牢屋と逃亡
──空が白み始めていた。
朝日が昇れば、街の周りを囲む城壁の城門が開く時間になる。
今朝、まだ夜も明けきらぬうちにお世話になった宿屋を出たララだったが、路地裏で息を潜めたあとで、今は城門を目指して、人々が動き始めた通りの端を足早に進んでいた。
通りには、野菜や果物などを載せた荷車を引く人や露店の準備を始めている人などの姿が見える。みな一様に忙しそうだ。
もう少しすれば、通りは買い物客でごった返し、より活気が出てくる。
ララも昨日まではその生活の中にいた。でも今はこの地を離れようとしている。
せっかく馴染み始めたことを思うと寂しさが募るが、留まるわけにはいかない。
まだはっきりとした確証は持てないが、自分は追われているのかもしれない。
考えられるとすれば、あの日帝都の皇城で、大聖女の聖杯と呼ばれる酒杯を拝借したことだが……。
自分を追っているのは、噂で耳にした聖騎士なのか、それとも別の誰かなのか──。
わからないが、宿屋の女将にララのことを尋ねた見知らぬ男がいたのは確かで、やけに胸騒ぎがする。
自分の気のせいならいい。
でも宿屋の女将やダナたちに迷惑がかかってからでは遅いのだ。
途中、街を見回る二人組の衛兵とすれ違いそうになり、ララは慌ててフードで顔を隠して露店の影に身を潜める。
衛兵らが通り過ぎるのを待って、通りに戻り、再び歩き出す。
そのとき、ふいに視界に入る小さな人影があった。
少し汚れた身なりの少年が、不自然な動きで露天の開店準備に追われる男性店主の背後から近づいている。
それは一瞬のことだった。
少年はつまずくふりをして店主にぶつかると、その拍子に店主の上着のポケットから財布らしきものを抜き取っていた。
考えるよりも先に、ララの体が動く。
すぐさま駆け寄ると、財布を握る少年の腕をさっと掴んだ。
「ちょっとだめよ、返しなさい!」
少年は突然手を掴まれたことに驚きながらも、すぐにパッと両手を広げる。すると、次の瞬間にはまるで手品のように、盗んだ財布をララの手に握らせていた。
「おじさん! このお姉さんが盗ったの、僕見てたよ!」
さも善良そうな顔で、少年が大きな声で叫んだ。少年はララに罪をなすりつけようとしているのだ。
財布を盗られたことに気づいた男性店主が、激怒しながらララに詰め寄る。
「おい、いつの間に! この泥棒め!」
「え⁉︎ 違います! わたしじゃありません!」
ララは両手を必死で振って否定する。
すると間の悪いことに、先ほどやり過ごしたと思った衛兵らが戻ってきてしまう。
「その手にあるものはなんだ? ちょっと話を聞かせてもらおうか」
二人組の衛兵のひとりが、素早く状況を把握するとそう言った。
彼らはララの手から財布を取り返すと男性店主に返したあとで、逃さないようにララの両手をきつく握り、有無を言わさず、通りから少し離れたところにある治安管理棟に連行する。
自分ではないと無実を何度訴えても聞いてもらえず、気づけばララは牢屋に入れられていた。
「──だからわたしじゃないんです!」
「じゃあ、誰がやったんだ!」
「えっと、それは……。気づいたら手にあって、でもわたしじゃありません!」
犯人ではないが、だからと言ってさっきの少年がやったと言うのは抵抗があった。
あの少年だって、もしかしたら親が病気で食べ物に困ってどうしようもなかったのかもしれないし、身寄りがなくなった孤児かもしれない。ララだって救貧院に拾ってもらえなければ、あの子のように犯罪に手を染める可能性だってあったかもしれないのだ。
衛兵は小馬鹿にしたように鼻先で笑ってから、
「はっ、もっとまともな言い訳を考えるんだな! そこでしばらく反省してろ!」
そう言って、牢屋から遠ざかって行った。
目の前には、錠が付いた頑丈な鉄格子がある。
錠はヘアピンで開けられるだろうか。
でも万が一見つかった場合、濡れ衣ではあるが窃盗だけでなく、脱走の罪まで加わってしまう。
ララは途方に暮れる。
冷たい石畳の上に腰を下ろし、膝を抱える。
──それからどれくらい経っただろう。
向こうから複数人の声が聞こえてきた。
どうやら三人ほどの衛兵が近くにいるようで、彼らは仲間内で雑談を始めたようだった。
聞くつもりがなくても、静かな牢屋にいてはいやでも耳に入ってくる。
「──そういえば聞いたか? 聖騎士団が近くまで来てるらしいぞ」
聞こえた言葉に、ララはハッと顔を上げる。
「へえ、なんだってこんな辺境に?」
「魔獣だってここ何年も出現してないだろうに、遠征訓練か?」
「表向きはな。でも本当のところは、なんでも帝都で行われている聖女選定中に、大聖女さまの聖杯を盗もうとした罪人が逃げたとかで」
ララは耳を疑う。さっと血の気が引く。
それはまさに、ララのことを指しているとしか思えなかった。
衛兵たちはララが聞いているとも知らずに、愉快そうにしゃべり続ける。
「大聖女さまの聖杯を? とんだ命知らずなやつだな。何年か前に大聖女さまを侮辱したどこぞの貴族さまは、そのすぐあとに帝都からこつ然と姿を消したって噂もあるっていうのに」
「ああ、そういえばそんなこともあったな、はははっ」
「あと、聞いた話によると、その罪人は若い娘らしいぞ。今朝、管理官と副管理官が話しているのを聞いたんだ、間違いない」
「へえ、若い娘ねぇ」
「でもなんだってまた聖杯を? 宝石を盗むならまだわかるが……」
そこで不自然な沈黙が流れる。
こちらを窺うような、いやな気配がした。
ややあってから、抑えた声音で、
「……その若い娘の容貌は?」
「いや、そこまで詳しくは……」
思案するような間があった。
しかしすぐに、衛兵のひとりが笑い飛ばすように、
「ま、こんな辺境でスリをして捕まる間抜けじゃないだろ!」
(──聞こえてるわよ!)
ララは思わず反論したくなるのを堪える。
「ははは、そりゃそうだ!」
「違いない!」
衛兵たちは、さもおかしいというようにゲラゲラと笑う。
馬鹿にされたことには憤りを覚えるが、牢屋に入れられたままでは、聖杯を盗もうとした若い娘がララだといずれバレてしまうかもしれない。
もっとも聖杯を盗もうとしたわけではなく、ちょっと拝借しただけなのだが、自分を追って来ている相手は盗人だと思っているのだろう。
そのうえ、こんな辺境に聖騎士を動かしてまで追って来るなど、相当な執念を感じる。よほど逆鱗に触れてしまったのかもしれない。
それについ先ほど、衛兵たちは大聖女を侮辱しただけでどこかの貴族が消されたらしい、という話をしていたではないか。
平民の自分が捕まればどうなるのか。
ララは身震いし、焦りを滲ませる。
(このままここにいるのは危険だわ、やっぱり逃げなきゃ──)
左右を見回し、衛兵たちがまだ向こう側にいるのを確認してから、
「……フィー、いる?」
小声で声をかける。
返事を期待したのだが、いくら待っても返事はなかった。
「……はあ、肝心なときに助けてくれないんだから」
妖精は気まぐれだ。そもそもフィーのように人間に声を聞かせ、姿を見せ、力を貸してくれることのほうが稀だ。
自力でなんとかするしかない。ララは腹を括った。そして渾身の演技を始める。
「──うー、うー、あいたたた! 痛いー!」
大きな声で叫び、お腹を抱えて悶え苦しむふりをする。
向こう側にいた衛兵たちが、慌てた様子で駆け寄って来る。
「おい、どうした!」
「なんだ、なんだ!」
「病気か!」
態度が悪く怠慢気味な彼らでも、一応は国に仕える兵士ということで、病人を心配する心は持っていてくれたようだ。
衛兵たちは鉄格子の錠を外して、牢屋の中へと入って来る。
だが、若い娘相手にどう対処したものか迷っているらしく、おろおろするばかり。
「ど、どうする?」
「医者を呼んだほうがいいんじゃないか?」
「おい、お前呼んで来い」
ララは床にうずくまり、
「お腹が急に──っ! ぐっ!」
さらにお腹を抱えて苦しむふりをする。
と同時に、一瞬の隙をついて、片手をかざす。
素早く神聖力を発し、衛兵たちを眠らせる。
「ふう……」
ぐーぐーと気持ちよさそうな寝息を立てている彼らの体を跨ぎ、ララは牢屋を出る。
自ら牢屋の鍵を開けて逃げるよりも、たまたま開いた隙に逃げた──というほうが、もしあとで捕まった場合でも、まだ言い訳できるような気がした。今のララには何の身分もないため、かなり無理があろうとも、いざというときに少しでも身を守る言い訳は必要だ。
「本当にごめんなさい」
振り返り、とりあえず眠っている衛兵たちに向かって謝っておく。
ララは急いで治安管理棟を抜け出した。