第8章 軋む理性 ― 怒りの果てに ―
冷たく鋭い言葉が飛ぶ会議。
環は震え、柊は寄り添い、凪は前を向く。
鷺沼の怒りの奥には、まだ言葉にならない揺らぎがあった。
午前10時。
アークシステムズとアルカディア・インテリジェンスの第八工程仕様確認会議が始まった。
面の中央には鷺沼の姿。
冷ややかに整った声が、会議室の空気を一瞬で凍らせた。
「――この設計では整合性が取れません。
“柔軟性”などという曖昧な言葉で工程を濁すのは、非効率です。」
凪が淡々と説明を続ける。
「確かに即時効率は落ちますが、長期的な保守性では――」
「保守性の前に、まず“結果”だ。」
鷺沼の声が低く響いた。
完璧に磨かれた理性が、鋭い刃のように飛ぶ。
その言葉の圧に、環の体がびくりと揺れた。
呼吸が浅くなり、手のひらの中のペンがかすかに震える。
(……怖い。声が出ない……)
幼い日の記憶が、ふいに胸を締めつけた。
叱責、沈黙、誰も助けてくれなかったあの頃の感覚が、
心の奥から這い出してくる。
その瞬間――
隣に座る柊が、静かに環の手を包んだ。
言葉はなく、ただ優しく頷く。
そのぬくもりが、環の震えを少しずつほどいていった。
画面越しにそれを見ていた凪が、
小さく笑って「大丈夫」と唇を動かす。
鷺沼は無言のまま、その一連の動作を見つめていた。
理屈の届かない優しさに、胸の奥がざわめく。
(……何なんだ、あの落ち着きは。
なぜ、怯えていた女性があんな目をできる?)
苛立ちが理性を突き上げる。
「――この件は再検討です。」
強い語気で言い放つと、会議を切った。
◇◇◇
会議室の画面が閉じたあと、
しばらく誰も言葉を発しなかった。
環は下を向いたまま、肩を小刻みに震わせていた。
柊がそっと近づき、彼女をやさしく抱きしめた。
「……もう大丈夫だ。よくがんばったな。」
その声で、環の中の緊張がようやくほどける。
凪は明るく空気を変えるように笑った。
「いや〜、また怒られちゃいましたね〜!
でも、これで引き下がるのも悔しいですよね!」
環は涙を拭き、少し笑顔を取り戻した。
柊が穏やかに言う。
「鷺沼さんにも、きっと譲れない思いがある。
でも――」
少し間をおいて、
「誰のためにシステムを作るのか。そこを間違えなければ、
俺たちは俺たちのやり方で貫けばいい。」
「ですね!」と凪が笑い、
環も小さく頷いた。
「……はい。」
そのとき、会議の隅で黙っていた一人の青年――
不破恭介が、静かに画面を閉じた。
彼は誰よりも早く出社し、誰よりも遅く残る努力家。
だが、いつもどこか焦っていた。
(……あの人たち、何なんだろう。)
効率も、スピードも、完璧さも、
あの温度にはかなわない気がした。
それが羨望なのか、嫉妬なのか、
自分でもわからなかった。
窓の外には、薄く差し込む午後の光。
そのやわらかな光が、
いつもより少しだけあたたかく感じられた。
怒りの裏側にあったのは“恐れ”だった。
不破だけがその影を感じ取り、静かに変化の気配を覚えていた。




