08-04. 一瞬先の死
死んだ――と、思った。冷静に。
しかし、痛みも意識の消失も起こらなかった。
咄嗟に掲げた左手から、金色に輝く紫色の魔力が噴出していた。この色は……キケレアーナの髪の色だ。
その魔力が、降ってきた巨大な槍の威力を打ち消していた。
「なんで……!?」
俺は左腕を思い切り振り抜いて、その槍を明後日の方向に吹き飛ばし、ゲミトルードを両手で構えて斬りかかった。二本の触手が撓み、刹那の間を置いて突き出されてくる。俺を串刺しにする気か!
身を捻ってその二本の触手を躱すが、それの先端はすぐにこちらに向き直ってくる。ゲミトルードで弾き返し、身を屈め、跳ぶ。あと十歩。十歩、迫れればいい。
あと三歩、というところで、魔物が俺に向き直った。巨大な顔面、虚ろな眼窩。山羊の頭蓋骨を彷彿とさせるその顔。感情の見えないその顔に、俺は強い怖気を覚えた。
その右腕が横薙ぎに俺を襲う。不意打ちに過ぎるその攻撃に、突進していた俺の身体は対応できない。
バシッ!
俺の左腕が強烈な痛みと痺れを訴えた。魔物の腕が、例の金色の輝きを持つ紫の魔力によって弾かれていた。
守られてる……?
得体の知れない力が、俺の左腕を通じて放たれている。そしてそれは、確実に俺の身を守っている。どういうことなんだ?
キケレアーナの所に辿り着くまで死ぬな、という彼女からのメッセージだろうか。
「気に入らないが、そういうことなら……!」
俺は防御を捨てて、山羊頭の魔物に飛び掛かった。今度はその左手が俺を掴もうとしたが、それも魔力で弾かれる。接近したところで、相手の頭部や心臓部は遥か頭上だ。手の届く距離ではない。
一か八か。
一撃で決める必要がある。
俺はゲミトルードを右手に持ち直し、思い切り投擲した。
唸りを上げて飛んだゲミトルードは、魔物の右の眼窩に突き刺さった。
魔物は両手で目を押さえ、喘ぐ。大気と大地を震わすその咆哮に、俺たちはそれぞれ距離を取らざるを得ない。
「解願の通じない相手は嫌いだよ」
ヤミが刀を収めて、再抜刀の機会を待つ体勢に入った。魔物が次に何を仕掛けてくるのかはともかくとして、ようやく一息つけたという感じだ。
そして俺の剣は魔物の眼窩に刺さったままなので、俺は今、丸腰だ。自力では身を守る術もない。
山羊頭の魔物は地面に両手をつけると、その下半身を引き摺り出した。膨大な量の砂と石が降ってくる。ありがたいことに、その弾みでゲミトルードも降ってきた。
「しかしこれ、どう相手すればいいんですか!」
俺の声は情けなくも大きく震えていた。自分たちに敵意を持つ、巨大すぎる魔物の全容を目にして、震えない方がおかしいだろう。
「知らないねぇ。アタシだってこんな手合いは初めてさ」
「師匠、それじゃお手上げじゃないですか」
ベスがじりじりと後退しながら言い募った。ヤミは魔物の向こうで笑っている。
「生きてる限りは負けじゃないさ」
この状況で笑っていられるその強さは何なんだと俺は思ったが、目下魔物の初手を見切らなくてはならない。下手すれば広範囲の攻撃で全員が一発終了の可能性すらある。
――待てよ?
ジェスガルディア要塞の兵士はこんな魔物と日夜やりあっているのか?
そんな疑問が湧いてきた。
攻城戦兵器でもあればやれるのだろうか。にしても損害は非常に大きくなるだろう。
もしそうでなければ。普段はもっと力の弱い魔物しか出てこないのであれば。
この山羊頭の魔物は誰かが恣意的に呼び寄せたものということにならないか。
だとすれば、キケレアーナの線は消える。わざわざ魔物を嗾けておいて、俺を守ったりするのは道理が合わない。
ならば、クラッドノウトか。
キケレアーナの所に着くまでに決着をつけておきたいということか。
俺はその巨体を見上げる。弱点を突けなければ、さしものゲミトルードと言えど攻撃が通ることはないだろう。
山羊頭の魔物が呼吸するたびに、その口元から魔力が溢れてくる。むせ返るほどの濃密さだ。
夏に相応しくない寒風が頬をピリピリと刺激した。
巨体が動いた。両手にそれぞれ巨大な戦斧を出現させた。あんなものを食らったら一撃で挽肉だ。受け流すのも現実的ではない。
「ちょっ、これ、ど、どうするのよ」
ベスの声が大きく上ずっていた。気持ちはわかる。
ヤミはというと、この状況にも関わらず悠然と腕を組んでいる。何か勝算でもあるのだろうか。
「先生とベスは後退して。余裕があれば陽動してもらえると助かる」
キケレアーナの目論見が俺の読み通りだとすれば、この局面は打開できる。その読みが外れていたら、俺はそれを知る前に挽肉にされている。
怖くないかといえば怖い。膝も震えているし、ゲミトルードの切っ先も落ち着かない。だが、今、この三人の中で状況を好転させられる者がいるとするなら、それはきっと、俺だ。
「来いよ、山羊野郎!」
挑発が通じる相手なのかはわからないが、俺は自分を奮い立たせるために声を張った。
山羊頭の魔物は俺を見下ろすと、大きく魔力を吐いた。そして、左右の手の斧を矢継ぎ早に打ち落ろしてくる。そのたびに地面が揺れ、石畳が砕け、土埃が舞った。
読める――!
一瞬先の未来。自分が死ぬ未来が見える。意識の中で、何度も何度も俺は死んでいる。
しかし、俺は生きていた。死ぬ未来の選択肢を全て回避したからだ。
この山羊頭の魔物を倒す術までは見えない。
だが、倒せない未来も見えない。
希望は、ある。
「こっちの番だ」
俺は巨体の足元に回り込む。が、魔物も動くので、なかなか目的地に辿り着けない。
この魔物は、手足を使っている。ということは、この魔物にとって手足は必要なものだということだ。そして見える範囲での筋肉のつきかたは人間と近似している。となれば、弱点は絞られてくる――腱だ。足の腱を切られれば、身動きは取れまい。
しかし、足が狙えない。下手に狙ったら蹴られるか踏まれるかだ。
その時、俺の視界の端に白い輝きが入り込んだ。
ぶつん――嫌な音が響き渡った。
「いい陽動だったよ、レア」
その音の正体は、山羊頭の魔物の右足の腱が切れた音だった。ヤミの居合で一刀両断にされたのだ――と、俺が認識できるまで数秒のラグがあった。
しかし、この腱を一撃で両断するなんて。それはおそらく人間を二、三人まとめて切断するほどの威力があったということだろう。俺はヤミの底知れぬ異能に、改めて慄然とした。
鳥肌が立っているのを感じながらも、俺は山羊頭の魔物の顔面の前に立った。魔物は両手を振り下ろしてきたが、倒れている無理な体勢からの攻撃を回避するのは難しくなかった。
俺はゲミトルードを構え直すと、その眉間に思い切り突きこんだ。




