10-01. 生ぬるい覚悟
夜明け前に、キケレアーナは姿を消した。誰にも止められなかった。
東の空が仄かに明るくなってきた頃に、はるか西の空が輝いた。何度も何度も。それはさながらガラーティア要塞の断末魔のように、俺には思えた。そして最後は光の柱を生み出し、明けの空に落ちた。
「兵士たちはみんなジムレグやクラッドノウトの支配下に置かれちゃったのかな……」
膝を抱えてベスは呟く。ぐずぐずと鼻をすすり、時々涙を拭いている。
「何もできなかった。このまま何もできないままなのかな……私」
「そんなことないでしょ」
俺は残り少なくなった枯れ枝のストックから、一本を取り出して焚火に放り込んだ。街道のそばには大きな木がないから、燃やす枝も落ちていないのだ。少し歩けば森はあるが、夜中の森の中に踏み入るなど自殺行為だ。
俺は何気なく左の手首を見た。
「キケレアーナの痣が消えてる……」
「本当だ。もう監視されてないっていうこと?」
「かもね」
俺は曖昧に頷いた。ベスが俺の手首に軽く触れ、何ともくすぐったい気持ちになる。
「いずれにしても油断はできない。それにグレンダルの様子も気になる」
レイミの待つグレンダルは、大深淵の先にある都市の一つだ。何か起きるとしたら、まずあの町だ。
「少し急ごう」
「待ちな」
ヤミが胡坐をかいて俯いた姿勢のまま、鋭く言った。
「奴の話が本当なら、とんでもない化け物が暴れている可能性すらある。あんたたち、大丈夫かい?」
「あれだけ多くの兵士がいるし、レイミだっている」
「そうじゃない」
ヤミの氷の視線が俺を射抜いた。鳩尾が冷たくなるような感触を覚えた。
「兵士、住民、レイミ。全員の死体を見る覚悟はあるかいって話をしているんだよ」
「そんな」
「覚悟がないのならグレンダルは無視する」
ヤミの凍て付いた言葉に、俺とベスは息を飲んだ。ベスは小刻みに震える声で言った。
「まだ間に合わないって決まったわけじゃ――」
「間に合ったからといってその未来が避けられるなんてことはない」
ヤミの言っていることは理解できる。理解できるが、納得したくなかった。
「先生、グレンダルに向かいましょう」
俺は強い口調でそう告げた。ヤミはしばらく俺を睨んでいたが、しばらくの沈黙の末、ようやくゆっくりと立ち上がった。
「魔法術が厳しく管理されている理由は知っているかい?」
「い、いえ」
俺とベスが同時に答える。
「魔法術は本来使っちゃいけないものなんだよ。対価を要求され、結果として等価交換になる呪法と違って、魔法術はゲド――いや、魔力に満ちた別世界から、強引に魔力を引き出して行使する。つまり、使えば使うほど、この世界の魔力が増える、そういう仕組みさ」
根本的に魔法術と呪術が違う理由がそれだ――ヤミは言った。
「だからジェイルムド魔導攻防戦――ダルフシュペントでの母さんとジムレグとの戦なんかでは甚大な量の魔力がこちらの世界に流れ込み、結果として大深淵なんてものが生じてしまった。その大奈落の底には、その時に流れ出た魔力が満ちていて、アタシたちの知る生物とは全く異なる生命体が跋扈しているんだそうだ」
「そんなに魔力が……」
「そうだよ、レア。そこに来て、あの霊話石の破壊だ。あんなものが破壊できるなんて、アタシも、たぶん母さんも知らなかった。というより、アタシたちはずっと霊話石は破壊も移動も不可能な魔導大戦の遺物だと聞いていたからね」
ヤミは静かに言う。東の空が鮮やかに色付いてきていた。夜明けだ。
ベスがソワソワと落ち着かない様子で腰を浮かせている。
「こうしているうちにもグレンダルや近くの町は……」
「ベス」
俺は左手でベスの右手を握った。
「俺たちは俺たちにできることをやるしかないよ」
「でも!」
「レイミを助けよう」
「……うん」
ベスは優しすぎる。俺はふと、そんなことを感じた。
「先生、最短コースで行きましょう」
「……わかった。ただ、覚悟はしておきな。最悪、この世の地獄を見ることになるよ」
ここにきて「はい、わかりました」とは、俺もベスも言えなかった。




