09-03. 妖獣アストレルヴェイン
妖獣アストレルヴェイン――月光と篝火に照らされたそれは、俺の住んでいた屋敷にも匹敵するほどの巨大な竜だった。竜なんて絵本の中と、教会の壁画でしか見たことのない、伝説の生き物だった。数十年前にはハーワール帝国から飛竜の軍団が襲来したというが、その飛竜とは違う。もっとどっしりとした、しかし強靭な筋肉で俊敏に動き回る。全体的な印象としてはトカゲに近い。
何にしても、人間が戦える相手ではなかった。昼間の山羊頭の魔物とは格が違う――俺は本能的に恐怖していた。身が竦んでしまっていた。筋肉が硬化してしまっていた。
闇色の巨獣の目は月光のように白く、薄く開いた口の中には金色の炎が踊っていた。
それが要塞の尖塔の天辺から飛び降り、俺たちの目の前に地響きをあげて着地した。立っていられないほどの烈震が俺たちを襲った。
「それでは、始めてください」
俺たちが体勢を整えるのを待って、キケレアーナはまるで家庭教師が試験を始める時のように言った。
「こんなの、どうしろって」
ベスの声が大きく震えていた。俺だって泣きたい。
「結果が出る前に負けを認めてるんじゃないよ」
ヤミは躊躇なく前に出て、アストレルヴェインと正対した。
魔物に解願は効かない――確か昼間にそんなことを呟いていた気がする。
だとしたらヤミは何をもって戦うつもりなのだろう。戦えるつもりでいるのだろう。
「昼間の奴のようにはいかないね」
おもむろに、ヤミが刀を抜いた。ヤミの戦い方は後の先を取るやり方だった。つまり、戦いの最中であろうと刀は収めていることがほとんどだった。だが、今はその抜身の刀身が、篝火を受けてぬらぬらと揺れていた。
「先生、何を……」
「倒しゃいいんだろ」
「無茶ですよ、こんなの!」
こんな巨獣相手に、刀一本で何ができるというのか。
アストレルヴェインがその巨大な口を開いた。眩いと感じるほどの輝きがその内側にあった。そしてその口は俺たちの遥か頭上にあった。ベスが槍を投げても届かないかもしれない。
炎が来る……!
俺は咄嗟にベスを振り返り、両手を広げて庇った。この行動が何の役に立つのかはわからなかったけども。
「レア、ベス、一撃凌いだら仕掛ける。陽動!」
凌ぐって、どうやるつもりなんだ。
だが、指示された以上、止まっているわけにもいかない。
「ベス、左右に散ろう。君は右だ」
「わ、わ、わかったわ」
俺たちはいったんヤミの後ろについた。炎が降ってくる。炎の欠片が落ちた地面は燃え、舗装路はオレンジ色に溶けた。
「――こいつごときにアタシは倒されたりはしない」
ほう、と、キケレアーナが呟いたのが聞こえた気がした。
アストレルヴェインが口から炎を噴き出した。まるで滝のような火炎だ。
思わず両手で顔を覆ってしまった俺だったが、予想していた痛みや熱さは襲ってはこなかった。
どういうことかと恐る恐る前を見ると、俺たちを楕円形に囲むようにして地面が燃えていた。
何かの結界のようなものが発動した、ということだろうか――。
山羊頭の魔物、ウーベレッカは倒された後で砂になった。それはクラッドノウトの支配下にあったからだ。
だったら、こいつは? アストレルヴェインもまた、キケレアーナの支配下にあるのではないか。であれば……。
「そういうことだ、レア。アタシがキケレアーナの願を解いた」
――アタシたちを焼き殺そうという願をね!
ヤミはそう言って、俺を振り返って目配せをした。
俺はベスと頷き合って、左右に散った。
次手は。次手はどうする――。
最初の一撃は防いだ。どうしてキケレアーナの願を解いたことで、炎が俺たちを避けたのかはわからない。だが、とにかく初撃でおしまいという事態は避けることができた。
しかし、二度目はないだろう。キケレアーナがそう易々と隙を見せることはない。
いや、待て。彼女は預言者だ。もしかすると今のヤミの行動すら彼女の予測の範疇にあった可能性すらある。
アストレルヴェインは俊敏だった。剣も槍も掠らせることさえできなかった。そして三次元的に動くこの巨獣は、執拗にヤミを狙い続けた。
その爪を、牙を、ヤミは正確に打ち返していた。巨獣のパワーは、抉られる石畳を見ても明らかだ。だがヤミはその長い白髪を風に靡かせながら、まるで舞を踊るかのような動きで往なし続けていた。
だがそれは、防戦一方であることを意味していた。俺もベスもまるで無視されていて、そして攻撃の機会すら得られなかった。
「ベス! 俺が最初に仕掛ける!」
「そんな、無茶よ!」
アストレルヴェインが動きを止める。口を開き、顎を下げる。真正面からヤミを焼く気だ。
間髪を置かず、巨獣は火を噴いた。ヤミが灼熱に飲まれ、跡形もなく消え去る――その絶望の光景、一瞬後の未来に、俺は突破口を見出した。走りながら、反対方向にいるベスに向かって叫ぶ。
「顎の下に!」
奴は顎を下げる。勝ち誇ったように、ヤミを真正面から見つめながらとどめを刺そうとしている。それはアストレルヴェインの慢心だ。
俺はゲミトルードを収めると、ベスに先んじて顎の下に到着した。俺は腰を落とし、両掌を上に向けた。ベスは目だけで「了解」と伝えてくると、そのまま勢いを殺さずに俺の手のひらを踏み台にした。
読み通り、アストレルヴェインが頭を下げる。俺はベスを思い切り投げ上げる。躊躇する余力などなかった。
「私たちを無視した代償は小さくないのよ!」
空中高くにいるベスの怒声が、静寂を引き裂いた。




