09-02. ジェスガルディア要塞
ジェスガルディア要塞に到着したのは、満月が煌々と照る真夜中だった。見渡す限り人の気配はなかった。その大要塞はひっそりと死んでいるかのようだった。
虫すら死に絶えたかのように、何の音もしない。耳が痛くなるほどの静寂が一面の暗黒の内に広がっていた。
「どういうこと?」
ベスが訝しんだ。ヤミは鋭い表情のまま、氷の視線を周囲に飛ばしていた。俺と並んで歩くヤミが手にした角灯が、地上で唯一の光源だった。
「キケレアーナが待ってる」
俺はすでに、ヤミとテスタロサに関わる部分を適当にぼかしながら、夢の内容を二人に話していた。
不安げな声でベスが呟いた。
「男爵は無事かな……」
「どうだろう」
夢ではハイザルク男爵に関する言及はなかったと思う。
そしてこの辺りから人の手足が転がり始めていたはずだ。だが、要塞の門に通じる道は、見える範囲ではきちんと舗装されており、特に目立った汚れはない。
「夢と違う……」
こんなことは今まではなかった。しかし、夢に関与してくることのできるキケレアーナがいる以上、こんなことは起きない方が不自然だった。だから、これからは夢が当てにならないということでもある。どう考えても呪術、あるいは魔法術においては、キケレアーナの方が上なのだから。
「メディオラ……いえ、キケレアーナ。預言者の二つ名の意味するところって、なんですか、師匠」
「文字通りさ。アタシも直接知るわけじゃないけど、聞いた話では、王国に迫る危機の全てを予言し、的中させていたらしい。レア、あんたの夢と同じような仕組みで、だろうね」
「俺の夢はそこまで未来は見えないみたいだけど……」
「キケレアーナは歴代最強の魔法術師さ。あんたより精度も感度も上だっただろうさ」
確かに。競える相手ではない……のだが、まさにこれから対峙しなくてはならないのが、その歴代最強の魔法術師だ。
「門は閉まっているな」
角灯を掲げながら、ヤミが言った。辺りはほとんど真っ暗闇だから、かなり近づかなければそうだとわからなかった。
当然ながら、外側からその両開きの扉を開ける仕組みはない。
「どうしよう」
門の間近まで歩み寄って、俺は二人を振り返る。影に落ちた門扉のあまりの暗黒の重さに押し潰されそうになった。
その時、突如要塞の随所に明かりがついた。城壁の上で焚かれている篝火たちのものだ。ある程度の間隔ごとに、見渡す限りずらりと炎が揺れている。まるで人魂のようだと俺は思った。死者が現世に現れる時、魂は揺れる炎のように見える――という説がある。
そして重たい音を立てて、目の前の門が開き始める。キケレアーナが俺たちを招き入れているのだ。
「行こう」
俺が言うと、二人は黙って頷いた。角灯の輝きが霞んでしまうほど、周囲は明るくなっていた。しかし、落ちる影は黒よりも暗い。
ベスの緊張を孕んだ息遣いが聞こえてきた。ヤミはというと、気配がまるで感じられなかった。時々視界に入れておかないと、いつの間にかいなくなっていたとしても気が付かないところだ。
「ようこそ、ジェスガルディア要塞へ」
門を通過した先にある巨大な広場に到着すると、彼女が、キケレアーナが姿を見せた。ベスが息を飲み、俺の背中に隠れたのがわかった。現実に目にすると、キケレアーナは一層不気味だった。細身にして異常な長身、顔にはたった一つの巨大な眼球、この夜闇の中でも、燦然たる金色の輝きを放つ紫の長髪、そして身体に張り付くような晦冥のドレス。
「お二人にはお初にお目にかかります。メディオラ、もとい、キケレアーナと申します」
「挨拶はいい。ハイザルク男爵はどこだ?」
ヤミが不愛想に問う。キケレアーナは緩やかに腕を組み、俺たちを睥睨する。
「男爵には男爵の役割というものがございます。私は男爵に危害を加えるつもりはありません。今は安全な場所におりますよ。なにせ、この要塞は、もはや到底安全とは言えない場所と化していますから」
「キケレアーナ、ここにいたはずの兵士たちは……?」
「私と男爵が到着した時には蛻の殻……。いえ、正確には」
キケレアーナは満ちた月と反対方向の空を指差した。ちょうど要塞の中央部あたりだ。
「……?」
夜空の中に何かがいる。
「妖獣アストレルヴェイン」
妖獣? アストレルヴェイン……?
「あなたたちが先ほど倒したのは魔獣ウーべレッカ。どちらも霊峰ダルフシュペントから現れました。いずれも強大な魔物です」
「それをアタシたちに退治しろとか、そういう話なのかい、キケレアーナ」
「お察しの通りです。これは通過儀礼だと思ってください」
「通過儀礼だって?」
俺はゲミトルードに手をかける。だが、まだ抜く気はない。
キケレアーナは鷹揚に頷いた。
「解願師ヤミ。率直に言って、私にとってあなたは邪魔なのです。いえ、正直に言えば、脅威でしかない。私の愛弟子、テスタロサの実の娘にして、継承者。全ての願いを解く力を持つ、異端中の異端。そして現代魔法術の祖である王族の血すら引く」
「現代魔法術の祖……?」
ベスが俺に囁いてくる。俺は首を振った。初耳だった。
「あら、若い二人はご存知ありませんでしたか。王族は魔導大戦で語られる英雄たちの血筋ではありません。王族は英雄たちによって作られた血脈なのですよ」
「……アタシもそんなことは知らない」
ヤミの声には珍しく動揺があった。全知全能に思えるヤミにも知らないことがある――そこに俺は何故か少しだけ安心感を覚えた。
「作られたって……どういう?」
ベスの疑問を背中で受けて、俺はそれを中継した。
キケレアーナは微笑んだ。顔なんてないのに、何の筋肉も動いていないのに、俺にはなぜかそれがわかった。
「王族は魔導大戦にてこの世界に現れた、人間そっくりの魔物、ジゼル・ディーレニアから始まっているのです」
「人間そっくりの魔物……」
俺とベスの声が重なった。ヤミの吐息が夜に溶ける。
そこでベスは思い出したように背負った荷物を下ろした。俺も荷物を下ろす。
上に目をやれば、妖獣アストレルヴェインと呼ばれた巨大な影が、昏い空を背に、じっと俺たちを値踏みするように睥睨していた。
「あの魔物を見事倒してみせてください、オルレアス」
どうしてそうなる!?
俺は理解に苦しんだ。だが、状況的にはやってみせなくてはならない。
「先生、あいつは先生を真っ先に狙ってくる可能性があります。気を付けて」
「ああ、だるいねぇ」
ヤミはそう言うと、腕組みを解いた。
俺はゲミトルードを抜き放ち、ベスは槍を構えた。
誰かが鋭く息を吸った――。




