第三十九話 本心
地図と記憶を頼りに、彩は何とか無事、見慣れた長屋まで戻ることが出来た。
匂い袋を見せたら伊織は何というだろう。
自分を責める思いは少しでも薄まるだろうか。
そんなことを考えながら戸を開けると、盛大なくしゃみに迎えられた。
「……え、伊織?」
「彩。すまん、迎えに行け、なく……っ」
言葉が途中で途切れ、またくしゃみをする。
頭に手ぬぐいを被っているが、その下の髪は濡れているようだ。
それに着ている着物が朝と全く違っている。
「どうしたの?」
「子供を助けたは良いが、代わりに自分が橋から川に落ちたのじゃ。この馬鹿者めが」
「えっ! なんで? ……大丈夫なの?」
「ちょっと考え事をしてただけだ。心配ない」
「子供以下じゃな、全く」
「……うるさいな」
びしょ濡れで帰る途中に偶然猫と出会い、散々怒られながら帰って来たらしい。
くしゃみを繰り返しながら猫に応じる伊織は、心なしか元気が無いようにも見える。
「風邪、ひいたんじゃない?」
「大丈夫だ」
「馬鹿は風邪を引かないというし、大丈夫であろう」
「だから、お前が言うなと……」
「とにかく! ちゃんと体あっためて、少し休んだ方がいいよ」
「そうだな、そうする」
彩の言葉に素直に頷き、伊織は乱暴に頭を拭くと布団に潜り込んだ。
が、すぐに顔だけ出してこちらを窺う。
「彩の方はどうだった? 宝は大丈夫だったのか?」
「うん。でも、あとで話すよ。まずは伊織はゆっくり休むこと」
「……了解」
しばらくくしゃみと咳を繰り返していたものの、伊織はそのうち眠ってしまった。
「本当に大丈夫なのかな」
「さあ、どうだかの」
猫は相変わらず素っ気ない。
だが今はいつも以上に人を寄せ付けない感じだ。
朝はそんな風では無かったのに。
そう思って彩は首を傾げた。
「猫ちゃん……もしかしてものすごく怒ってる?」
「当たり前じゃ。伊織は昔から体が弱いくせに、いつも余計なことを仕出かして心配をかけるのじゃ。これが怒らずにおられるものか」
「……素直じゃないなぁ」
言って笑ったが、すぐに彩は真顔になった。
伊織を見れば、鼻が詰まるのか少し口を開けて寝息を立てている。
「幻さんに聞いたよ。……猫ちゃんは、伊織が生まれる前から幻さんと一緒にいたんだよね」
その言葉だけで充分だった。
言葉の意味を理解した猫は、無言で彩を見つめる。
人間の姿の時は黒く変わる猫の瞳。
そのままでは目立つからだろうが、彩は猫の姿の時の美しい青い瞳が好きだった。
今の瞳からは、表情が何も窺えない。
「伊織に、ちゃんと話したいって」
「そうか」
「私が帰る時には……伊織も一緒に連れて行って欲しいって」
「幻様らしいな」
「もしそうなったら、猫ちゃんも来てくれる?」
猫は肩をすくめると、ようやく小さく笑った。
「ワシは行かぬ」
「でも、猫ちゃんは伊織の」
「僕ではある。ただ、それはあくまで伊織がつなぎ屋として生きるためのもの。幻様は伊織にそれを捨てさせようとされておるのだろう? ならばワシは伊織には不要じゃ」
「そんな……」
「ワシももとは幻様に仕える妖じゃからの。あるべきところに戻る、それまでのこと」
「猫ちゃん……」
「二百年後にお主らと再会するのも面白そうじゃ。その時にはワシもきっと幻様のように美しく成長しておることだろう」
「……えっ! 猫ちゃんってずっと子供のままじゃないの?」
「失敬な。人間とは度合いが異なるだけで妖とて成長する。ワシとていつまでもこのままではないぞ」
「そうなんだ」
言われてみれば当然なのかもしれないが。
この見た目で五十歳だの百歳以上だのというものだから、彩は妖とはずっと外見が変わらないものなのだと漠然と思っていた。
「あれ……? でもそれって、成長はするけど人間よりずっと時間がかかるってことだよね? 周りの人って、猫ちゃんや苦楽さん達の見た目がずっと変わらないの、不思議に思わないのかな」
「苦楽に聞いたが、妖の気はそういう人間の感覚を麻痺させるらしい。でなくては人の世に混ざり生きることは難しいからのう。ただ、妖が人間よりはるかに長く生きるものであることには違いない。いずれ伊織は必ずワシを置いていなくなる。ならば……いつかまた会えると思って長い時を過ごす方が良いな」
普段は軽口ばかりなのに、実際には幻にも負けぬ位に伊織のことを心配している。
もちろん、本当はずっと傍にいたいとも思っているに違いない。
それが痛いほど分かり、彩は猫の頭を撫でた。
人間の姿をしていても、その髪はどこか猫の毛並みの様に柔らかだった。
「この姿で撫でられるのも悪くないのう」
「私はどっちの猫ちゃんも撫でるの好きだよ」
「ふむ」
それからしばらくして、伊織の方から小さく唸り声が聞こえた。
そちらを見れば、伊織が少しぼんやりとした感じで目を開けている。
「伊織、少しは休めた?」
「……ああ、大丈夫。……悪いけど、水、飲みたい」
猫が素早く立ち上がり水を用意する。
ゆっくりと体を起こした伊織。
なぜかその動きはやけに緩慢である。
「伊織、水じゃ」
猫が手渡した椀を受け取ろうとした手が、見当違いの所で空を切る。
「……あ、れ?」
「伊織!」
体勢を崩しかけた伊織を、猫が支えた。
そしてすぐに彩を呼ぶ―猫らしからぬ声で。
「彩……体が熱い。医者を呼んでくるから、伊織を頼む」
「!!」
返事を待たずに飛び出して行く猫。
彩も慌てて、横たわった伊織の額に手をあてる。
確かに、明らかな熱を感じる。
「冷やさなきゃ」
「大袈裟だな……大丈夫だって」
「駄目だよ」
急いで手拭いを濡らし、熱い額に載せる。
冷たさに驚いたように小さく身動いだ伊織は、その手拭いを目元までずらすと、少し荒い息で彩の名を呼んだ。
「何か欲しい? お水?」
「違う。……すまん」
「……?」
「これでまた、帰るの遅れちゃうよな」
「あ。そんなこと……気にしないで。伊織の体の方がずっと心配だよ」
こんな時まで人の心配をしているなんて。
そんな風に思った彩に、伊織は小さく首を振った。
「違うんだ、俺……俺、本当は少し喜んでる。彩が帰るの、先延ばしになること。……任せろって言ったのに……勝手だよな」
「伊織」
目元の手拭いを抑える指が微かに震えている。
彩はその手に自分の手をそっと重ねた。
伊織の熱が伝わる。
「私も……嬉しい。私こそ依頼人失格だよ。でもね、やっぱり今は早く伊織に元気になって欲しい。元気になったら聞いて。大事な話……これからのことと、これまでのこと」
「……分かった」
それからまもなく、猫が医者を連れて戻ってきた。
彼も幻の元依頼主で、昔から何度も伊織を診てきたという。
その医者は診察の後で呆れたように言った。
「独り立ちしたと聞いてから呼ばれることもなかったし、漸く落ち着いたかと思ったんだがな。川に飛び込むとは、相変わらず無茶をする」
「……面目無い」
「とりあえずはこの薬飲んで寝ること。熱は数日で下がる筈だ。今日明日はきついだろうが、辛抱してもらわにゃならん」
「はい」
「帰りに幻さんに報告させてもらうが……余り心配をかけるなよ」
「ちょっ……なら黙って、て」
慌てて起き上がろうとしたが、目眩がして倒れ込んでしまう。
「そうもいかん。幻さんから頼まれてるからな。あの人に逆らえないのは、お前も俺も皆同じだ」
そう言って笑う医者を横目に、伊織も観念したように苦笑する。
「……ごもっとも」
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