08-03: 筋肉の魔物
それから六日後、月の満ちる日の日中――。予定では今日の夕方にはジェスガルディア要塞に到着できるはずだった。要塞にほど近い集落で水といくらかの食料を補充した俺たちは、西の小高い丘を目指した。その頂上にジェスガルディア要塞がある。
「今日は風が冷たいわね」
隣を行くベスが吹き付ける山風に顔を顰めていた。曇り空だから、ただでさえ少し寒い。しかし、マントの類を着けねばならないほどの寒さでもないのが悩ましい。
要塞までの道は馬の行き来を考えて極めて精緻に整備されていて、歩くのにも苦労はしなかった。田舎育ちの俺には、こんな石畳は芸術品だった。
俺は左手の痣を睨む。薄くも濃くもなってはいない。だが、今もあの目玉の化け物――キケレアーナが俺を常に監視しているに違いない。全ての行動や言葉が筒抜けだと考えるべきだった。
――見られてるなら堂々と行くしかないさ。
悩む俺に、ヤミはそう言った。
ここまでの道すがら、俺はずっと不安だった。
「キケレアーナをどうにかできる公算はあるんですか?」
「そんなものない」
ヤミとのやり取りはずっとこんな調子だった。何の確信も、何の作戦もない。
西に歩を進めるに連れ、俺の心臓は早く、強く脈打ち始めていた。緊張と恐怖のせいだ。
「師匠」
「ん?」
「キケレアーナとジムレグだとどっちが強いんですか?」
「ん-……」
ベスの問いに、ヤミが珍しく考え込んだ。
「力と力でぶつかるタイプではないからねぇ、どっちも。どっちも陰湿な戦略家タイプさ。母さんは魔力を力に変える天才だったけど」
「先生、キケレアーナとジムレグが手を取り合っている可能性ってあるんでしょうか」
俺が尋ねると、ヤミは足を止めて振り返った。
「その可能性はアタシも考えた。だけど、だとしたらアタシたちはとっくに死んでる。ヴァレスの助けがあったとしてもね」
やや迂遠な回答をして、ヤミはまた前を向いた。
「さて、この辺からは魔物の領域だ。魔力が濃くなってきてる」
「魔物……」
俺はベスと顔を見合わせた。確かに息が詰まるような感覚があった。よくよく注意すると、うっすらと紫っぽい霧が生じてきている――。
「局所的な魔力凝縮、か」
ヤミは腕を組んで灰色の空を見た。
「アタシたちが狙われているね」
「落ち着いている場合ですか、師匠」
ベスが慌てて荷物を下ろし、槍を構えた。俺も荷物を街道の端に置いて、ゲミトルードを抜いた。ギラリと輝く刀身が霧を確かに切り払った。
その時、俺は耳鳴りを覚えた。立っているのもつらいほどの強力なそれに、俺は膝をついてしまう。だが、ベスは平気なようだ。ヤミはというと、背中を向けられているのでよくわからない。
「どうしたの、レア」
「なんか来る!」
「えっ」
そう言っている間に、街道から腕が生えた。石畳を吹き飛ばして生じたその右腕は、人間のそれの何十倍も太い。腕から推測されるその魔物の身長は――いや、考えないでおこう。
「こんなものが日常的にここらを闊歩していたとは考えられないねぇ」
「お、お、お、落ち着いている場合ですか、師匠!」
ベスの声は聞いたことがないほどの動揺に塗れていた。
それが地面を割って姿を現す。下半身は完全に地面の下だったが、それでも人間の五倍から六倍の大きさはある。全体的なフォルムは人間なのだが、筋肉の量が尋常ではなかった。腕も、胸も、肩も、とにかく見える全てが隆々と盛り上がった筋肉だった。
俺は耳鳴りに耐えて剣を構えて、半ば怒鳴るように言った。
「ベスを奪いたいクラッドノウトが仕掛けてきたと見るべきか」
「それとも、私たちを消耗させておこうっていうキケレアーナの一手か」
そう言いながらベスは槍を構えた。とはいえ、この槍で刺したところでダメージは小さいだろう。
そしてあの巨体の前にはヤミの居合も効果は上がらなそうだ。となると、俺とこのゲミトルードの力が必要なのかもしれない。
ヤミが言う。
「魔物は魔力を吸って生きている。その流れを断ち切れば奴らは存在を維持できない」
「ゲミトルードでその流れを切れと?」
「そういうことさ」
――と、簡単に言われましても。
俺はゲミトルードを構えると、魔物の左側に回り込もうと走る。その間の囮はヤミとベスが引き受けてくれている。
背後に回れれば、活路はあるかもしれない。ただそう思っただけだ。
「魔法術が来るよ!」
ヤミの警告が飛ぶ。それとほとんど同時に、魔物の全周囲に衝撃波が放たれた。石畳が吹き飛び、礫となって次々と俺に命中した。直撃していたら即座に戦線離脱を余儀なくされていたに違いない。幸い、小さな破片で頬や額が切れただけで済んだ。
だが、次も同じ幸運が続く保証はどこにもなかった。
俺はゲミトルードを振りかぶり、魔物の背面に斬りかかった。だが、突如生えてきた二本の触手によって街道脇の草むらまで弾き飛ばされてしまった。
「ちくしょう」
まさかの防衛装置に俺は舌打ちする。ヤミとベスは防戦一方だった。ヤミが刀を収める暇もなかった。それほどまでにこの魔物の攻撃には隙がなかった。
跳ね起きて、俺は再びその背中に吶喊した。触手が襲い掛かってくるが、軌道自体は単純だ。鞭のように撓るのが厄介ではあるが、落ち着いていれば避けられない速度ではない……!
「また魔法術!」
ヤミの再度の警告が飛ぶ。俺もそれは感じていた。周囲の魔力の密度が急激に高まったからだ。だが、何が飛んでくるかわからない。
「レア、上!」
ベスの声に従って上を見上げると、そこには人の使うものの十倍を超える太さと長さの槍が浮かんでいた。
その先端の鈍い輝きが、俺の視界いっぱいに広がった。
――もはや避けられる間合いではなかった。




