第四十二話 喪失
伊織の叫び声で、苦楽は我に返った。
そして家中に絡み付いた妖気に歯噛みした。
これに気づかぬとは、完全に油断していた。
あの香が目眩しか-。
「お前だな!」
一変した苦楽の声と表情に、女は青ざめて全身を震わせた。
殺される、そう思って必死に弁明する。
「わ、私じゃありませんっ、本当です! ……ただ、そこで知らない女性に、お、脅されて……この香をつけて、こ、こちらでなるべく、時間を稼いでろって……」
苦楽の中に辛うじて残った理性が判断する。
そうだ、この女はただの人間だ。
ならば自分が今為すべきことは、この女を殺すことではない。
苦楽はその場に女を残し二階へと駆け上がった。
ほぼ同時に隣の部屋からも猫らが飛び出してくるのが、横目に見えた。
「幻様!」
幻の部屋の中では伊織が幻を抱え呆然としていた。
傍に膝をつき、血の気を失った幻の顔と、その背の染みを目の当たりにする。
苦楽の後に続いた猫が、幻の背に手を添えた。
「血が止まらないんだ。……このままだと、師匠が」
「この傷……この妖気。苦楽、どういうことじゃ!」
苦楽は猫の問いには答えず、幻が背を預けていた壁を睨みつける。
そして、振り返らずに伊織の名を呼んだ。
その声は静かであるのに、その場にいた全員が、彼の底知れぬ怒りを感じ取った。
「伊織……幻様が襲われる直前につなげろ」
「苦楽」
「……幻様はまだ死んでいない。死んでしまえば、私の命を対価にせねばならん。……だがそれでは駄目だ、私には果たさねばならぬことがある。……今ならまだ、間に合う。今すぐにつなげ」
苦楽の言葉の真意が分からない。
だが、伊織は苦楽を信じた。
「対価は」
「……幻様の、私に関わる全ての記憶を」
「!!」
驚く伊織達であったが、苦楽はさらに首を振った。
「いや、それでは足りぬ。ご自分だけが記憶を失えば、幻様はきっと苦しまれる。……対価は幻様と、この世の全ての人間の記憶から私の存在を消すことだ」
伊織は自分の腕の中の幻を見つめた。
辛うじて呼吸があるものの、意識は無いようだ。
幻に対する苦楽の思いは、鈍い自分でももちろん気付いている。
そして苦楽に対する幻の思いも。
それでもなお苦楽が選んだ道を、伊織には止められなかった。
きっと幻も自分の両親を前に同じように悩み、そして決断したはずだ。
「憑代は」
「伊織!」
彩の悲痛な声が聞こえた。
猫は何も言わずに幻を見つめている。
そして苦楽は。
ようやく振り返ると、幻の髪にそっと触れ。
愛しむように小さく笑い、赤い簪を引き抜いた。
「私が差し上げた、この簪を」
「承知した。依頼を引き受ける」
猫に幻を預け、伊織は立ち上がり刀を抜いた。
幻の様子が変わったのは、彼女の言葉の途中。
恐らく襲われたのはその瞬間だ。
動揺する気持ちを抑え、その時への道を探る。
「……見えた。つなぐぞ」
苦楽は頷き、そして言った。
「伊織、猫……幻様を頼む」
つないだ先で、幻が驚く。
いきなり目の前に苦楽や猫、彩が現れたのだから無理もない。
一方で、もともとその場にいたはずの伊織、そして猫が支えていたはずの瀕死の幻の姿が消えていた。
「……つなぎか? まさか、苦楽」
苦楽は答えず、凍てつくような冷たい眼差しで、幻の背後の壁を見据える。
そしてその全身から放たれる禍々しい妖気。
その凄まじい強さにふらつく彩を伊織が左手で支え、その耳元に囁く。
「すまんが耐えろ。そして俺から離れるな。離れればきっと、彩も記憶を失くす」
「……!!」
「逃がさぬぞ」
壁に向かった苦楽が、その眼差し同様に冷えた声を放つ。
すると壁の中から、非常に苦し気な声が聞こえた。
苦楽の妖力が、壁の中に潜む妖を捕えているようだった。
以前、虹丸のつなぎの最中に犯人の動きを封じた時と同じように。
「王からの、直命です……最早、苦楽様には……任せておけぬと。邪魔を、召さるな」
「黙れ。人間を使い、我を騙し、幻様に手をかけるなど愚劣極まりない」
「苦楽……様……お許しを……私は」
「やめろ、苦楽!」
強い口調で幻が言い、苦楽を止めようとした、
だが幻もまた苦楽の妖気で動きを封じられていた。
これまで知る苦楽の妖気と比べられぬ程の強さに、幻は愕然とする。
「幻様。申し訳ありませんが、その命には背きます」
幻のすぐ横に膝をつくと、苦楽は壁にその手を伸ばした。
その手が、壁の中にずぶずぶと入り込んでいく。
間をおかずして、妖の叫び声が響いた。
「苦楽……駄目だ!」
「……!」
伊織の必死の呼びかけに、苦楽が動きを止めた。
その一瞬の隙を逃さず、妖は逃げて行ったようだ。
「……悪いな、伊織。……もう少しで殺してしまうところだった」
殺せば自分も裁かれる。
それでは本当に幻を救うことは出来ないのだ。
怒りに任せ、全てを台無しにするところだった。
壁に腕を差し込んだ苦楽の顔は幻の真横、すぐ触れ合う程のところにあった。
ゆっくりと腕を引き抜きながら、苦楽は密やかに幻に話しかける。
「気づいておられたのですね、あの妖に」
「私を甘く見るな。……前に言っただろう、私は十分に生きたと。私が殺されることでお前の立場が守られるならば、それでいいと思った。……本当はお前自身に手を下して欲しかったがな」
「呆れた方だ。……私がそれを良しとするはずがないでしょう。あなたは死なない」
「つなぎの対価はなんだ」
「幻様の記憶の中の私です。……今の私は、もうあなたには必要が無い」
「!!」
幻が目を瞠る。
いつの間にか妖気が消えており、体は自由に動くようになった。
その手で苦楽の両肩を掴み、いつもと同じ笑みを浮かべるその顔を睨みつける。
「それは絶対に許さん。人の記憶を勝手に消すな」
「……つなぎはもう成った。私の勝ちですよ、幻様」
「駄目だ。伊織、つなぎはならん」
「……」
伊織は困ったように目を伏せた。
彩を支えたままの腕に、痛いほど力が込もる。
成ったつなぎをとめることなど誰にもできない。
そして、それを誰よりも知っているのは幻自身だ。
「お前は卑怯だ、苦楽」
肩をつかむ幻の手をそっと外し、苦楽は自分から幻を抱きしめた。
「無礼をいたしますがお許しを。……幻様。私はまだ嘘をついていた。私は……妖を統べる者の息子です。父の考えを変えぬ以上、この先いつまでもあなたは狙われ続ける。私は父を説得しに戻ります。そして、いつか必ず父を説得し、あなたの元に戻ります。……あなたが私を忘れていても、必ず戻ります」
「……苦楽」
「ですからご安心を、幻様」
体を起こし、見慣れた笑顔を見せる苦楽。
幻の視界に映るその顔が、急激に色を失って空に溶けていく。
それとともに幻は、己の頭の芯が麻痺していくような感覚を覚えた。
「待て、苦……」
名を呼ぼうとして愕然とする。
大事な僕であるはずのこの男の名は、一体何であったろうか。
伊織が、痛みをこらえるように告げた。
「つなぎは成った……元の世に戻ります」
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