10-05. 晦冥の騎士
一滴でも食らったらまずい。そう思うのに、身体の動きは緩慢だった。意識に肉体がついてこない。ベスもヤミも逃げようとしているが、方向転換すらできていない。全てが遅かった。襲い来る怒涛の消化液の着弾地点も、まるで狩りを愉しむかのようにじりじりと近付いてくる。
逃げられない……!
どうせなら一矢報いてやろう。
俺は冷静に、しかし、到底まともとは思えない判断をした。
先行した水滴が頬を掠めた。ジリっと焼けるような、耐え難い痛みが走る。
だが、その後に続くはずだった消化液は、全て凍っていた。
「まったく無茶をしますね」
天から降ってきたその声には聞き覚えがあった。
「ヴァレス!?」
「こんばんは、ヤミ。ご機嫌如何ですか」
とぼけたその声は、間違いない、ヴァレスのものだ。
「見ての通り、不機嫌極まる、だ」
「それは結構」
ヴァレスがゆっくりと降りてきて、俺たちとハプトとの中間に立った。
『これはこれは、魔法術師が一人追加ですか。私の晩餐がますます豪華になろうというもの』
「あなたの夕食になるつもりはありませんよ、脳喰らいのハプト」
『あなたに選択権はありませんけれどねぇ』
凍っていた消化液が一斉に溶けた。
だが、それらは俺たちを襲わず、まるで避けるようにして地面に落ちた。地面から卵の腐ったような臭いが上がってくる。
「……あまり吸い込まないように」
ヴァレスが袖を口元に当てながら言った。毒か何かだろうか。
花は――ハプトは、断続的に消化液を振り撒いてくる。俺たちはヴァレスの結界のようなものでどうにか守られてはいたが、これでは思うように近付くこともできない。
「ハプトには因縁があるのですよ、僕には。さもなくば大事な同僚を連れて支援に来たりはしません」
「同僚?」
俺が問い返すと、ヴァレスは小さく振り返る。
「マリア、ペルミナ。君たちはそのまま結界を維持。三人の攻撃を助けましょう」
「で、でも、私、武器がない」
ベスがおろおろと言うと、ヴァレスは虚空から槍を取り出した。
「これでいいですか。返してもらいますけど」
「は、はい」
素人目にも、それが名品だということは一目で理解できた。魔力も込められているかもしれない。
「僕のストックしている唯一の槍です。五百年前の第二十五次ラガンドーラ戦の英雄、エイキラ・ガーエン将軍の愛用した血の聖槍・ラグリス」
「ありがとうございます」
「お礼を言える子は良い子です」
ヴァレスはベスに向かってラグリスを投げてよこす。ベスは危なげなくそれを受け取り、低く構えた。いつでも突っ込める体勢だ。俺もゲミトルードを構え、ハプトの次のアクションに備えた。
『なかなか力のある魔法術師たちですね。だがしかし、私にはまだまだ力不足ッ!』
「マリア、上空へ退避、ペルミナは後退して結界維持」
「了解です」
マリアと呼ばれた魔法術師の姿が、見る間に空に消える。ペルミナと呼ばれた方も距離があるので顔は見えなかったが、「承知」と反応するなり瞬間移動で後退した。どちらもヴァレスの腹心なのだろう。連携に無駄がなかった。
『ほう、どこかで見た顔だと思えば……。私はあなたと同じ匂いをする人間を知っていますよ』
「でしょうね」
ヴァレスは今にも笑い出しそうな声で答えた。
「あなたは僕の父と母の仇ですから」
とすると、この魔神を封印したのは……。
「せっかく僕の両親が封印してくれたものを、わざわざ解き放ってくれちゃって」
「アタシたちがやったわけじゃない」
憮然とした声でヤミが言った。横顔を盗み見ると、明らかに不機嫌そのものだった。
しかし、ヴァレスはしれっとした声で言う。
「知ってますよ、ヤミ。キケレアーナでしょう」
「……知っていながら黙って見ていたあんたの方が、千倍性質が悪い」
「ご冗談を。キケレアーナ相手に一戦交えるなんて馬鹿なことは、僕にはできやしませんよ」
それなのに、ハプトの前には姿を見せた――。
キケレアーナはハプトを凌ぐほど恐ろしい存在、勝ち目のない存在ということなのだろうか。
「さぁ、サクッと倒しちゃってください、レア君」
「ゲミトルード一本であんな化け物どうすれば」
「ははは!」
この状況でヴァレスは笑った。その異常なまでの豪胆さに、俺は胃が凍るのを感じた。この男は怖い――俺の本能が恐怖を報せる。
「マリア、ペルミナ、神撃の三重奏!」
その声とほとんど同時に夜空が光った。少し欠けた月を中心とするように幾本もの金色の線が走る。それはまっすぐにハプトの花に落ちていく。
視界を潰す光の波に続き、耳をつんざく爆発音が轟く。聴覚が消える。
しかし俺は走ることを選んだ。敵の位置はわかっている。両手でゲミトルードを保持し、光の中心へとまっすぐに切り込む。間合いを間違えていなければ、斬り込むべきタイミングははっきりしている。
「ベス、先生!」
道は作る! あとは任せた!
言わなくても伝わる。俺は確信を持っていた。
俺は光の中心に向かって思い切りゲミトルードを振り下ろした。
バチンという音と共に両手が激しく痺れる。苦労して目を開けると、そこにはほつれがあった。ハプトの防御結界が三人の魔法術師による魔法術とぶつかって生まれた、無防備な空間だ。
――これは一瞬未来の景色だ。現実の俺は目を開けることもできないほどの光に飲まれている。だが、場所はわかった。十分だ――。
俺はゲミトルードの切っ先をその隙間に突き込んだ。
『私に傷をっ!?』
「このまま消滅させてやる!」
『小癪なガキですね! 死になさい!』
上から何かが降ってくる。視線だけを送ると、何か丸いものが唸りを上げて落ちてきていた。魔法かもしれない。しかし俺はゲミトルードを結界に咥えこまれてしまっていて動けない。
「仕方ないわね」
血の聖槍・ラグリスを持ったベスが、俺の背中を蹴って跳び上がった。そしていくつものその謎の物体を尽く叩き落す。軌道を変えられたそれらは地面にぶつかると激しく爆発した。あんなものに直撃されていたら、肉片すら残らなかったに違いない。
「魔法術も進歩していましてね。特に、僕の時代に」
ヴァレスが近付いてくる。
「前回は八十人近い術師の犠牲を出しましたが、今回はそうはいきませんよ」
今の僕らには解願師がいますからね、と、ヴァレスは俺の耳元に囁いた。ヴァレスの顔を窺うと、湖の水面のように澄んだ青い瞳が、意味深に細められていた。
「でも魔物に解願は効かないって」
「効いていたでしょう?」
さっき、その姿を暴露させたのは……ヤミだ。
「俗な魔物には効きませんが、願や呪というものを持つ知性には通じるんですよ」
「なんでそんなことを知っているんですか」
「はは」
ヴァレスはまた笑った。
「僕の両親は、爆炎の魔女の同僚ですよ。解願の何たるかを最も理解している人たちだった」
でも、時系列的にはまだヴァレスが幼い頃に亡くなっているはずだ。
「記憶など、どのようにでも残すことができます。僕や両親のように、超高度な魔法術師であればね」
ヤミの母――爆炎の魔女――が、幼いヤミに魔力を全て受け渡したように……?
『技術の進歩。さもありなんですが。私の力がこんなものだと思われるのも心外』
光の中で、花が消えた。空に描かれていた輝く幾何学模様も消える。魔法術の効果時間が切れたのだろうか。
『厄介な魔法術師たちです。ここで――』
光の中心から現れたのは、背に四枚の白く輝く翼を生やし、剣と盾を持った騎士だった。夜に溶けるような晦冥の全身甲冑を身に着け、その兜の内側からは鮮血のような赤い光が漏れ出していた。
『始末してやりましょう』
その手にした剣が、燃え盛る町の炎を鋭く照り返した。




