第四十一話 親から子へ
それぞれにとって、長い夜が明けた。
「俺は師匠の所に行くが、二人はどうする?」
「今日は虹丸がおらぬで、宝に会いに行くとするかのう。それより、お主の体調こそどうなのじゃ」
「ああ、大丈夫だ。心配ない」
そう言ってはいるものの、伊織がほとんど寝ていないことを猫は知っている。
そしてもう一人。
彩の目の下にうっすらと出来た隈が、何より事実を物語っていた。
「私も……宝に会いたいな」
「じゃあ、皆で行こう。少し俺の方が長くなるかもしれんが、我慢してくれ」
幻の家に着くと、宝と苦楽が迎えてくれた。
「お姉ちゃん、猫ちゃん、いらっしゃい! 伊織はもう大丈夫なの?」
「……何故、俺だけ呼び捨てなんだ」
「幻さんと苦楽さんがそれでいいって」
「……全然よくない」
憮然とする伊織を見て宝が笑った。
知らぬうちに随分表情が豊かになった宝に、猫も驚いたようだ。
「なんと。笑うと随分可愛いらしい子なのじゃな、宝は」
「猫ちゃん、大人の人みたい。宝と同じ子供なのに」
「む。ワシは宝よりはずっと大人じゃ」
「こんなに小さいのに?」
「大きさの問題ではないのだ」
二人のやりとりに、彩の顔にも漸く笑顔が戻る。
それを見ていた伊織も小さく笑い、そして横に立つ苦楽に話しかけた。
「じゃあ、俺は師匠のとこに行ってくるから」
「うん。ところで具合は本当に大丈夫なのかい?」
「すっかり治った。心配かけてすまなかったな」
「それは私より幻様に言う言葉だよ。様子を見に行けと何度も急かされて大変だった」
「……そうか」
「納得がいくまで、今日はしっかりと幻様と話しておいで。こちらは私が引き受ける」
苦楽が穏やかな表情のままで伊織に手を振った。
「ああ、頼む」
階段を上り、戸が開いたままの幻の部屋を除く。
今日は鞠が飛んでくることもなく。
幻は壁にもたれて窓の外を眺めていた。
伊織は部屋に入り、正座をして頭を下げた。
「師匠。心配おかけしてすみませんでした」
「子供を助けたそうだな」
「……まあ。でもそれで自分が川に落ちてりゃ世話ないですけどね」
幻はゆっくりと窓の外から伊織へと視線を移した。
物心ついた時からずっと伊織の傍にいた幻。
その顔が伊織の姿を捉えて、ふと和らぐ。
「やはり伊織はあの二人の子だな。よく似ている」
「……二人、ですか」
「そう、お前の父と母だ。彼らは本当に優しい人間だった。……だが二人を失ってもなお、お前は立派に優しさを備えた人間へと成長した。そこには間違いなくお前自身の努力があったはずだ。私は、今のお前を心から誇りに思う」
「俺じゃない。師匠がいてくれたからです。それに苦楽も、猫も」
「私はお前が思うような師匠でも、親代わりでもない。お前に知られるのが怖くてずっと事実を隠してきたが、そろそろ子離れをせねばいかんな。……長くなるが、聞いてくれるか」
「……はい」
***
階下では、彩と猫と宝が絵双六に興じていた。
苦楽が宝のために買ってきたばかりとのことで、折角なので外には行かずに試してみることにしたのだ。
なかなか白熱した展開に、猫も宝も目が出る度に一喜一憂する。
そんな二人につられ、彩もしばし現実を忘れて楽しい気分で過ごしていた。
その横では苦楽が三味線の音合わせをしている。
と、店の戸を叩く者があった。
苦楽が応対に出て見れば、そこに立っていたのは見知らぬ若い女性。
「あの……こちらで三味線のお稽古を受けたくて」
「ああ、そうですか。……すみません、今日は稽古が無いんです。明日でしたら他の方もおられるのでご一緒にいかがでしょう」
女性は少し悩むような様子をみせ、そして、おずおずと切り出した。
「実は私、三味線にはまったく不慣れでして……。もし出来るなら明日皆さんと肩を並べる前に、今一度でいいので先生の三味線をお聞かせいただくことはできませんかしら」
「……すみません。今は先客がありまして」
話を聞いていた彩が苦楽に声を掛ける。
「あの、私たちなら隣の部屋で静かにしてますよ」
「多少騒ぐが気にするな」
宝の振るさいころに集中している猫も口を挟む。
苦楽は困ったように笑うと女性を中に促した。
「では、少しだけなら。多少騒がしいのは我慢なさってくださいね」
苦楽の弾く三味線を、その女性は物珍しそうに眺めていた。
隣の部屋からは時折声が聞こえるものの、彩が気を使っているようで、全く妨げにはならなかった。
一曲弾き終え、苦楽は少し首を傾げた。
「珍しい香をつけておられますね」
言われて女性は、少し慌てたようだった。
「ま、まあ、お気に召しませんでした? すみません、異国のものを譲り受けたのですが」
「いえ、むしろ心地よい香りがします。……何の香りなのでしょうね」
「私も詳しくは……」
隣の部屋では一勝負がつき、宝に負けた猫が本気で悔しがっていた。
「もう一勝負じゃ! 今は油断した。今度は絶対負けぬぞ!」
「次も宝が勝つもん!」
「大人の強さを見せてやるわ」
そんな猫の様子に、彩が苦笑する。
「猫ちゃん、今日は随分元気だね」
「うむ。先程から何故か気分がいいのじゃ」
二階では、話を聞き終えた伊織が呆然としていた。
「お前の元から父と母を永遠に引き離したのは、私だ。すまなかった、伊織」
「……何、言ってるんですか?」
俯いた伊織の口から、小さく声が絞り出される。
そこにあるのは怒りだ。
幻が微かに目を伏せる。
「言葉だけで許されるものでは無いのも分かっている。お前の母を死なせ、父を時の狭間に閉じ込め、お前を騙し続けたその責は、すべて私にある。どんなに憎まれても当然だろう」
「だから、違うって!」
「……伊織?」
顔を上げた伊織は、真っ直ぐに幻を見つめる。
「俺があなたを恨んだりするわけないでしょう? ……何で俺のこと、全然分かってくれてないんです? あなたは俺の大事な師匠で……俺の育て親じゃないですか」
そう言って、泣きそうな顔で笑った。
「俺は幸せ者です。親が三人もいる人間は、そうそういないでしょうから。……俺の方が礼を言わなきゃなりません。命を賭けて俺を守ってくれた父と母と、全て背負って俺を育ててくれた師匠……幻さんに」
「伊織……」
「一つだけ聞かせてください。父を救うことは、やはり不可能だと思いますか」
「時の狭間は一つ所に留まるものではないようだ。私にはそこに至る道を見つけることは出来なかった。……ただ、たとえ見つかったとしてもお前を行かすことはできん。それがお前の父母の願いなのだからな」
「……俺には、分からないです。親とは一体何なんでしょうか。俺が将来どんな人間になるかなんて全然分からないのに、何故そんな風に自分を犠牲にして守ってくれるんですか? もしかしたら、大悪党や親不孝者になるかもしれなかったのに」
結果そうはならずとも、今の自分がそうして守られる程価値のある人間だとはとても思えない。
自分のために三人を犠牲にしていることが、辛い。
そんな伊織の言葉を聞き、幻の口元に笑みが戻る。
「親は誰しもわが子の幸せを願うものだ。いつも、どんな時も、例えどんな子であったとしても」
「……彩の親も同じなのでしょうか」
「多分、な」
あの”すまほ”で、彩は友達だけでは無く、親からの手紙にも涙していた。
確かに、分かり合えない部分はあったのだろう。
しかし突然消えてしまった彩のことを、今どんなに心配しているだろうか。
「俺、やっぱり彩は元の時代に帰った方がいいと思うんです」
「だが迷っている。理由はお前が知っているはずだ」
「……帰らないという選択肢を、選ばせるのが怖いんです。この先きっと、彩は残ることと引き換えに切り捨てた人達を思い、後悔する。そんな思いを、彩にさせたくない」
「お前は本当に馬鹿だな」
何度も聞いた幻の言葉。
だが、それは果てない優しさを含んでいた。
「共にいたいと互いが思うならば、その思いに素直になれ。そして、力を合わせて自由に生きよ。……伊織。お前の中にはもう充分に親の思いが届いている。お前はこの時代では無くとも充分に生きていける。今のこの世にとどまらず、彩と未来で生き、彩を守れ」
「師匠……」
これが彩の言っていたことか。
そう思って、伊織は軽く俯いた。
「俺はつなぎ屋で、あなたの弟子で、子供です。全てを捨てていくことなんて出来ません」
それを聞いた幻の笑顔には、嬉しさと寂しさが入り混じっていた。
「私を最後まで親だと呼んでくれるのならば……親の望みは子の幸せだと言っただろう。どれほど離れていようとも、お前が笑顔で彩と共に生きて行くならば、私は-」
そこで、不意に幻の言葉が途切れた。
訝しく思って顔を上げた伊織と目が合うと、幻はもう一度笑った。
そして、ゆっくりと告げる。
「……私は、もう他に望むことなど何もない」
「でも、俺が彩の世界に留まることなんて出来ないでしょう」
「そんなことはない。己の望みをつなげ、伊織。……ただし、対価はこの時代を捨て、二度と戻らぬこと。その覚悟を持てば、きっと道は見つかる」
「この時代を……捨てる? いや、そんなこと」
出来ません、そう続けようとしたのだが。
伊織は違和感を感じてその言葉を飲み込んだ。
幻の顔が、何故か先程よりも蒼白く見える。
「師匠? ……どこか具合が悪いのでは?」
「……いや、気のせいだろう」
伊織の問いかけに、一呼吸おいて返される声。
軽く伏せられた瞳にはいつもの力強さが無い。
何かが変だ。
そう思って幻に近づこうとして気づく。
幻の鮮やかな藍色の着物。
その肩口がじわじわと滲んで色を変えている。
「師匠。……それ、は?」
光を失いつつある瞳が、辛うじて伊織を捉える。
「何も気にするな。私は、充分に生きた」
そう言って自分の方に倒れ込んできた幻を、伊織は慌てて支える。
そして見た。
幻が背にした壁から突き出た鋭い刃のようなもの。
その表面に、べとりとついた緋色。
幻の背一面に広がる染み。
血だと気づいた瞬間に、伊織は叫んでいた。
「師匠! ……幻さん!!」
お立ち寄りありがとうございます。どんなことでも構いませんので感想を頂けると嬉しいです。




