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第三十三話 雷雨

 幻の家では、苦楽が三味線の講義中であった。

 相変わらず若い女性の多いことこの上ない。

 さらにこちらに対する厳しい視線を感じるのは、恐らく気のせいではないだろう。


「苦楽、今日は本当に宝に会いに来ただけだから。頼むからちゃんと稽古しててくれ」


 そうか、と笑う苦楽を残して階段を上がる。


 開け放たれた幻の部屋から、声が聞こえた。

 見れば宝が机に向かい、その横で幻が字を教えている。


「そうそう。宝は呑み込みが早いな。どこかの伊織とはえらい違いだ」

「……せめて、どこかの伊織がいない所で言ってもらえませんか」

「気に入らぬならば、そう言われぬような人間になることだ」


 幻はそう言って笑う。

 宝は、皆の姿を見て少し表情を緩めた。

 まだ笑顔ではないけれど。


「せっかくだから皆に見せてやろう。宝、名を書けるか?」

「はい」


 一画ずつ丁寧に、宝という字が書かれた。

 きっと今まで字を習ったこともなかったろうが、まっすぐできれいな字であった。


「上手だね、宝」

「ありがとう、お姉ちゃん」

「まだこれで驚くのは早いぞ。次が難しいのだ。どうだ、宝?」

「はい、やってみます」


 一体何と書くのか。

 皆で上から覗き込んで注目する。

 まずは平仮名で、い、お、と続きその後は。


「り…伊織だ! すごいね」

「……いや待て、まだ続いてるぞ」

「半?」

「人、じゃな」

「……おい」


 いおり 半人前。

 出来上がったその文字に、伊織が頭を抱える。

 猫はもちろん、彩も我慢しきれず笑ってしまった。


「あんたは一体何を教えてるんですか!」

「身近なものから学ぶことこそ肝要であろう。むしろ初めにお前の名を覚えてもらってありがたいと思え。……それにな、宝」

「……?」

「体ばかり大きくなっても、中身は半人前。そんな人間はざらにいる。そうならぬために必要なのは、これからどう生きるかだ。宝が前を向いて進むなら、ここにいる皆はそれを必ず支える。忘れるな」

「はい!」


 良いことを言っているようで、これは単に自分が貶められているだけではないのか。

 疑問を抱く伊織を他所に、幻はにこりと笑った。


「よい返事だ。では次は遊びの時間だな。遊ぶ時は思いきり遊べ。彩、猫、任せるぞ」

「あ、はい。行こう、宝」

「うん!」


 幻の鞠を持ち、宝を連れて外に出て行く彩と猫。

 伊織は幻と共にそれを見送った。



「どうですか、宝は」

「素直な子だ。しかし、心を閉じこめている。何か切欠が必要だろうな」

「……そうですか」

「しばらくは私が預かる、案ずるな。……と言ってもどうせお前のことだ。昨日は一人で塞ぎ込んでおったのだろう」

「……それで彩にも心配をかけました。なのに彩、俺に謝るんですよ。俺の気持ちも知らずに勝手に期待して傷つけたって」

「…………」

「本当の気持ちなんて知られたら、俺は生きていけませんよ。今回の件は、完全に俺の私情です。俺はあの母親が許せなかっただけだ。宝のためでも何でもなく、ただ自分の怒りであの人を見殺しにしたんだ」

「…………」

「師匠」

「何だ」

「やっぱり俺にはつなぎ屋は向いてないです」


 淡々と語るその横顔を見つめ、幻は小さく溜息をついた。


「彩のことはどうなっている」

「今朝、夢を見たと言ってました。自分を心配してくれている人達の夢だと。……嬉しそうに見えました。きっと何かを掴みかけている。それに手が届けば道は辿れるはずだと、俺は思います」

「そうか。それはよかったな」

「そうですね」

「だがお前はそれでいいのか」

「……師匠まで。何故、皆で同じことを聞くんですか? 彩のいるべき世界はここじゃない。歪んだ時は戻さなきゃならない。……あなたが教えてくれたことじゃないですか」


 顔を顰める伊織。

 幻はその問いには答えず、視線を移して窓から外を眺めた。


「雲が厚いな。今夜はまた一雨来そうだぞ」


          ***


 幻の言葉通り、その夜は激しい雷雨となった。

 すぐ傍に落ちたかと思う程の雷の音と衝撃に、彩は布団の中で震えていた。


「二人とも、よく平気だね」

「未来には雷はないのか?」

「そんなこと無いよ。でも、家の作りがずっと頑丈だから、ここまで怖くないもの」

「こんな時こそ役に立ったらどうじゃ、伊織」

「……は?」

「鈍いのう。もっと傍にいてやれ。正々堂々添い寝が出来る良い機会ではないか」

「はぁっ?」


 その時、ひと際大きな雷が鳴り響き、彩は思わず悲鳴を上げかけ、慌てて口を押えた。


「ご、ごめんなさいっ、静かにします」

「いや、それは大丈夫だけど。彩は……大丈夫、じゃなさそうだな。……ああ、くそっ、猫が余計なこと言うから余計意識するだろうが」

「呆れた奴じゃな」

「お前は黙ってろ。……彩」

「はい」


 伊織は自分の布団に入ると、腕を出して彩の方に伸ばした。


「傍にいるから心配ない。嫌じゃなければ、安心できるまで掴んでてもいいから」

「…………」

「……そうか、嫌か」

「ち、違う、違う! ……伊織が、無理してるんじゃないかと」

「してない」


 それを聞いて、そっと彩も手を伸ばす。

 重なる指先は温かく、不思議とそれだけで安心できた。


「ありがと、伊織」

「……何もしてない」


 二人を横目に、猫は呆れたように首を振り、目を閉じた。



 

 安心した彩が眠りについたのと同じ頃。


 とある橋の下。

 家も無く方々を転々としていた男は、偶々今日の寝床をここに決めた。

 そして横殴りの雨を避けるため、ござを体に巻き付けたままうつらうつらしていた。

 普通の雷ならば慣れたもので平気で寝られるのだが、今宵のそれはいつもと比べられぬ程激しく、どこかに落ちる都度目が覚めた。

 参ったなと思いつつ、何となしに対岸へと視線を向けた、その時。

 弾けるような光に目が眩み、続けざまに耳が飛ぶような轟音と痺れるような感覚に襲われた。


 

 やや暫くして、男は自分が無事であることを知る。

 体を見回してもこれと言った怪我もない。

 落ちたのが対岸で助かった。

 そう思ってそちらに視線をやって、首を傾げた。

 一か所が不自然に小さく光っているように見える。

 雷が落ちたと思われる場所からは少し離れた所だ。

 気にはなったが、気付けば雷も遠ざかっているようで、結局男はそのまま目を閉じた。

 明日目覚めて忘れてなけりゃ確認してみよう、そう思いながら。

お立ち寄りありがとうございます。どんなことでも構いませんので感想を頂けると嬉しいです。

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