第三十話 嘘の代償
翌日。
朝になってようやく戻った伊織は、その理由を何も口にせず、前日と同じ時間を見計らって橋へと向かった。
その服装は、以前と同じ羽織袴姿である。
「……受けるのか、伊織」
「相手次第だな」
伊織と猫。
二人の口調は普段通りであるのに、そこに漂う緊張感に、後ろを歩く彩は戸惑っていた。
清之助は泣く泣く道場に向かったため、今日ここに姿は無い。
「二人はあの子のお母さんがどんな依頼をするか、予想がついてるの?」
「……人の欲は大抵どれも似たようなもんだ。問題は、あの母親がどこまで堕ちているか、だな」
「伊織……?」
ふと、伊織がこちらを見た。
「なあ、やっぱり彩は家に帰った方がいいんじゃないか」
「何回聞かれても同じだよ」
その言葉は昨日も、そして今朝も伊織の口から聞いた。
そして同じように、彩は断った。
伊織の仕事を見せてほしい、と。
「彩。もし俺が……」
「……?」
「何でもない」
あの橋に近づくと、少女が既に待ち構えていた。
恐らく朝からずっと立ち続けていたのだろう。
こちらに気付くや、小屋に向かって駆け下りて行く。
伊織達も少女に続いて小屋に向かった。
と、小屋の中から女が姿を現した。
まだ十歳にもならないであろう少女の母親だ。
そこまで歳ではないはずだが、その顔は窶れ若々しさは感じられない。
だが、伊織を見て笑った顔は子供の様にも見え、一層痛々しい感じがした。
「まあ、あんたがつなぎ屋さんかい。客からあんたの噂を聞いて、ずぅっと会いたかったんだよ。夢みたいだねぇ」
昨日出会ったことには気づいていない様子で、少女を怒鳴りつけていた時とは全く異なる、媚びるような口調で話す。
彩は不快に感じたが、伊織は顔色も変えず淡々と尋ねた。
「俺を探していると娘に聞いた。……用件は」
「決まってるだろう? つなぎを頼みたいんだよ。あたしを本気で愛してくれた男と一緒だったあの頃にさ。今度こそ、あたしはあの人を離さない」
「俺の噂を聞いたのならば、対価と憑代についても知っているんだろうな」
「もちろんだよ。憑代は、あの人がくれた紅。ただねぇ……あたし金がなくってさ。その日暮らしで精いっぱい。この子もいるしねぇ」
そう言って、女は傍らの少女を指さした。
少女は何かを期待する顔で待っている。
恐らくは、よくつなぎ屋を見つけた、と褒められることをー。
「対価は金でなくとも構わない。……自分の願いと相当だと思うものであれば」
それを聞いて、女はにやりと笑った。
「それも聞いてるよ。だからさぁ、あたしはこの子を対価にする」
「……!」
彩は自分の耳を疑った。
少女も、今聞いた言葉が理解できないのか、ぼんやりと母を見上げていた。
褒めてもらえるはずだった、母の姿を。
「……母ちゃん?」
「あたしだって辛いよ、この子は大事な娘なんだから。でもだからこそ、あたしの願いと対等だって思わないかい? この子、覚えは悪いけど働くのには慣れてるから、きっとお兄さんの役にも立つよ。それでも不満ならどこかに売っちまったらいいよ」
「……そうか」
こちらに背を向けている伊織の表情は、彩には分からない。
けれど、女に返したその一言は、ひどく静かだった。
「伊織、やめて。こんな人の言うこと聞かないで」
「彩、駄目じゃ」
伊織に向かって踏み出そうとした体を、猫に抑えられる。
それを見た女は嘲笑ぎみに言った。
「あたしはつなぎ屋に話してるんだ。関係ない奴は黙ってな」
「でも、こんなのひどい。……あんたなんて母親じゃない!」
「彩、やめぬか」
彩と女の言い争いには関せずといった風で、伊織は無言で少女に近づいた。
その目の前でしゃがみこみ、少女の目と同じ高さに目線を合わせる。
「お前、名は何という?」
呆然としていた少女は、我に返ると戸惑って母の方を見た。
「さっさと答えな。これからのあんたの主人だろうが」
「……タカ」
「夜鷹の子だからねぇ、何人いようと全員タカで充分さ」
伊織は女の声に全く耳を貸さず、タカだけにまっすぐに話しかけた。
「タカ。……お前はこの先、何が起ころうとも一人で生きて行く覚悟はあるか」
タカは黙って伊織を見つめ返した。
伊織の目に何を感じ取ったのか。
しばらく黙って、そして小さく頷いた。
「……うん」
「そうか」
伊織は立ち上がると、タカの頭を撫でて、そしてようやく女に向き直った。
「いいだろう。……依頼を受ける」
「本当かい? そこの女と違って物わかりのいいお兄さんで助かったよ、ありがとね」
「伊織!」
「今、この場でつなぎを行う。準備が整わぬなら日を改めるが」
「冗談じゃないよ。こんな機会逃してたまるか。やっとくれ」
伊織は、背を向けたまま猫と彩に言葉をかけた。
「猫は妖を。彩は……タカを頼む」
「承知」
「……」
分かった、とは言えなかった。
ただ彩はタカに歩み寄り、無言でそっとその体を抱き寄せた。
驚くほど痩せて、薄い体だった。
伊織が刀を掲げ、そして斬り開かれた時が、女の焦がれた時へとつながるー。
一見、辺りの様子は何も変化が無く見えた。
強いて言えば、小屋が今よりも少し小綺麗であるようなその程度の違い。
だが、女は脇目もふらず小屋に駆け寄っていった。
「竜っつぁん! いるんだろう、ねぇ!」
中に覗き込んで嬌声を上げる。
「会いたかったよ、竜っつぁん。もう、あたしを一人にしないでおくれ!」
そして小屋の中に消えた。
それと同時に辺りが急激に暗くなる。
「やはり多いのう」
伊織と猫が、空から次々と湧いてくる妖を払っていく。
彩は必死に覆いかぶさるようにしてタカを守ろうとした。
その時-。
異常な音が聞こえた。
彩は初め妖のものかと思ったが、人の叫び声だと分かったのは、それが小屋の方から聞こえたから。
そして女が、いや、女だったものが飛び出してきたから。
「……!」
女の顔にも体にも無数のヒビが入って次々と剥がれ落ちていた。
こちらに近づくごとに、欠片は風に飛ばされ、どんどん女の姿が消えて行く。
その怖ろしい光景は、一瞬で彩の目に焼き付いた。
異変を感じて顔を上げようとするタカ。
彩は寸でのところで我に返って彼女をさらに強く抱きかかえ、自身も目を閉じた。
「お姉ちゃん?……苦しい、どうしたの?」
「ごめん、でも、今は駄目」
やがて、辺りが完全に静かになった。
「彩、もう大丈夫じゃ」
「……う、ん」
猫の手がそっと彩の肩に乗せられ、彩はようやく顔を上げた。
タカも体を起こし、視線を彷徨わせる。
妖の姿も、タカの母親の姿も、どこにも無かった。
既につなぎの世界から元に戻ってきたようで、残されているのは薄汚れた小屋だけだった。
「母ちゃん、は?」
「……いない」
そう言って、タカの前に膝をついた伊織。
タカの横にいた彩にも、今度は伊織の顔が見え、その表情に息を呑む。
「お前の母ちゃんは、もういない」
「どうして」
伊織は微かに目を伏せた。
「お前の母ちゃんが出した対価は、願いと対等ではなかった。それを分かってて、あの人は嘘をついた。だから、怒った神様に裁かれたんだ。……もう、二度と戻ることはない」
「……死んじゃったの?」
「そうだ。神に逆らった報いは必ず受けなければならない。だからお前はこれから一人で生きて行くんだ……できるか」
「……うん」
タカは涙を見せなかった。
これまで恐らく受けていたであろう、母親の虐待からの解放。
一方で、褒められたいと願う母親への純粋な思い。
それらは入り混じって、タカの心の中に閉じ込められているのかもしれない。
伊織は先程と同じようにタカの頭を撫でた。
「いい子だ。……さっき思ったんだけどな」
そう言うと、伊織は傍に会った小枝を手に取り、土に文字を掘った。
「お前の名前、タカは夜鷹の子、と言うだけでは無い。……こういう字がある」
伊織が書いた文字は、“宝”の一字。
「宝物の”たから”。これからお前の名はこの字を使おう。宝の”たか”、だ。……お前は、決して簡単に売り買いされるようなものではない。誰にも負けない、大切な存在だ。それを忘れるな」
「宝、の、タカ? ……ありがと、お兄ちゃん」
宝の顔にはまだ笑顔は戻らなかった。
それでも、伊織は小さく笑って見せた。
それはまるで痛みをこらえるように、彩には見えた。
お立ち寄りありがとうございます。どんなことでも構いませんので感想を頂けると嬉しいです。




