第四十話 すれ違い
それから二日、熱は下がらなかった。
その間の伊織の意識は切れ切れだが、気づけばいつも猫と彩が傍にいたのは分かった。
清之助や苦楽の顔を見たような気もする。
虹丸の声も聞こえたようだが、移っては困ると追い返されたようだった。
微睡む中で、伊織は随分昔の夢を見た。
それはまだ自分が幼く、つなぎ屋になる前のこと。
-ねぇ、幻さん-
-どうした、伊織-
-俺の父ちゃんと母ちゃんってどんな人だった? 幻さんは知り合いだったんでしょ?-
幻さんは珍しく困った顔をした。
この質問はそんなに困るものなんだろうか。
なら幻さんを困らせたくないから聞かなくていい。
そう思った時、横から苦楽が口を挟んだ。
-伊織のお母さんは優しくて素敵な人だったよ。君のことを、病で亡くなるその瞬間まで、何よりも大事に思っていた-
嬉しかった。
続く言葉を聞くまでは。
-でも、お父さんは伊織を捨てた。酒に溺れて、君を幻様に売った……どうしようもない人だったよ-
-苦楽!-
幻さんの咎めるような言い方で、苦楽の言葉は嘘じゃないと思った。
だから俺はその時に、自分の生きる道を決めた。
そんな駄目男の息子を育ててくれた師匠のために。
いつの日か自分で直接母に感謝を伝えるために。
俺はつなぎ屋となった。
そこでふと思う。
では、橋で聞こえたあの声は誰のものなんだろう。
師匠でも苦楽でもなく、必死に自分を呼んでいた男女の声。
少なくともあんな風に誰かに呼ばれるような出来事は自分の記憶にない。
もしそんなことがあるとすれば、思いつくのは両親だろうか。
……俺は一体、何をしたんだ?
***
三日後に目が覚めた時には、それまでと全然体の重さが違った。
体の節々の痛みもきれいに引いていた。
辺りはまだ静かで、微かに差し込む陽の光から早朝だと分かった。
顔の左側にふわふわする何かが当たっている。
そちらに首を回すと猫が体を丸めて眠っていた。
猫は普段はこんなに傍で眠らないが、自分が不調の時には必ずこうして枕元に寄り添って眠ってくれる。
差し込む陽光に白い毛が輝いて見えるが、緩やかに上下する背中には目覚める気配がない。
それ程深く眠りに落ちるくらい、今回も心配をかけてしまったんだろう。
声を立てずに苦笑して反対側を見れば、すぐ横で彩が布団にも入らず眠っていた。
看病してくれていたのだろうが、これで彩が風邪を引いたら大事だ。
二人を起こさぬよう注意して、そっと自分の掛け布団を彩にかけてやる。
自然と近づく彩の顔を見るうちに、自分で言った言葉が脳裏に蘇った。
-違うんだ、俺……本当は少し喜んでる。彩が帰るの、先延ばしになること-
「……っ!」
熱に浮かされていたとはいえ、自分は何ということを口走ったのか。
思い出して無性に恥ずかしくなる。
あんな言葉、まるで清みたいじゃないか。
でも、と反論する自分がいる。
彩は確かに嬉しいと言ってくれた。
ならば俺は、これからどうすべきなのだろうか。
二人が目を覚ますまでの間、静かな室内で伊織は考え続けた。
***
「熱が下がってよかったね、伊織」
「ああ、心配かけてすまなかったな」
「すまなかったで済むものではない。猛省せよ」
「……分かってる」
あの後目覚めた彩は、布団の上に起き上がった伊織を見て大喜びした。
猫は一見変わらぬ様子であったが、ゴロゴロと喉が鳴ってしまい、慌てて人間の姿へと変化した。
そして久しぶりに三人揃っての朝餉である。
「でも、まだ少し安静にしてた方がいいと思うよ」
「う~ん……師匠の所には行きたいと思ってたんだがな」
「そうなの?」
彩は伊織の予想以上に驚いた表情を見せた。
「どうかしたのか?」
「あの……幻さんも伊織に会いたいって言ってたの。伊織に話さなきゃいけないことがあるって。……伊織の、過去のこと」
「……そうか。相変わらずだな、あの人は」
猫は何も言わずにそっと目を伏せた。
一方の伊織は思わず苦笑する。
あの人は昔からそうなのだ。
自分が何かを知りたいと思った時、いつも聞く前にその答えを口にする不思議な人だった。
勘の良さなのか、自分の考えなどお見通しなのかは不明だけれども。
「でも確かに、熱が引いてすぐ来たなんて分かると叩き出されそうだ。ひとまず今日はやめておくか」
「遠出はせずとも、そこらの空気でも吸ってくるといい。早く体力を戻さぬとな」
「なんだ、猫。今日は少し優しいな」
「言っておくがワシは付き合わぬぞ。お主のせいでしばらく虹丸とも遊べておらぬ。彩がおれば安心じゃろう。頼んだぞ、彩」
「え? う、うん」
***
二人で歩く道中。
伊織が寝込んでいたことを知る人々から幾度も声を掛けられた。
「伊織、もう大丈夫なのか? 無理すんなよ」
「おう、心配かけたな」
笑って返事を返す伊織に、彩も自然と笑顔になる。
「やっぱり外の空気はいいな。風も気持ちいい」
「そうだね」
「ところでな、彩。……腹減ってないか」
「え? 私は大丈夫だけど、伊織、お腹すいたの?」
今朝は伊織にはお粥を出した。
消化がいいようにと猫が用意したのだが。
「まあ、そうだな。少し」
「急に食べると胃に悪そうだけど、少しならいいんじゃないかな。食べられるなら元気になったってことだろうし」
「じゃ、決まりだ」
彩の言葉に、伊織は笑って目前の茶屋を指さした。
運良く空いていた軒先の縁台に二人で並んで座る。
いつものように団子を頼んだ伊織が嬉しそうに頬張る横で、彩はお茶を飲んだ。
「なかなか美味いな、ここも。あのおっさんのとこには敵わないけど」
「ふふ、よかったね。でも無理しないでね」
「大丈夫だよ」
行き交う人々を眺め、しばし会話が途切れる。
団子を持った手を口元まで運び、だが結局その手を下ろし、先に口を開いたのは伊織。
「すまなかったな」
「……?」
「俺、彩を迷わせることを言った。熱があったから、なんて言い訳にもならない」
「…………」
「でも、本音だ」
「……!」
「本音ではあるがそれが叶うとは思ってない。彩は帰らなきゃならないし、俺はつなぎ屋だ。依頼主を裏切ることは絶対にできない。だから忘れてくれていい」
「……そんなのできないよ!」
茶碗を持つ彩の手が震える。
「私の言葉だって本音だもん。伊織の言葉、嬉しかった。本音だって言ってくれるなら、もっと嬉しい。なのにどうして私の言葉は聞いてない振りするの?……帰る場所は向こうにまだある。待っててくれる人がいることも分かった。でも、私……」
伊織の視線から逃れるように、彩は空を見上げた。
よく晴れた澄んだ空。
楽しそうな周りと反比例して、自分が一人だと思い知らされるようで、いつからか嫌いになった青空。
でもわだかまりが溶けた今、その気持ちは薄れ始めていた。
「幻さんから言われたの。もし、帰ることを選ぶなら……伊織を連れて行ってほしいって」
「……え?」
「つなぎ屋を捨てて生きてほしいって。……でも、伊織はこの町にちゃんと居場所がある。猫ちゃんも、幻さん達もいる。あんなに心配してくれる近所の人たちだっている。伊織はここで生きて行かなきゃ駄目だと思う。……だから、私がここに残りたい」
「ちょっと待て、話がよく分からない。明日、師匠にちゃんと聞くから。だから彩はそんなに急いで答えを出すな。……後悔して欲しくないんだ」
彩は、大きく一呼吸すると、真っ直ぐに伊織を見つめた。
「後悔なんてしない。私、伊織と一緒にいたい」
「彩……」
伊織が目を瞠った。
何かを言いかけたが、結局そのまま前を向く。
ふと残ったままの団子に気付き、一気に口に詰め込み、茶で流し込んだ。
そして、彩の方を見ずに告げる。
「嬉しいけど……俺にはその彩の気持ちを認めることは出来ない」
「…………」
「待たせて悪かったな。そろそろ行こう」
帰り道はどちらも無言のままで、それは家に帰っても変わらなかった。
猫は呆れたように溜息をついたが、敢えて口出しすることも無かった。
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