ近づかない。参列者の移動経路とも重ねません」
「オムニアが警告を出した場合は」
「一度でも出た時点で退場します。理由の確認は外へ出てからにします」
「よろしい。では、あなたが怖いから欠席するのではなく、条件を守れないと判断した時だけ退席しなさい」
「――僕がいてもいいんですか?」
「それを決めるのは、私一人ではありません。遺族へ尋ねます。ただし、あなた自身が“見送りたい”と言わなければ、誰もその気持ちまで汲み取れませんよ」
レイルはしばらく俯き、やっと小さく答えた。
「……見送りたいです」
アウレリオは条件を書き留めた後、オルムの息子へ意向を尋ねた。
「父は、あの子たちと何度も街道へ出ました。最後くらい、一緒に見送ってやってください」
参列を許されたレイルは、送環式の準備を手伝った。
椅子の配置、火気の確認、退路、香炉の距離、参列者の人数。安全装置用短編は革鞄へ入れたまま、さらに布で包み、礼拝堂の控室にある鍵付きの箱へ置いた。
短編の主人公は、長い旅を終えて家へ戻る少年だった。
泥だらけの靴で村へ入り、見慣れた井戸の横を通り、家の扉へ手をかける。中から母親の声が聞こえ、少年は口を開く。
最後の一語だけが書かれていない。そこへ入るのは”ただいま”であり、レイルはいつか、それを自分で選んで書くつもりだった。
準備の途中、オルムの孫娘ミナが控室へ入った。祖父の荷車へ何度か乗せてもらったことがあり、レイルとも顔見知りの八歳の少女である。
鍵付きの箱は、香炉布を取り出した大人が閉め忘れていた。
ミナは中にあった原稿を見つけ、最後の頁を開いた。以前、オルムから「レイルは話を最後まで書けない」と聞いたことがある。祖父を見送る日に、同じように帰れない少年がいることが悲しくなった。
だから、机の上の筆を取り、最後の空白へ書いた。
”ただいま”。
レイルが控室へ戻った時、ミナは自分のしたことを褒めてもらえると思っていた。
「終わらせたよ。これで、この子もおうちへ帰れるよね」
差し出された原稿の最後には、自分ではない筆跡があった。
”ただいま”。
たった四文字なのに、レイルの胸から音が消えた。怒りより先に、足元が抜けるような恐怖が来た。何年も周囲を守っていた蓋が、善意の指で静かに開いてしまったのだ。
腕輪の七環が薄く明滅し、ニアが黒銀猫の姿で飛び出す。
『保持対象ノ完成ヲ確認シマシタにゃ』
『安全条件、未成立』
『新規完成対象カラ離脱シテクダサイにゃ』
ミナはニアの警告とレイルの顔を見比べ、誇らしげだった笑みを失った。
「……だめだった? 私、悪いことした?」
レイルは原稿を奪わなかった。胸の底では、“どうして触った”という声が暴れていた。けれど、そのまま八歳の少女へ投げれば、自分の恐怖を小さな背中へ背負わせるだけになる。
「......書いてくれたんだね」
「うん。だって、この少年、ずっと帰れないままだったから。今日、おじいちゃんも遠くへ行くのに、この子まで帰れないの、かわいそうだと思って……」
「そっか。帰してあげたかったんだ」
「レイル、いつも最後を書けないって、おじいちゃんが言ってたから。手伝ったら喜ぶと思ったの」
その言葉が痛かった。オルムはきっと、いつもの調子で笑い話にしたのだろう。ミナも本気で助けたかった。善意が重なって起きた事故を、誰か一人の悪意へ仕立てて片づけることはできなかった。
「ありがとう、ミナ。でもね、物語の最後は、その人が何を選んだかまで入ってる。次からは、本人へ聞かずに書かないで。たとえ“絶対こっちが幸せ”って思っても」
「……ごめんなさい。消したら戻る?」
「戻らない。一度終わったことは、文字を消しても、終わった事実まで消せないんだ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「僕が考える。これは僕が危険だと分かる場所へ置かなかったせいでもある。箱が閉まっているか、最後に確認しなかった。ミナだけの失敗じゃない」
ミナは唇を噛み、涙をこぼした。
「でも、私も勝手に書いた」
「うん。だから、僕と一緒に覚えておこう。次は聞く。僕は隠さない。それでいい?」
「……うん」
少女の目から涙が落ちた。
遅れて入ってきた大人たちは、誰か一人を責めることができなかった。箱を閉め忘れた者、原稿の危険性を共有しなかった者、最終確認をしなかったレイル。ミナだけへ責任を負わせれば、また別の間違いになる。
しかし、保持枠が空いた事実は変わらない。
レイルは礼拝堂から離れ、送環式への参列を辞退すると伝えた。明日の朝までに別の安全な保持対象を用意できなければ、完成直前の行為へ近づくべきではない。
ところがオルムの息子は、しばらく黙った後で首を横へ振った。
「父は、お前が一度壊した後でも、戻ってきて荷車を押すところを見てた」
「でも、僕がいることで儀式を壊す可能性があります」
「怖いなら離れていろ。それでも、最後に背中くらいは見てやってくれ」
レイルは答えを出せなかった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
その夜、完成してしまった短編を机へ広げた。
ミナが書いた”ただいま”は、物語の流れとして間違っていない。少年は家へ帰り、家族へ声をかける。レイル自身も、いつか同じ言葉を書くつもりだった。
正しい言葉だった。
それでも、自分が選び、自分が責任を持って書いた完成ではない。
頁の端へ指を置くと、もう【未完】の圧力は感じなかった。物語は終わっている。今さら最後の一語を消しても、完成した事実を未完へ戻すことはできない。
机の向こうで、ニアが環状の尾を身体へ巻きつけている。
『送環式マデ、九時間デスにゃ』
『退避ヲ推奨シマス』
「分かってる」
『使用者ノ判断ハ未確定デスにゃ』
「それも分かってる」
レイルは夜が明けるまで、他人が書いた最後の一語を見つめ続けた。
【今回の登場人物】
・レイル・アルヴァート
成立した死を戻そうとはせず、善意で完成した安全装置を前に、怒りより自分の管理責任を引き受けた少年。
・リィナ・アルセイル
オルムの荷車へ何度も同行し、老人との思い出を抱えながら送環式の準備を手伝った幼なじみ。
・オルム
荷車、道、人の帰還を教え、病と年齢によって静かに人生を終えた元御者。
・ミナ
物語の少年を帰してあげたいという善意から、危険を知らず安全装置用短編へ最後の一語を書いたオルムの孫娘。
・アウレリオ
レイルを一方的に遠ざけず、保持対象、距離、退場条件を確認して送環式への参列可否を判断した神官。
・ニア
安全装置用短編の第三者完成を検知し、保持枠が空いた危険を即座に警告したナビゲータ。
【今回の能力・設定メモ】
【第三者完成】
【未完】の保持対象は、レイル本人以外の行為によっても完成条件を満たします。一度完成した出来事は、最後の文字を消しても未完状態へ戻せません。
【次回】
空いた保持枠のまま始まる送環式。最後の祈りが結ばれる直前、レイルの恐怖が最も触れてはいけないものへ届きます。




