16-02. 空白の記憶
ジュラインの屋敷を出た俺たちは、グレスとオーレス、そしてイフラムドの護衛を受けながら、再び馬車での移動を開始した。この馬車を使っていければ乗合馬車よりはかなり早く王都に到着できるだろう。でも、ヤミの試算では、それでも二週間は覚悟しなければならないらしい。
「まぁ、王都まで何も起きないはずはないんだけどね」
ヤミは不吉なことを言ってから、刀を抱いて目を閉じた。
今、四人乗りのこの蓋車に乗っているのは俺たち三人だけだ。今回、イフラムドは自分の馬に乗っている。そして俺とベスが隣り合わせに座り、ヤミは進行方向向きに一人で座っている。馬車の空間は広く、二人で並んで座っても窮屈さはない。
ただ、乗り心地は相変わらず良くない。地面の起伏具合がダイレクトに尻に伝わってくる。とても移動中に眠れる代物ではないのだ。長時間の乗車も厳しいため、結構こまめな休息が必要になってくる。馬車を降りた時には、腰を中心にバキバキになっていたりする。
ガタガタと揺れる車内だが、窓から入ってくる風は気持ちが良かった。まもなく初秋だ。王都に着く頃にはすっかり秋だろう。王都は北にあるから季節が早い、はずだ。
雪が降ってしまうと長旅が困難になる。それまでに片付けられることは片付けておきたかった。だが、旅の道程に関してはヤミが決める。逆らうことはできない。
「ベス、起きてる?」
「寝られるわけないでしょ」
先生は寝てるけどな、などと言おうかと思ってやめる。言い返してもいいことなどない。
「ベスは先生と五年旅してたんだよね」
俺が尋ねると、ベスは人差し指を立てつつ頷いた。
「あんたと出会うまでね。十歳の時から五年」
「冬ってどうしてたの?」
「お金貯めてた」
「ん?」
「お金貯めてたのよ」
幾分不服そうにベスは言った。
「私たち、万年貧乏だったから。この間ヴァレスさんからもらった報酬で、今はそんなことしなくても良くなってるけど」
「どんな事してたの?」
「貴族の屋敷での家事手伝い、荷運び、家畜の世話、失せ物探し、素行調査でしょ、それから、えっと、師匠は恋愛相談なんかもしたわ」
「先生が恋愛相談?」
「なんでそこに食いつくのよ」
ジト目で見られてしまった。
「いや、だって、先生って色恋疎そうじゃない?」
「それもそうねぇ」
ベスは腕を組んで眉根を寄せた。
「でも人気あったんだよ」
「解願師の力でも使ってたのかな」
……あり得る。恋の執着を解く、なんてのは得意分野かもしれない。そうしたら依頼者はスッキリして帰ることができるだろう。恋愛が良くない方向に行ってその相手の不幸を願うことになったとしても、それを解いてしまえば一件落着だ。
「なるほど、案外合理的なのかもしれないな」
「便利なのさ、解願師の力はさ」
いつの間にかヤミが目を開けていた。
「そういう事に使っちゃっていいんですか?」
「こういうことにしか使われない世の中が平和でいい」
ん? そうかもしれない。何となく煙に巻かれた気がしなくもないが。
「じゃぁ、先生は俺やベスの願も解けたりしますか?」
「なんだい、藪から棒に」
「興味本位です」
「なんでも解けるわけじゃないって前も言ったろ? 相手の意志の力次第。願への執着次第」
指を鳴らす程度では、俺の願いは消え去らないわけだ。願いが叶えられるか、俺自身が納得しない限り――消えない。
ヤミは首を一度回してから言った。
「願ってのは希望だよ、レア。夢があるから願うことができる。願うことができるから希望が生まれる。だから本来、願いは解いちゃいけないものなんだよ。どんなものであってもね」
「だけど、解いた方がうまくいくこともあるし、当事者が幸せになることもある?」
「そういうこと。薬みたいなもんさ。正しく使えば良いことがあるかもしれないけど、むやみやたらに使ったら不幸な結果になることもあるってね」
薬、か。解願という薬。それは人々にとってたぶん救いの手段になるだろう。願いが解かれてしまえば、確かに希望はなくなる。けれど、それは裏を返せば絶望もなくなるということだ。希望が砕かれた時に、人は絶望するものだからだ。執着していたものが失われた時に、人は悲嘆にくれるからだ。
「解願の核、か」
解願の核、それは世界を初期化する力を持つもの――あの夢で見た出来事を、俺は未だ誰にも話せずにいた。テスタロサと呼ばれていたあの石の正体が何なのか。どうしてヤミの母と同じ名なのか。ヤミはテスタロサの魔力を全て受け継いでいる。そしてヤミは解願師だ。偶然だなんて到底思えない。そもそもゲドルタの見せる夢で無意味なものなんて今まで何一つなかった。このタイミングであの夢を見たということは、それ自体に意味があるということだ。
「解願の核……?」
ベスが俺の言葉を繰り返した。ヤミは鋭い視線で俺を見ていた。
「例の夢だね?」
「あ……はい」
それからしばらく沈黙が続いた。夕方に差し掛かり、野営の準備のために馬車を降りるまで、俺たちは無言だった。
めいめいに野営の準備を手伝い、火を起こしてそれを囲む。俺はヤミとベスに挟まれる格好になった。
日が落ちるに従って、焚火の熱がほんのり気持ちよい程度に、風が冷たくなってきていた。遠く南の空の雲の動きがとても速い。ジェイルムド山脈のあたりは大荒れかもしれない。
イフラムドとその息子たちは、周辺を見回ると言って出発した。御者は焚火を挟んで向かい側に座って船を漕いでいる。彼は馬たちの世話もしてくれるし、俺たちは火を起こすくらいしか仕事をしていない。至れり尽くせりだった。
「アタシはさ」
ヤミがぼそぼそと喋り始めた。
「二十年前に……母さんとジムレグが戦ったあの時に、きっと作り替えられたんだよ」
「魔力の全てをっていう?」
「そう。母さんの同僚たち、みんながそう言った。父さんもね。だけどアタシだけは信じなかった。ただ確かにすごく気持ち悪かったのを覚えてる」
まだ五歳だったしね、と、ヤミは寂しそうな顔で言った。
「先生は、お母さんのことをどのくらい覚えているのですか?」
「顔だけはやたらはっきりと覚えてる。そんなはずないだろってくらい、絵に描けって言われたらそのまま描けるくらい鮮明にね」
「ど、どんな……?」
「人形みたいな人」
人形……? 俺はベスを見た。ベスは例の人形を膝の上に乗せて、手持ち無沙汰に遊んでいた。
「だけど、どんな人だったのかとか、思い出だとか、そういうのは何も思い出せないんだよ。父さんからも聞いた記憶がない」
そんなことがあるのだろうか。王室の筆頭魔法術師だ。誰か彼かがヤミに思い出を語るだろう。となれば……。
「アタシの記憶が恣意的に消されている、なんてこともあり得るよ。なんせ母さんはゲドルタを見ていた、と言われるほどの人間だし」
そうだ、前国王にそう言われた記憶だけはヤミの中にあるのだ。
「解願の核、か」
ヤミは呟く。
「二十年前に母さんがやったのは、それをアタシに埋め込んだこと、なのかもね」
「その、俺、キケレアーナから聞いたんですが、その、テスタロサは生死不明だとか」
「……なに?」
ヤミの目が鋭く細められた。凍て付いた虹彩が、焚火の炎を照り返してゆらゆらと揺れていた。




