第四十三話 願い
苦楽の兄は、父王の血を濃く継ぐ優秀な妖だった。
対して苦楽は母によく似て線の細い、どこか頼りなさげに見える妖であった。
そのため、妖力は強いものの周囲から王の器とは見なされず、常に兄への憧れと微かな劣等感を抱いて生きてきたのだ。
兄の様には決してなれずとも、いつか王となる兄の一翼を担えるように。
だが、その願いが叶うことは無かった。
始まりは兄がある妖を見初めた事だった。
美しいが身分の釣り合わぬ妖。
長き説得の末、兄は遂に父母に結婚を認めさせた。
故に誰もが二人の結婚を当然のものとして捉えた。
王となる者の求婚を断る者などあるはずが無い。
苦楽もそれを信じて疑わなかった。
だから彼女が行方をくらますなど、誰も予想だにしなかったのだ。
兄がようやく彼女を見つけた時、彼女は既に人間との子をその身に宿していた。
冷静な兄が何故己を見失ったのかは分からない。
簡単に殺されるはずがないことは、誰もが承知していたことだ。
だが単身密かに彼女を連れ戻しに行った兄は、人間に斬られて瀕死の状態で戻った。
今、苦楽は思う。
兄は彼女自身の口からその思いを聞き、絶望し、諦めてしまったのではないだろうか。
愛する者の心が決して自分に向かないことに。
王として嘱望される自分が、己の心ひとつ抑えきれぬ小さな存在であることにー。
変わり果てた兄の帰還に周囲が騒然となる中。
彼は呆然と立ち尽くす苦楽を渾身の力で引き寄せてこう懇願した。
-苦楽……どうか、彼女、を-
当時の苦楽には分らなかった、あの言葉の続き。
きっと、彼女を守れ、と言いたかったのだ。
兄は最期まで彼女を愛していたのだから。
けれども苦楽も含めた妖達は、兄の死により怒りと憎しみに囚われてしまった。
どれだけ残酷な死を彼女とその人間に与えられるか、苦楽も身を焦がれる程に考えた。
彼女が死んだという知らせが届いたのは、未だその答えが見つからぬ時。
憎き仇である彼女は出産後まもなく命を落とした。
妖の身に人の子を宿したことに、彼女自身の体が耐えられなかったのだろうと噂された。
王を愚弄し人間如きに降った当然の報い。
そう、皆が歓喜したのはほんの一時。
-まだ、仇は残っている-。
消化不良の復讐熱はより強まって、残された人間の男とその半妖の娘へと向かい。
狂気にも似た熱気の中、父王は苦楽に親子の粛清を命じた。
兄に似ず、兄を慕い、妖力こそあれども決して王の器ではない子。
だからこそ、他の多くの兄弟との後継争いの場から弾かれた子。
それが苦楽が選ばれた理由だ。
分かっていても、苦楽は喜びに満ちていた。
-兄の仇を決して許しませぬ。必ずや奴らに絶望の深淵を味合わせて見せるとお約束いたします故、どうぞお任せを-
人間の時は妖のそれより遥かに早く過ぎる。
周到な用意の末に苦楽が彼らの元に向かった時、妖と人間とを親に持つ子は既に少女となっていた。
一人手毬で遊んでいた幻に近づくと、意志の強そうな真っ直ぐな瞳で自分を見上げてきた。
初めて会う娘だが、彼女によく似ていると思った。
「妖か」
「……よくご存じで」
「つなぎ屋の娘を甘く見るな。父に用か」
「いいえ、あなたです」
「……?」
「つなぎ屋は妖を排する。快く思わぬ連中があなた方を狙っているのはご存じないか」
「そのようだな」
確かにこの一年程、親子は何度も妖に襲われた。
だが、それを命じたのは苦楽だ。
復讐のためなら時間は惜しまない。
彼らの懐深くに入り込み信用させた上で、裏切って、殺す。
それが苦楽の出した答えだった。
「すべての妖がそのように浅ましいものとは思われますな。御父上がご不在の折は、私があなたをお守りいたします。……どうかこの身を僕としてお使いください」
じっと苦楽を見つめていた瞳が、ふと和らぐ。
大人びてはいるが、そうして笑うと年相応の子供のように見えた。
「話し相手がいれば当分は退屈せずに済みそうだな」
「私が怖くはありませんか」
「半妖が妖を怖がる必要があるか。私もお前も同じ存在。少しも変わらぬ」
思いがけない反応に、苦楽は微かな戸惑いを覚える。
「僕ならば決して傍を離れぬと誓え」
「御意」
「……そういえば、まだ名を聞いていなかったな」
「苦楽、と申します」
それが出会いだった。
***
戻った幻の部屋では、幻が額を抑えるようにして俯いていた。
その背にも、もちろん傷は無い。
猫と彩の視線を受けた伊織が、幻に声を掛ける。
「師匠、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ。不意に頭痛がしてな。……今何か話していたんだったか」
「……いえ、何も」
「お茶でも用意しましょうか?」
「ああ、お茶なら……」
言いかけた幻が、ふとその口を閉じる。
いつもならば苦楽が用意していたはずのお茶。
息を詰めて見守る伊織達に、幻はしばし考え込み、そして肩をすくめた。
「そうだな、頼む。いつもは宝に頼むのだが、たまには休ませてやりたいしな」
「……はい、すぐに」
伊織をその場に残し、彩と猫とで下に降りる。
階下では、困った様子の女性と宝が一緒にいた。
「すみません、私何かご迷惑をおかけした気がするんですが、よく思い出せなくて」
大丈夫だと告げて、女性を帰らせた。
宝はにこにこしながら彩の傍に駆けてくる。
「お姉ちゃんも猫ちゃんも、上に行ったまま全然もどってこないんだもん。早く双六の続きしようよ」
「……宝、あの」
あの時、咄嗟に宝にここに残るよう言ったのは猫。
彩は伊織の傍にいたことで、苦楽を覚えている。
ならば宝は-。
恐る恐る尋ねようとした彩の横から猫が口を挟む。
「宝、今我らは幻様にお茶をお持ちするところじゃ。……今日は我らが来ておるからよいものの、毎日宝一人で幻様のお世話は大変ではないか」
「え……あ、そうだね。でも大丈夫だよ、幻さんは優しいから」
「……そうか、よかったのう」
言葉を失う彩を促し、二人で茶を入れ二階に戻る。
「ああ、済まぬな」
そこにいるのは既にいつも通りの幻で、猫が渡した茶を一口飲んで顔を上げる。
「彩」
「は、はいっ」
「お前は初めてあった時から変わらぬな。そう畏まるなと言ったろう」
「……すみません」
幻は可笑しそうに笑ったが、畏まった訳では無い。
ただ、どんな顔をして幻と話せばいいかが分からなかったのだ。
そうと察した伊織が横から助け舟を出す。
「師匠が怖いんじゃないですか。あんまり脅かさないでくださいよ」
「何をいう。私はお前は虐めても彩は虐めん」
「それこそ何をいう、ですってば」
顔を顰める伊織を見て、幻が一層楽しそうに笑う。
その笑顔に泣きそうになり、彩は必死に耐えた。
「お前が口を挟むから話が逸れたではないか。少し黙っていろ。……なあ、彩」
「はい」
「伊織には、育ての親として、そして師匠として、伝えるべきことは伝えたつもりだ。お前には、伊織の両親の分も私が替わりに言わせてもらう……伊織をどうか、よろしく頼む。共に幸せになれ」
「え……」
「師匠」
不意打ちのような幻の言葉に、虚をつかれた。
その言葉の意味するところに思い至り、気恥ずかしさを感じる一方。
直前まで話していた伊織との会話の内容まで覚えているのに、何より大事な存在を失った幻を思い、切なくなる。
「……俺の行く末を勝手に決めないでくださいよ、師匠。自分のことは自分で決めます」
複雑な表情のまま、伊織が反論する。
それは幻からすれば、伊織が己のことで悩んでいるように見えただろう。
まさかそこに、自分に対する憐憫があるとは思いもよらないはずだ。
***
それから間もなく。
三人が帰って行く後ろ姿を、幻は窓から見下ろしていた。
そしてふと思う。
彩のことを彼らが初めて聞きに来た時も、同じようだったと。
-良かったんですか、あのまま帰してしまって-
「……?」
誰かの声が聞こえた気がして、顔を上げる。
その拍子に、涙が一滴頬を伝い落ちた。
「……何だ、これは」
理由が全く分からない。
不可思議なこともあるものだと、幻は思う。
そこに背後から本当に声がかけられた。
「幻さん、そろそろお夕飯の支度をしますね」
「ああ、ありがとう。私も手伝うよ、一緒に行こう」
「はい!」
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