魔の森 2
ララが馬車を降りると、目の前には鬱蒼とした木々が広がる森があった。
肌がピリつくほど、重苦しい空気に満ちている。
馬車の周辺には、騎士の仲間とは到底思えないような黒装束を身に纏い、顔を隠した怪しげな男たちが幾人も馬車を囲むように立っている。
それはあの日、ララが城郭の街の牢屋から逃げ出した直後に襲ってきた者たちと同じ者に見えた。
(まさか、皇帝直属騎士のこの男の差し金だったの──?)
アルトリウス、今はアーヴィンという名の筆頭聖騎士の彼が率いているのは聖騎士だ。
皇帝直属騎士とは、同じ騎士でも異なる。
ララを追っていたのは聖騎士だと思っていたが、何か別の目的で皇帝直属騎士のこの男が動いていたとしたら──?
そして、あろうことか怪しげな暗殺者のような者まで使って、ララを亡き者にしようとしていたら──?
それはつまり、秘密裏に遂行している以外の何ものでもない。
(逃げなきゃ──)
ララは視線を素早く左右に走らせ、逃げ道を確認する。
相手は多勢、鍛え抜かれた騎士の元眼帯姿の男と、明らかに暗殺に特化した手練ればかり。
神聖力を使って一気に眠らせられれば逃げられるかもしれないが、扱い方を間違えれば癒しを与えたり、傷を治したりすることにつながるので、今はむしろ逆効果だ。
それに、そもそも手首には神聖力を封じる手枷がつけられていて、身動きもままならない。
(まずはこの手枷をどうにかしなきゃ──)
冷や汗が背中を伝う。
冷静さを保とうとする一方で、焦りが増す。
それは、自分を害そうとする男たちに囲まれているからではない。
ちらりと視線を上げる。
目の前に広がるのは、鬱蒼とした木々に覆われた森。
ただの森ではない、──魔の森だ。
その証拠に、まるでこちら側とあちら側とを隔てるかのように、この世のものとは思えない色合いで発光する深い青紫色の怪しい霧が立ち込めている。
その青紫色の霧がベールのカーテンのように揺らめく。
霧の向こうに見えるのは、何かがゆらりと動くような巨大な黒い影。
先ほどから耳に届いてくるのは、獲物を威嚇するような低い唸り声。
鳥のようでいて明らかにそれとは異なるほど大音量のキェーキェーという、異様な鳴き声までもが聞こえる。
さらに、ドスンドスンと地面が揺れるほどの振動がしたかと思えば、シュルシュルという大きな何かが地を這うような不気味な音まで響く。
霧の向こう、蠢いているのは、異形の何か──。
前世でも言い伝えでしか聞いたことがなかったが、魔の森には不思議な霧があるというのは本当だったようだ。
そして、魔獣はその霧を越えることができないという。
しかしその霧が消えたときには、魔獣は魔の森から躍り出て、本能のままに荒れ狂い、目につくものを襲うのだ。
向こう側、霧のそばの地面に目を向けると、そこには血溜まりのような赤黒いものがいくつも広がっているのが見えた。
おそらくひとりやふたりではない済まない、おびただしい量の血──。
その血を流したのが人間なら、その者はもう生きてはいないだろう。
血溜まりと飛び散った血痕のそばには、何かが引きずられたような跡もある。
つい最近、この場所で血が流れるような何かが起こったのだ。ララの肌が粟立つ。
弾かれるように顔を上げ、激しい嫌悪の目で濃紺の隊服を身につけた皇帝直属騎士の男を見やる。
「あなた、いったい何をしたの──?」
そのとき、背後でガサリッという音がした。
反射的に音がしたほうに顔を向けたララは、ヒュッと息を呑み、言葉を失う。
「なんで、ここに──」
「ララちゃん……」
そこには、数日前に城郭に囲まれた街で別れを告げたはずの食堂の幼い娘、ダナがいた。
ダナの両側を、怪しげな黒装束のふたりの男が固めている。
ダナは怯え切っていた。
その瞳からは大粒の涙があふれ、頬をぐしゃぐしゃに濡らしている。
ダナは助けを求めてララに駆け寄りたいのだろうが、両脇にいる黒装束の男らが、その手を幼い少女の小さな両肩に乗せて動くなと警告している。
皇帝直属騎士の男は冷めた目をララに向け、冷徹に言い放つ。
「子どもの命が惜しいなら、ここから先はひとりで行ってもらう。いやなら、ふたりで仲良く行ってもらうしかない」
ララはギリッと唇を噛み締める。
「その子は関係ないわ! 今すぐ家に帰してあげて!」
男はあっさりと承諾するように、軽く肩をすくめて見せる。
ララがそう言うと踏んでいた、とでも言わんばかりのそぶりだった。
本当にダナを無事家に帰してくれるのか。信用できないが、今はほかに選択肢がない。
でももしかしたらこの間にも、ララがいなくなったことに気づいたアーヴィンやテオが追ってきてくれているかもしれない。
そこにわずかな希望を託す。
ララはぎゅっと拳を握り締めると、対峙するように魔の森に視線を向ける。
筆頭聖女ララフネスだった頃の魔獣大討伐のときは、魔の森に到達する前に押し寄せた魔獣の大群に囲まれ、ララフネスは命を落としてしまった。だから前世でも魔の森に入ったことはない。
そもそも、魔の森に足を踏み入れること、それはすなわち死を意味する。
魔の森から生きて出られることはない、昔からそう言い伝えられているからだ。
かつては、興味本位やまだ見ぬ財宝を求めて森に入った人間もいたらしいが、誰ひとり帰ってきた者はいないという。
「──手を汚さずに殺すってわけね、これが騎士のやり方?」
ララが蔑むようにそう言うと、男は癇に障ったのか、片眉をぴくりと動かす。
しかし反論はせず、顎をくいっと動かし、あしらうようにララに進めと命じる。
ララは再び視線を前に向ける。
ごくりと唾を飲み込む。
魔獣に襲われても、神聖力さえ使えれば対抗できる。
先ほども、街に押し寄せたあれだけの数の魔獣を一掃できた。
しかし、出られないと言われている魔獣が蠢く森の中にひとりで入って、果たして助かる道はあるのだろうか。
魔獣と戦い続けるにも神聖力と体力には限界があり、そもそも未開の森の中で水や食料が得られるかもわからない。
考えるまでもなく、助かる確率は限りなく低い。
それでも──。
ララは振り返り、ダナに向かって少しでも安心できるように精一杯笑う。
「ダナ、怖い思いをさせてごめんね。でもちゃんとお家に帰れるから」
「ララちゃん……! 行っちゃだめ……っ!」
ダナが泣きじゃくりながら叫ぶ。
ララはその声を背にして、ゆっくりと踏み出す。
皇帝直属騎士の男の横を通り過ぎ、数歩進んだところでふと立ち止まる。
ゆっくりと肩越しに振り返ると、あえて高みから見下ろすように微笑んだ。
「ついさっきあなたは、わたしが本物の聖女だとするなら誰を選ぶか、と訊いたわね」
ララの唐突な問いかけに、男は怪訝げに眉をひそめる。
ララは冷ややかさを含んだ微笑のまま、続けて言った。
「次期皇帝は、少なくとも今目の前にいるあなたじゃない。あなたは自らそれを証明したの。自分の欲望のために他者を傷つけ、利用するような人間は論外よ」
ララは相手の反応を見ることもなく、覚悟を決めたように歩き出した。