第三十一話 真実
「で、ここに連れてきたと言う訳か」
「そうです」
目の前の幻に向かって、伊織は頭を下げた。
一人で生きて行けとは言ったものの、実際あの場に宝を放置しておくわけにもいかない。
「さすがに俺の所では限界ですが、ここなら一人増えても全然平気でしょう。彩を預かってくれるって言ってたくらいですし」
「……お前につなぎ屋をやらせておくと、そのうち寺子屋でも開けそうな気がするな」
「師匠の伝手も頼りにしてるんですよ。宝をきちんと育ててくれる主人の心当たりも多いのでは?」
「まあ、人望のないお前よりは余程当てがあるな」
「じゃあ、お願いします。一人でも生きていける術を、どうか宝に与えてください」
強引な口振りとは裏腹に、伊織の表情はどこか冴えない。
その様子に、幻は微かに目を伏せ、引き受けると告げた。
師匠の許しも得られたため、宝を預けて帰ろうとする伊織達。
戸口までついてきた宝が、少々不安そうな顔を見せて彩の裾を引いた。
彩は、小さく笑うとその手を握った。
「大丈夫。幻さんも……苦楽さんもいい人だよ。それに、すぐ会いに来るから」
「本当?」
「うん。宝ともっとたくさん話したいしね」
「……わかった」
手を振る彩と伊織、猫を見送って、戸を閉める。
と、宝は後ろから声を掛けられた。
「宝のタカか……いい漢字をもらったね。さすがは伊織だ」
振り返ると、苦楽が立っていた。
「伊織に会えて、宝の運命は大きく動いた。これまでも、これからも、辛いことが完全に無くなることはない。だけど君ならきっと大丈夫。伊織の勘を、私も信じているからね。……お腹がすいたろう、おいで」
穏やかな笑顔は、これまで馴染みの無いもので。
どう答えていいか分からず、結局宝はただ頷いた。
「……うん」
***
幻の家を出てからの帰り道、沈黙が続く。
辺りの喧騒が、余計に自分たちの間に漂う空気を重く感じさせた。
見慣れた長屋まで間もなくというところで、覚悟を決めたように口を開いたのは伊織だった。
「……すまなかったな、彩」
「どうして謝るの?」
「見なくていいものを見せた」
あの女に、小屋から抜け出す力が残っていたとは予想外だった。
時の神の裁きを受けた者は、圧倒的なその力に一瞬で消え去るはずだった。
最期の力を振り絞ってまでこちらに歩み寄ったのは、生への執念か。
それとも、僅かにでも残っていた娘への愛情か。
今となっては、真実は決して分からないけれど。
「俺も嘘をついていた」
「嘘?」
「つなぎ屋の仕事は、彩がこれまで思っていたような良い面ばかりじゃない。あんなふうに残酷なこともする」
「……うん」
「それに、俺自身には対価の価値は決められないと前に言ったが、それはある意味正しいが、嘘でもある」
「どういう、こと?」
「時の神は、不釣り合いな対価を差し出した者を決して許さない。依頼主は必ず裁かれ、命を落とす。ただ……今回彩にも分かっただろうが、時の神の裁きを待つまでも無く、明らかに釣り合わぬ対価だと俺達が分かる場合もある」
「うん」
「そして、依頼を受けるかどうかを決めるのは俺だ。……これが何を意味しているか分かるか?」
少し考えて、彩が目を瞠る。
対する伊織は小さく笑った。
笑うことしかできなかった。
今更、殊勝な顔をして許されるとも思っていない。
「そう。俺は今回、あの人が裁きを受けるのを分かっていて、その上で依頼を受けた。……人殺しなんだよ、俺は」
互いの間を、通り風が吹き抜けていった。
「伊織……」
「それでも彩はちゃんと帰す。……といっても信じ難いだろうけどな」
「そんなことない。私、伊織を信じてるから」
「無理しなくていい。これがつなぎ屋の正体だ。だから彩の時代につなぎ屋がいないって聞いて、本当に良かったと思ってるよ」
触れれば壊れてしまいそうな伊織の笑顔。
不安になった彩がもう一度その名を呼ぼうとした時、後ろから声がした。
「探したぞ!」
「なんだ、清か。試合はどうだった?」
「誰に聞いている。俺が負けるはずがなかろう」
清之助の変わらぬ様子が、今のこの場では救いとなった。
「いや、彩殿にもお見せしたかったですよ。向かい来る敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げ」
「阿保。話を盛るな」
「そちらはどうだ。上手くいったのか」
「……まぁな。いつも通りだ」
「そうか。仕事も済んだなら、彩殿。まだ日もありますし、ご一緒にお茶でもいかがです?」
いつものように、彩を誘う。
いつものように彩が遠慮し、伊織が間に割り込む。
そう清之助も思っていたはずだが。
「そうだな、たまにはいいんじゃないか」
「伊織?」
「彩も今日は疲れただろうし、ゆっくりしてくるといい。帰りは清にちゃんと送らせる。……行くぞ、猫」
一方的に告げると、伊織は振り返らずに歩き出す。
これまでずっと黙っていた猫は、そっとその手で彩の腕を撫で、伊織の後を追った。
そしてある程度二人から離れて、漸く口を開く。
「伊織は本当に馬鹿じゃのう」
「分かってる」
「馬鹿すぎて、見捨てられぬ」
「そうか。……すまんな」
伊織と猫を見送る形となった二人。
清之助は、ひとつ息をつくと、俯いたままの彩に明るく声を掛けた。
「せっかくお許しも出たことですし、行きましょうか。お勧めの茶屋があるんですよ。そこで全部話してください。私で良ければお聞きしますから」
***
清之助の最近のお気に入りだという茶屋は、以前伊織や苦楽と行った茶屋とは別であったが、確かに雰囲気もよく落ち着いていた。
恐らく、少し裕福な人間が来るのだろうと彩は思う。
そこで今日一日の出来事を清之助に話した。
丁寧に頷きながら聞いていた清之助は、聞き終えると困ったように笑った。
「やはりそうでしたか。あいつが落ち込む時はいつもそうなんです」
「清之助さんは、その、裁きのこと、知ってたんですね」
「まあ、それなりに長い付き合いですし。それにもともと噂されてるんですよね。つなぎ屋ってのは願いを叶える代わりに命を取る死神だとか。実際にあいつを知らない奴の間では好き放題言われてます」
「そう、だったんだ。私……全然知りませんでした」
「江戸は広いですからね。伊織とその師匠。たった二人だけの、しかも人知を超えたつなぎ屋なんて、噂好きの恰好の的ですよ。そして……そんな噂があったとしてもなお、欲を満たしたいと考える人間ってのもうんざりするほど多いんです」
「伊織は、自分を人殺しだって」
清之助は僅かに首を傾げてみせる。
「今は天下泰平の世ですが、私だって戦となれば人を殺しますよ、これでも武士ですから」
「それは、わかります。でも……何だか自分の世界とかけ離れていて、驚いてしまって……」
清之助は笑って言った。
「死は珍しいものではないでしょう。戦でなくとも流行病であったり事故であったり。それを自分と無縁だという彩殿は一体どこからいらっしゃったのです? もしや遠い異国の地ですか?」
「……!」
「……あれ?」
清之助としては冗談のつもりの言葉だった。
だが、思いがけない彩の様子に面食らう。
「彩殿?」
「や、やだなぁ、そんな訳ないじゃないですか」
「そ、そうですよね。ふざけすぎました」
互いにぎこちなく笑う。
咳払いを一つして、清之助は本題に戻った。
「伊織は稼業としてつなぎ屋をやっている。そしてその仕事上、嘘つきは絶対に裁かれます。ですがもともと、伊織は頼みを聞く側だ。対価を提示するのも依頼主。ならば裁きは伊織の責任じゃないし、仕方のないことだと思いませんか?」
「…………」
「でもあいつは気にしてる。そして毎回落ち込むんです。あいつに救われた人間はたくさんいるはずですが、それよりも一人の犠牲に引きずられていく。あいつらしいといえばそうなんでしょうが……。友として言えば、伊織はつなぎ屋に向いてない。だから剣の道に来いと言ってるんですけどね。俺は一応武士ですが、この年まで人を斬らずに生きてこられてますから」
顔を合わせば軽口を叩き合う二人だが、清之助はその実、とても真面目に伊織のことを理解しているようだった。
それが伝わり、彩は胸が熱くなる。
「清之助さんもだし、猫ちゃんも幻さんも苦楽さんも、皆、伊織のことこんなに思ってるのに。どうしてあんな悲しい顔をするのかな。一人じゃないのに」
「一人ではないですが、伊織の気持ちを完全に理解してやれる人間もいません。幻さんなら分かるかもしれませんけどね」
「……?」
「今回の件では、明らかに裁きを受けると分かっていたんでしょう? ですがいつも伊織が見破れる訳ではない。あいつは過去に依頼主を何人か亡くしていますが、その多くはあいつを欺いて裁かれた人間だ。あいつは騙された上、救うこともできぬまま、ただその死を見せつけられるんですよ。裁きとやらよりも、あいつが背負うものの方が、余程理不尽ではないですか?」
初めて伊織が依頼主を失った日を、清之助は今も覚えている。
そしてその日の伊織の表情は、多分一生忘れないだろうと思う。
あんな顔をするくらいなら辞めてしまえばいいのに。
清之助のその言葉に、彩は以前伊織と話した彼の過去について思い出していた。
父のことで幻に恩があるからつなぎ屋を止めるわけには行かない、と。
「でも、お父さんが」
「親父さんのこともご存知でしたか。……多分、今回伊織が依頼を受けたのは、自分自身をあの子と重ねたからじゃないかと思います」
「どうしよう、私……伊織にひどいことしちゃった。伊織はたくさん苦しんで、辛いことを自分で全部背負い込んで、それでも宝を助けてくれたのに」
伊織のために泣いている彩を見て、清之助は無性に胸が苦しくなった。
それはあの日、道場で感じた痛みと同じだった。
無意識に彩に手を差し出しかけて、すんでのところで握りしめて堪える。
そして何とか、いつも通りの顔を作った。
「陽が落ちてきましたね。今日はこの辺で帰りましょうか」
「……はい」
***
長屋のすぐそばまで送り届けてくれた清之助に、彩は深く頭を下げた。
「清之助さん、今日は本当にありがとうございました」
「いいえ。私で良かったらいつでもお付き合いしますので。……では、伊織を頼みますね」
その後ろ姿を見送って、振り返った彩は見慣れた道を進む。
一歩近づくごとに、鼓動が高鳴る。
そして-。
「ただいま」
「お帰り、彩」
伊織は、いつも通りの笑顔で出迎えてくれた。
夕餉の支度をしていた猫も、その手を一旦止めてこちらを見ている。
「どうだ。少しは気晴らしできたか?」
「うん、ありがとう」
「清もたまには役に立つな」
そう言ってまた笑う伊織に、彩は黙って近づいた。
「……彩?」
「あのね」
言葉より先に熱いものが喉にこみ上げる。
彩はそれを必死に堪えた。
絶対に泣かずに言うと決めていた。
きっと誰より泣きたいのは自分ではなく伊織だ。
「ごめんなさい」
「どうした?」
「私、伊織の気持ちや仕事のこと、何にも分かってないのに勝手に期待して、傷つけた。伊織は全然悪く無いの。悪いのは私……本当にごめんなさい」
唖然とした顔で彩の言葉を聞いた伊織は、慌てて首を振った。
「何言ってんだ。彩が謝ることなんてない。……あ、俺か。俺の態度がそんな風に思わせたんだな。すまん、彩は何も気にするな」
「違うの、私が」
「いや、俺が」
同時に言いかけた互いの頭を、猫の両手がぺしと叩いた。
「全く。揃いも揃って馬鹿じゃのう。……ま、似合いではあるがな」
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