第四十四話 運命
幻の家を出てしばらくは互いに言葉も無く歩いた。
やがて先頭に立つ伊織がようやく口を開く。
振り返らずに、二人には背を向けたまま。
「猫は……知っていたのか?苦楽が妖の、王様の息子なんだってこと」
「知らぬ。ワシは幻様に拾われたはぐれ者の妖じゃからな。ただ、力を隠しておるのは感じたな。何のためかは、今日まで分からなかったが」
「そうか。……そりゃ驚くよな。何の冗談だよ、まったく」
冗談めかした言葉に反し、彩には伊織の声が心無し震えているように感じられた。
「……幻さん、苦楽さんがいなくて大丈夫かな」
「大丈夫だよ、師匠なら。当面、妖に狙われることも無いだろうし」
「どうして分かるの?」
「苦楽がそんなこと、絶対に許すはずがないだろう。……俺はあいつを信じる」
「……そうだね。私も、信じるよ」
その夜。
それぞれが眠れぬ夜を過ごす中、いつもなら真っ先に眠り始める猫の丸い大きな瞳が、いつまでも暗闇を見つめていた。
***
「しばらく幻様の元で暮らそうと思う」
猫が二人に思いを告げたのは翌朝のこと。
それは伊織にとってはある程度予想された言葉ではあったが、やはり切ない。
「そうか……猫の主は本当は師匠だもんな。師匠の命とはいえ、これまでよく俺の傍にいてくれたな」
ありがとう。
そう述べる伊織に、猫は白けた目を向ける。
「何をしんみりしておる、馬鹿者。別にワシはお主の僕を止める訳ではない」
「そうなのか?」
「そんな戯言は、ワシがいなくてもつなぎ屋としてやっていけるようになってから言え。ワシは日々の幻様のお世話を宝に教えてやりにいくだけじゃ。苦楽にも頼まれたからのう。だが、もちろんお主に仕事がある時はワシも行くぞ」
「それは助かるが……」
「ま、お主も日常生活ぐらいワシがおらぬでもやっていけるじゃろう。というか、今のお主には彩がおるのだ。二人きりでせいぜい楽しめばよいではないか」
「何をだよっ!」
「言ってよいのか?」
「駄目だ、絶対駄目!」
すまして朝餉をとる猫に、真っ赤になって悔しがる伊織。
そしてその横で同じく顔を赤らめて黙っている彩。
いつものようでいつもと違う朝の光景だった。
朝餉の後に折よく訪れた虹丸は、猫がここを離れると聞いて大層驚いた。
だがすぐに気を取り直し笑顔を見せる。
「俺が会いに行けばいいんだよな。それに猫も時々は遊びに来るだろ?」
「もちろんじゃ、宝も一緒に皆で遊ぼう」
「うん、約束な!」
彩はそんな虹丸を羨ましく思う。
自分の心に素直になれたら。
相手を信じられたら。
どんなに楽だろうか。
***
三人で、改めて幻を訪ねる。
やはり昨日と変わらず、幻も宝も苦楽についての記憶は全く無いようだった。
そのため、猫がこちらで暮らすと申し出ると怪訝な顔をされた。
「どうした、猫。とうとう伊織に愛想をつかしたか」
「さすが幻様は全てお見通しでおられる。まあ、よくここまで持ち堪えたと自分でも思っておりまする」
「……頼むからお前は黙ってろ」
顰め面で猫を制すると、伊織は幻に頭を下げた。
「これは猫の希望でもありますが、俺の意思でもあります。俺は猫が傍にいるとどうしても頼ってしまう。だけど、つなぎ屋として、人として、俺は猫に頼らずに強くならなきゃいけないんです。……大事な約束を、守るために」
それを聞いた幻は一瞬目を瞠り、そしてすぐに眩しそうにその目を細めた。
「何だか急にいい顔つきになったな、伊織。すっかり男の顔ではないか。さすがにからかうのもそろそろ気が引けるな」
「それはもう、ワシがおらねば彩と二人きりですから。さしもの伊織も男の顔にもなりましょう」
「だからっ、勝手に答えるなというに!」
「猫ちゃん!」
慌てふためく伊織と彩に、幻が噴き出し、猫もおかしそうに笑った。
一緒に話を聞いていた宝も、意味は分からずとも、その雰囲気を感じ取りにこにこしていた。
「と、とにかくっ! ……猫をよろしくお願いします、師匠」
「ああ、わかった。こちらは心配いらぬ。お前は自分の進むべき道を定めよ。それが決まるまで、こちらへの顔出しは無用だ」
「……はい」
帰りしな、見送りに出てきた猫と宝に声を掛ける。
「師匠を頼むぞ、猫」
「言われずとも。……時が満ちるまで、ワシも強くあらねばならぬでな」
「……そうだな」
「宝もお手伝い、がんばってね。猫ちゃんにいっぱい教えてもらってね」
「うん! 次にお姉ちゃんと伊織が来るまでに、色んな事覚えるよ」
「楽しみにしてるね」
そして二人で歩く帰り道。
既に陽は落ち、すっかり辺りは暗くなっていた。
伊織が手にした提灯が、川沿いの道を歩く二人の行く先を照らす。
「……幻さん、笑ってたね」
「ああ、そうだな」
「安心したけど、でも、やっぱり悲しい」
彩の言葉に伊織が小さく笑った。
「俺もだ。……でも、これが苦楽の望んだことだし、俺が受けた依頼の結果だ。例え自分が忘れられたとしても、師匠に生きていてほしい……その思いがあいつの全てだった」
「……うん」
「今師匠が笑ってることを一番喜んでいるのは、間違いなく苦楽だよ。……そしてあいつの師匠好きはとんでもなく年季入りだからな。賭けてもいい、絶対にあの笑顔を見に戻ってくるさ」
「うん、そうだね」
少しおどけたような伊織の言い方に、彩も笑う。
苦楽が戻るのがいつかは分からないけれど。
いつか必ず二人は再び巡り合い、共に生きて行く。
そんな気が、確かにした。
でも-。
彩は空を見上げる。
そこには元の世界では絶対に見られないであろう、壮大な星空が広がっていた。
息を呑むその光景に思わず立ち止まってしまう。
そんな彩に気づき、伊織も空を見上げた。
そして無数の星の瞬きに微かに目を細める。
「彩。あの二人は大丈夫だよ」
「うん」
「大丈夫じゃないのは……きっと俺の方だ」
「……?」
星空から伊織へと、視線が動く。
提灯の灯で、その顔に差した影が揺らめいていた。
「あの二人には俺よりずっと時間がある。会えない時間も、やり直せる時間も。……でも、俺はただの人間だからそんな時間は無い」
「伊織?」
「彩を帰すことが俺の責任だと思ってきた。残りたいっていう彩の気持ちは一時的なもので、きっといつか後悔する。だから帰さなきゃ駄目だと思ってきた。でも、彩を帰してしまったら、二百年後の世界に俺は絶対にいない。彩にはもう二度と会えない。……俺は、その事実に耐えられそうもない」
「…………」
お前の気持ちはどうなのだ、と。
皆に聞かれても否定し続けてきたけれど。
幻と苦楽に見せつけられた現実に、心の抑えが効かなくなっていた。
「結局自分の気持ちを優先させて、情けない男だと思う。だけど、それでも許されるなら、俺は彩と一緒にいたい。彩に……俺の傍にずっといてほしい」
「……!!」
驚いたように伊織を見つめた彩の顔が次第に泣き顔に変わり、俯いて、最後に両手で覆われた。
提灯を持った片手を少し遠ざけると、伊織はもう片方の手で彩の肩を抱き寄せた。
「伊織……どうしよう、私」
「うん?」
「すごく嬉しくて……息が出来ない」
「え?! ちょっ……大丈夫か、彩」
「それくらい嬉しいんだよ。ずっと、ずっと聞きたかった言葉だから」
慌てる伊織に、彩が泣き笑いの顔を上げる。
間近で見る顔にどきりとした。
そして自分の布団に彩が転がり込んできた時のことを思い出す。
きっとあの時から既に。
いや、本当は出会った時からずっと、自分と彩の運命は動いていたのだろう。
「……遅くなってすまない。俺、彩のことが好きだ」
「私も伊織が好き。ずっと一緒に、いてください」
「それは俺が言う言葉だ」
「駄目、私」
言い合って、しばし見つめ合い、我慢できずに互いに笑いだした。
「……帰ろうか」
「うん、そうだね」
そして再び歩き出す。
先程より心なし、二人の距離が近づいていた。
「俺は彩と共にいられるならどこでもいい。彩の時代に一緒に行けるなら、何をしてでもそこで生きて行く。だから、やっぱり彩は帰るべきだと思う」
「うん、本当はそうなんだと思う。……でも、私はここで伊織と生きて行きたい」
伊織には理解できないだろう。
あの世界で、何も知らない伊織が生きて行くことは、きっととても難しい。
同じく何も知らない自分がここで生きて行くのとは訳が違う。
それは高校生の自分でも分かる。
親や親友、学校、あの世界での未来。
やり直せるならもう一度、という願いは確かにあるけれど。
どれかを選び取らなければいけないのならば。
自分は迷いなく、伊織と共にある未来を選ぶ。
「ここで生きて行こう、伊織」
「彩……」
「つなぎ屋さんじゃなくってもいいよ。伊織がやりたいこと、私、応援する。……でもね、つなぎ屋さんってすごい仕事だと思う。伊織は向いてないんじゃない。伊織じゃなきゃできない仕事なんだよ。幻さんもそう言ってた」
「……?」
伊織が少し驚いたように彩を見た。
彩は笑ってその視線を受け止める。
幻から伊織の出生について打ち明けられた時。
最後に幻は困ったように笑って言った。
これは伊織には言えないのだが、と。
-私が伊織に与えた刀にも数珠にも、何か特別な力
がある訳では無い。つなぎができるのは伊織自身の
力なんだ。本人が気づいていないだけでな-
「何……だって?」
-そもそも親父のような普通の人間がなぜつなぎ屋
ができたと思う?親父には人の心を聞き、それを我
が痛みとする天賦の才があった。他人の思いに寄り
添い、共感できる人間でなくてはつなぎは到底行え
ん。私の場合は親父の遺伝によるところが大きいだ
ろうが、知っての通り私には子がおらぬ。だから、
つなぎは私の代で終わりと思っていたのだがなー
「…………」
「伊織には、幻さんのお父さんと同じような力があった。命をかけて伊織を守ってくれた優しいご両親の子供だもの。幻さんはそれに気づいていたから、伊織が跡を継ぎたいって言った時、嬉しかったし苦しかったんだよ」
つなぎは善であり悪、幻はそう言った。
心優しいからこそつなぎ屋になれると同時に、心優しいからこそ、その業に耐え切れない。
だから伊織には、刀と数珠を手放せばいつでもつなぎ屋を辞められると思っていてほしいと。
「そんな、こと……」
「私は、伊織につなぎ屋さんとしてここで生きてほしい。辛い時でも絶対に私が傍にいる。その辛さの半分は、私が一緒に背負うから」
伊織は数珠と刀を交互に見比べた。
これらを自分に渡した時の幻の顔を、伊織は今も鮮明に覚えている。
「俺、本当に今まで守られてばかりだったんだな。両親にも、師匠にも」
「……そうだね」
「もうちょっと、しっかりしなきゃな。今度は俺が守る番だ。彩も、師匠も」
「うん」
伊織はもう一度夜空の星を見上げた。
「俺はこれからもこの町で、つなぎ屋として生きて行く。……ついてきてくれるか、彩」
「もちろん」
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