09-04. 全体最適
狙い過たず、ベスの槍がアストレルヴェインの下顎に突き刺さった。ベスは咄嗟に手を離し、落下してきた。俺は全身の力と集中力でベスを受け止め、即座にその場を離れた。
一瞬でも判断が遅ければ、その傷口から噴き出した火炎に焼かれていたに違いない。
アストレルヴェインは金色の炎を噴き散らかしながら、苦悶の咆哮を上げた。まさに急所だったのかもしれない。
「そこまででいいでしょう」
いつの間にか俺たちのそばにやってきていたキケレアーナが、両手をパンと打ち鳴らした。その途端、アストレルヴェインは動きを止め、まるでキケレアーナに傅くように頭を下げた。
「主の名の下に命ずる。帰りなさい、アストレルヴェイン」
キケレアーナがそう命じた瞬間、アストレルヴェインは暗黒の球となり、小さくなり、消えた。
ヤミが鋭い口調で言った。
「あんなもんを従えてるとは、さすがは歴代最強の魔法術師じゃないか」
「あんなものは私の手駒の一つに過ぎません。相手の実力を見誤らない事です、解願師ヤミ」
「気に入らないね」
ヤミの白い顔が、轟々と焚かれている篝火の輝きで物騒に煌めいていた。ヤミは俺たちがあの行動に出ると踏んで、わざわざ棒立ちで囮になってくれたのだ。
「終始私が妖獣を操っていたら、今頃あなたは消し炭か挽肉だったでしょう。彼の無能さに感謝すべきかと思います」
「キケレアーナ」
ベスを下ろして、俺は呼びかける。全身が悲鳴を上げていた。
「あなたは本当に先生を殺す気だったんですか」
「もちろん。初撃で片付けるつもりでしたが」
キケレアーナはあっさりと認めた。初撃の失敗を、だ。
「炎が俺たちを避けたように見えました。あれは?」
「簡単です。私の一部は今でもあなたたちを、いえ、ヤミを守ろうとしている。私の愛弟子の娘を守ろうとしているのですよ。他方、私の本質は危険人物を始末しようとしている。ヤミはこちらの方の願を解いた。結果として守られた、というわけです」
つまり、キケレアーナの中には二つの意志がある?
俺の疑問に、キケレアーナは頷いた。俺が尋ねる内容を予知したのだろう。
「人としての記憶が残っている限り、私も完全には目的に注力することはできないようです。一層の修練が必要ですね」
冗談とも本気ともとれるその言葉を受けて、俺の後ろでベスが「冗談言ってる場合じゃないわよ」と悪態をついたのが聞こえてきた。
「それで、目玉のお化け」
ヤミが腕を組んでキケレアーナを見上げた。
「この要塞にいた兵士たちはどこへ消えた。千人以上いたはずだ」
「私たちも一足遅かったというべきなのですが」
キケレアーナは俺たちに「ついてきてください」と言って前を歩き始める。無防備な背中だとは思ったが、おそらく俺たちの行動の全ては予測済みのはずだ。何しろ相手は預言者だ。無駄な行動は慎むべきだろう。
「私だけならともかく、ハイザルク男爵を伴わねばなりませんでしたから」
「それだ。男爵」
ヤミが俺の隣を進みながら口を開く。その声音は刀の切っ先のように鋭い。
「男爵の役割とは何だ。そもそもクラッドノウトにしてもハルベーデラにしても、男爵の息がかかった呪術師ではないのか」
あちこちで薪の爆ぜる音が響いている。それほど夜は静かだった。焦げ臭さと目に染みる煙は、俺たちがあの戦いを生き抜いたことを証明してくれている。
「そう思われるのも仕方ありませんね。実際に、男爵にも野心はおありでした」
「自由にさせていた、と?」
ヤミが剣呑な目でキケレアーナの背中を睨んでいる。キケレアーナは悪びれた様子もなく答えてくる。
「まぁ、そうでしょう。そう見えても仕方ありませんね」
やはり、全ては彼女の掌の上であったということか。俺は奥歯を噛みしめる。
「あなたは」
ベスが震える声を出した。
「異端審問官たちを大勢殺したそうですね」
「ああ、そのことですか」
キケレアーナは歩みを止めた。そしてゆっくりと振り返って、おそらくはベスを見た。
「聖庁異端審問局に私という存在を突き止められると少々厄介でしたからね。機先を制させていただきました。警告を兼ねて」
「それで悲しんでいる人もいます」
レイミの気丈な表情が思い出された。だが、キケレアーナはまた歩き出す。俺は追いかけて、言った。
「恋人を殺された人もいるんですよ! あなたに!」
「些末なこと」
キケレアーナは歩みを止めることもなく、間髪入れずに応じた。
「十人の不幸を躊躇した結果、千人が犠牲になったとしたら、あなたはその千人一人一人に謝罪して回るのですか?」
それは――正論だと思った。だが、自分がその十人に入るのだとしたらたまったものではない。ベスが首を振った。
「私たちだって家族を皆、殺されています。それすら」
「そうですよ。皆が皆、目的をもって行動している。その過程で不幸を背負ったにすぎません。人はおしなべて皆、そういう不幸を養分とした大地の上に、根を張り枝を伸ばすのです」
それに、と、キケレアーナは無情な声で言う。
「あなたたちは魔導大戦の勇者の末裔。一千年の時を経て、再び世界は目を覚ます」
世界が目を覚ます……?
俺は唾を飲む。
「そ、そんなこと、人を不幸にする大義名分になんてならないわ」
「大義名分とする気もありませんよ。仮に私が座して見ていたとしても、別の方向で誰かが不幸になり、その結果救われる者も出ましょう」
超越者だと、俺は素直に思った。キケレアーナは個人のことを見ていない。全体最適化だけを考えているのだと、俺は理解した。だからベスとは根本的に噛み合わない。
「それにね、エリザベス・ティラール。聖庁異端審問局の局長、ハヌヴァ・グリード。あの男は一筋縄ではいかない。かつての私をよく知る数少ない生き残りですから」
ハヌヴァ・グリード。二つ名は天剣の騎士。かつて王室騎士団に所属していたが、四十年ほど前に教会に活動拠点を移し、異端審問局を聖庁異端審問局と改名し、制度の抜本的改革を行った。ありていに言えば、名ばかりだった異端審問を、実効性を伴ったものに変えたのだ。
グリード局長らの活動は苛烈を極め、数多くの外道師が火刑に処された。その一方、規約を守る外道師たちの活動は黙認し、無差別な異端審問とならぬように腐心したとも、父さんや母さんから聞いたことがあった。偉人伝のようなものだ。
ある種警察的な役割を果たした異端審問官たちは、やがて呪術のみに関わらず、治安維持を担う立場になっていく。それと同時に、彼ら異端審問官たちの実力と発言力は天井知らずに強化されていった。……ということくらいは、たぶん王国の貴族階級なら誰でも知っているだろう。
「ゆえに、私も悠長に手段を選んではいられなかったのも事実です」
「そ、それは、そうかもしれないですけど、でも」
「謝れば良いのですか?」
キケレアーナの口調には、哀れみが満ちているように思えた。幼児を諭す大人のような。
「仇を討ちたいんです。私たちはそう約束してきました」
「どうぞ」
キケレアーナはまた足を止めて振り返り、両腕を広げた。ベスは自らの空の両手を見つめた。彼女の愛用の槍は、先ほどのアストレルヴェイン戦で炎に溶かされてしまっていた。
「彼の剣を借りれば、私を殺すことができるでしょう」
「そんな」
ベスと目が合う。俺は首を横に振った。
「君には殺せない」
「馬鹿にしないでよ!」
ベスは右手を突き出してきた。俺はずっしりと重たいゲミトルードを抜いて、ベスに握らせた。一瞬の間を置いて、その重さがベスの手へと引き継がれた。
ベスは両手でゲミトルードの柄を握り、思い切り振り上げた。
――まさにその瞬間。
青い光の波が幾度も幾度も迸り、要塞の空を輝きで満たした。




