第三十八話 偽りの記憶
「こんにちは」
幻の家の戸を開けた彩は、大きな声で呼びかけた。
珍しく一階には誰も居なかったためである。
と、二階から声がかかる。
「彩か。宝なら少し前に苦楽と買い出しに出た」
「あ、そうなんですか」
「戻るまで待っているといい。上においで」
「はい、ありがとうございます」
二階では幻が三味線の手入れをしていた。
その佇まいにはやはり色気があり、ついつい彩は見惚れてしまう。
「結局、宝はあのまま朝まで寝ていてな。吹っ切れた顔をして起きてきたよ。すまぬな、彩」
「私は本当に何も。……自分の事しか話してないんです」
「苦楽から聞いている。彩が自分を偽らずに宝と向き合ったから、あの子もその言葉を信じたのだろう。自分の成したことを過小評価する必要はない」
「は、はい」
三味線を弾く手を止め、幻が顔を上げた。
「今度はお前自身の番だな」
「…………」
「覚悟はできたか?」
「……いえ」
彩はもう一度、迷う気持ちを打ち明けた。
元の世界で自分の帰りを待つ人がいた。
宝もきっともう心配はいらない。
ここにいなければならない理由が無い。
それなのに、未だ自分が踏み切れないのはなぜか。
「……さっき清之助さんに、迷う理由は伊織かと聞かれました」
「まあ、色恋沙汰はあいつの得意分野だからな」
面白そうに笑う幻に、彩は恥ずかしくなり俯いた。
「でも……私、自分でもよく分かりません。……だって伊織は、仕事として私を助けてくれただけで。私は迷惑しかかけてなくて。そもそも違う時代の人だし」
「…………」
幻は彩を見つめた。
口元には笑みが残ったままなのに、その表情は何故か先程と変わり哀しく見えた。
その唇がゆっくりと開き、彩、と言葉を紡いだ。
「もしもお前の心残りが伊織であるならば、私からひとつ頼みがある。……伊織を、お前の時代に連れて行ってもらえないだろうか」
「……え?」
「伊織にはつなぎ屋を捨てて生きてほしい。だが、ここにいる限りあいつは縛られ続けてしまうんだ。……私たちが作った、偽りの記憶に」
***
その頃、伊織は橋の中央で欄干に体を預け、眼下を流れる川を眺めていた。
この辺りでは一番大きな橋であり、人の往来は多いものの、こうして立ち止まってもあまり邪魔にならずに済む。
遠くまで見渡せるこの橋からの眺めを、伊織は気に入っていた。
だが、今日はここに来ても心が晴れない。
何が足りないのかと聞かれれば、それはやはり彩なのかもしれない。
そう思ってため息をつく。
一体自分はどうしてしまったのか。
早く彩を帰してやらないといけないのに。
すぐ傍に数人の子供達が来て、欄干の隙間から下を覗き込み何やら騒ぎ出した。
何気なくその視線の先を見てみれば、川に向かって上から一斉に木の枝やら石やらを投げ落としている。
誰が落としたものが一番早く川面に到達するかを競っているようだ。
子供は平和で羨ましい。
苦笑いをして顔を上げると、一番年下と見える幼子が欄干の隙間から外側に体を出しているのが見えた。
危ない、と伊織が思ったとほぼ同時に。
別の子供の体がぶつかり、いとも簡単に橋の向こうへとその幼子を押し出した。
「……っ!」
咄嗟に伊織も欄干から身を乗り出す。
間一髪で手の届いた襟首を掴み、子供達に向かって半ば投げ飛ばした。
一人が受け止めたのを目の端で捉え安心した瞬間。
-伊織っ!-
-伊織、死ぬな!-
突如脳裏に響いた声に、呼吸と思考が一瞬止まる。
掴んでいたはずの左手が欄干から滑り、体勢を崩した伊織は川に向かって落ちた。
***
伊織の母は穏やかで、よく働く人だった。
伊織の父も同じく穏やかで、よく働く人だった。
幻と苦楽が以前住んでいた長屋の隣の職人夫婦。
貧しいながらも幸せそうな二人を見て、幻はよく、似た者夫婦だと言って笑った。
彼らに子供が産まれた時には、幻も心から喜んだ。
彼らならばきっとよい親になれる、そう思ったからだ。
だが、幸せはある日突然失われる。
伊織と名付けられた幼子は、三日高熱が続いた後にあっけなく死んだ。
生まれてまだ半年も立たぬ頃のことだ。
医者からはあと少し早く診せていればと言われ、幼子の異変に早くに気付けなかった母は己を幾日も責めた。
そして涙も精根も尽き果てた彼女は、幻につなぎを頼んだのだ。
-私の命を対価に。それで伊織を生き返らせて-
幻は断ったし、もちろん夫である父も反対した。
一方で誰の目から見ても、子を失った彼女がこのまま生きるのは難しいだろうと思われた。
ならば自分が対価となり我が子を取り戻す、彼はそう主張したが彼女は断固として拒否した。
-分かるでしょう? 私にはもう、これからあの子を守っていく力が無いの。私が絶対にあの子を連れ戻すから、あなたはあの子のこれからを守って-
優しい夫は、愛する妻の頼みを断れなかった。
そして幻も、そんな二人の真の願いを無視することは出来なかった。
「私はつなぎを行った。そして……伊織は戻り、彼女は失われたのだ」
「伊織、は……生き返った?」
確か伊織は言っていたのではなかったか。
幻はかつて一度、人の命を対価に人を蘇らせたことがある、と。
だがそれは自分も知らない昔の話だ、とも言っていたはずだ。
まさかそれがわが身に起きた事だとは、絶対に思っていないだろう。
「そうだ……それが一つ目の嘘。そして、もう一つ」
「…………」
妻と引き換えにこの世に戻った伊織を、父は一晩中抱いて泣いた。
そして夜明けとともに姿を消した。
幻に伊織を託す、との手紙だけを残して。
彼が戻ったのは一年の後。
寝る間も惜しんで働き続けたのだろう。
病んだ体に驚く程の大金を携え、幻の前に手をついた。
-いざと言う時には、これで伊織を育ててほしい-
彼は、己を対価として妻を助けに行くと言った。
予想はしていた言葉であった。
だがそれは無理なのだ。
つなぎの対価を取り戻すことはできない。
試したことはなかったが、禁忌に触れる確かな予感がした。
その幻の言葉にも、彼は頑として譲らなかった。
-じゃあ、俺を使って試しましょう。そして、もし駄目ならば……伊織がいつか真実を知り、
今の俺と同じことを考えた時に、どうか止めてやってください-
その覚悟を、幻はやはり変えられなかった。
再びつなぎを行う前、彼は笑ってこう言った。
-もうひとつだけ、頼みます。伊織には、父はどうしようもない男だったと言い聞かせてください。父をいくら恨んでもいい。その代わりに深く母を愛おしみ、育つように。……もし俺が戻らなければ、それだけが俺が妻に残せるものだから-。
そしてつないだあの光景は、今も幻の脳裏から片時も離れることが無い。
驚く妻の手に触れた瞬間、彼は時の狭間に引きずり込まれた。
一瞬の出来事で、幻には何もできなかった。
つなぎを覆すことに対する時の神の怒りは幾何であったのか。
彼は恐らく寿命が尽きるその時まで、時の狭間に捕らえられたままでいる。
時をつないだ幻自身にさえその場所は分からず、あの後何度辿ろうとしても二度と見つけることができなかった。
我が子を想う優しい二人は、永遠に幻とそして伊織の前から失われた。
「最後には二人とも、いつもの、私が好きだった穏やかな顔で笑っていた。伊織のために、やるべきことをやり切ったという顔をしてな。……それから私は伊織の親代わりとなったが、何をしようが、私ではあの二人には決して届かない。そのくせ真実を明かすことも恐れ、偽り続けて今日まで来てしまった。私は結局、ただの愚か者だな」
寂しそうに笑う幻に、彩は頬を伝う涙を拭うことも忘れ、強く首を横に振った。
「そんなことない……お母さんもお父さんも幻さんも、皆同じです。伊織のこと、皆本当に大切に思ってるじゃないですか。伊織、このことを知ったら、すごく幸せで……すごく辛いだろうな」
病で亡くなったと思っていた母親も、自分を捨てたと思っていた父親も。
二人とも自分を守るために、己を擲ってくれていた。
一方で、気まぐれで自分を育てたと思われた幻は、伊織の両親との約束を果たすため、己の後悔と常に対峙し続けている。
嘘を信じてつなぎ屋となった伊織の葛藤に、今もずっと心を痛めている。
「……いつまでも自分の過ちから逃げる訳にもいかぬな。彩、すまぬが帰ったら伊織に伝えてもらえるか。近いうちに一度顔を見せに来いと……真実を伝えると」
「幻さん……」
「すべてを知った上で、伊織には心から笑える生き方を選んでほしい。そうでなくては、あの二人に合わす顔が無いからな。……だから、彩と共にいることでそれが果たせるのならば、どうかあいつを連れていってやってほしい」
程なくして帰ってきた苦楽と宝。
宝は何やらもぞもぞとしていたが、やがて彩に小さな袋を差し出した。
「……?」
受け取って、よく見ようと顔に近づけると何やら良い香りがする。
「匂い袋ですよ。宝が彩さんにぜひ、と」
「え、私に?」
驚いて問い返すと、宝がはにかんだように笑った。
それを見て、彩は更に驚いた。
「うん。お姉ちゃんに、お礼」
「宝はこのためにお手伝いを今以上にしてくれるそうですよ、幻様」
「そうか。期待してるよ、宝」
「はい、がんばります!」
彩は胸がいっぱいになり、思わず宝を抱きしめた。
「ありがとう、宝。……大事にするね、約束する」
「うん! お姉ちゃん、明日も来る?」
「どうかな……。私も、宝みたいに前を向いて決めなきゃいけないことがあるの。宝はちゃんと頑張れたからもう大丈夫でしょう? 今度は私が頑張らなきゃいけない番だから」
「そっか、分かった。がんばってね!」
「うん。ありがとう」
お立ち寄りありがとうございます。どんなことでも構いませんので感想を頂けると嬉しいです。




