第二十九話 夜鷹の子
明け方まで降り続いた雨は、太陽がすっかり姿を見せる頃には上がった。
そしてその後には、前日とうって変わりら雲一つなく澄み渡る空が広がっていた。
「彩。足元、気をつけろよ」
「うん、大丈夫」
食材の買い出しに行く伊織の後を、彩と猫が歩く。
猫は虹丸が寺子屋のため、退屈でやむなくついてきた形だ。
地面の至る所に出来ている水溜まりを身軽に飛び越えて行く。
「おい、泥がはねるだろうが。やめろよ」
「大丈夫じゃ。お主は自分のことを気にしておれ」
「何……あっ!」
猫に気を取られ、水溜まりに伊織の片足がはまった。
着物の裾に派手に泥が飛んでしまっている。
「だから言ったであろう」
「もっと早く言え。お前という奴は本当に」
「帰ったら私、洗うよ。だからほら、二人ともじゃれてないで」
「じゃれてない!」
「確かに違うぞ、彩。今は、ワシが伊織に生きる上での厳しさを教えているところじゃ」
「あのなぁ……」
彩はいつも通りの二人のやり取りに笑った。
昨日の苦楽の件は気にかかるが、自分がふさぎ込めば伊織が心配する。
苦楽が本当に幻を手にかけるとはどうしても思えなかったし、むしろ幻ならば誰よりも苦楽の様子に気付くようにも思えた。
何より自分が今考えなければならないのは、苦楽ではなく自分自身のことだ。
安い米屋があるそうで、これまで彩が来たことの無い川沿いをしばらく歩いて行くと、橋の下に小さな小屋が見えた。
藁と木の板を重ねただけで、二人も入れば窮屈になりそうな大きさだった。
「あそこは家なの? それともお店?」
何気なく尋ねられて、伊織は返事に困った。
「……彩は知らなくていい」
「え、どうして?」
「そんな言い方をすれば、却って気になるであろうが。馬鹿者」
「……うるさいな、分かってるよ」
「彩、あれは夜鷹の住まいじゃ」
「よたか?」
「夜の鷹。夜になるとこの辺りに立って男を誘う娼婦じゃ」
「あっ、そ、そうなんだ。ごめんなさい、伊織」
「なぜ謝る。俺は何も言ってない」
「……そうだよね、ごめん」
互いに顔を赤らめて、気まずい沈黙ができる。
一人猫だけが、つまらなそうに欠伸をした。
と、その時。
夜鷹の小屋から女の怒鳴り声が聞こえ、すぐに一人の少女が転がり出てきた。
続いて女も顔を出したが、こちらは小屋から出る様子が無い。
驚いて足を止めた伊織達のいる通りに駆けあがって来る少女。
その小さな背中に、女が叫ぶ。
「さっさと酒買ってきな。ぐずぐずしてんじゃないよ」
少女は伊織達の前を駆け抜けようとしたが、やせ細った足がもつれ、ちょうど彼らの目の前で転んでしまった。
「……! 大丈夫?」
「彩」
思わず差し出した彩の手を、伊織が押し留める。
それとほぼ同時に、辺りに罵声が響く。
「何やってんだい、のろま!」
慌てて立ち上がった少女の膝は擦りむけて血が滲んでいた。
だが少女は泣きもせず、己の膝と、そしてちらりと彩に視線をやり、結局そのまま無言で駆けて行った。
女の姿も、気づけば既に無い。
「どうして止めたの? あの子……」
「分かってる。……けど、救えないのに中途半端に手は出せない」
「でも」
「彩は優しいのう。だが、優しさだけではどうにもならぬ。あの童のような境遇にある者は、珍しくない。それぞれの生きる定めだと、言って仕舞えばそれまでじゃがな」
「……うん」
「彩の時代には、ああいう人間はいなくなるのか?」
「そんなこと、ない」
この時代も、元の時代も何も変わらない。
救えない人は多くいて、自分にも誰にも、その全てを救う術などない。
見て見ぬふりをしたり、無関心のまま、ただ通り過ぎていくだけだ。
「そうか……残念だな」
静かに拳を握りしめ、伊織は小さく呟いた。
***
買い出しは順調に進んだ。
ただ一点、清之助に遭遇したことを除けば。
「やはり、この広い江戸の町で幾度も出会うなんて運命ですね!」
彩が持っていた風呂敷を素早く取り上げると、清之助は満面の笑みを浮かべた。
「お前……もしかして俺たちをつけてるのか?」
「何と浅はかな。彩殿、これ以上伊織といては、悪影響が出かねない。私は心配でたまりません。一日も早くこいつの家を出た方がいい」
「心配していただいて、ありがとうございます。でも大丈夫ですから。荷物も自分で」
伸ばした手を、逆に掴まれる。
「遠慮は無用です。女子に名を持たせるなど言語道断。私が責任を持って家まで運びましょう」
「え……と。じゃあ、私より猫ちゃんの分を」
「お二人分で結構ですよ、さあ、猫嬢も」
「そうか、済まぬな」
そう言って猫は、抱えていた風呂敷を無造作に清之助の腕に載せた。
清之助の顔色が明らかに変わる。
猫は見た目こそ童だが、妖の力は人間とは異なるらしい。
「す、すごい力持ちだね、猫嬢は」
「お主は稽古不足のようじゃな」
「お前はもう諦めてさっさと帰れ。猫も余り清を揶揄うな」
「ふざけたことを言うな。これしきの荷が持てぬようでは、彩殿に顔向けができぬわ。……お気になさらず、彩殿」
清之助が加わり、何となしに賑やかになった一行だが、先を行く伊織の足がふと止まった。
気付けば、往路で夜鷹の娘を見かけた川原が間近に見えていた。
「……もう一つ、先の橋まで歩こうか」
さすがに清之助が顔を顰めた。
「なぜそんなことをする。ここを行く方が近いだろう、俺への嫌がらせか」
「そう言いたいところだが、残念ながら違う」
「伊織、行ってみよう。このまま」
「……彩がいいなら」
橋を渡り始めると、向こう岸の橋の下に、先程と変わらぬ小屋が見えた。
小屋の近くに人の姿は見えない。
行きは真上近くにあった太陽は、既にかなり傾き始めている。
どこかの家から、魚を焼く匂いがしていた。
-あの子は、ちゃんとご飯とか食べさせてもらえてるんだろうかー
余計な気を回すなと言われたが、やはり彩の心にはもどかしさが残る。
どう考えても、あの子はあの女性に大事に育てられているようには思えない。
自分は偶然伊織と猫に助けられたが、この町に居場所が無いのはあの子も自分も同じではないのだろうか。
「そういえば、伊織。明日道場に来てくれないか? 他流の者から手合わせの依頼を受けてな。師範がお前も呼べとうるさいのだ」
「だから、俺は門下ではないと何度言えば分かる」
「そう固いことを言うな。あの人の中では、俺もお前も師範代だ。どちらに道場を継がせるか、本気で考えていると言う噂がある」
「……阿保か。門下外を頭に据える道場がどこにある」
「もちろん俺もお前に師範の座を譲る気は無いが、まあ、それだけ師範がお前を買っているということだろう。俺も、お前がいないと正直張り合いが無いからな。どうだ、そろそろつなぎ屋はやめて剣の道に来ないか」
「断る」
にべも無く拒絶した伊織と清之助が橋を渡り終える。
そのすぐ後に続いた彩も、猫と一緒に橋から一歩踏み出す。
橋の袂に静かに座り込んでいた少女に最初に気付いたのは彩。
何気なく視線を横にやり、食い入るようにこちらを見上げた少女と目があった。
何故、そんなに驚いた顔でこちらを見ているのだろう。
「あなた……」
彩の声に、伊織達も立ち止まった。
少女はその場にいる皆の視線に気づくと、はっとした様子で川に視線を戻した。
「あの……さっきもここで会ったよね」
伊織が口を挟もうとしたが、彩は腰を屈めて少女に話しかけた。
「あそこ、おうちなんでしょ。……帰らないの?」
少女は無言のまま、自分自身の体を抱きしめるように縮こまった。
少女からの言葉は期待できないようだ。
そう思ってあきらめかけた時。
「……母ちゃんの仕事中は、帰れない。母ちゃんが呼んでくれるまでは、ここにいる」
「……」
彩は返す言葉を失って、息を呑んだ。
さすがに自分でも、少女の言葉の意味は分かる。
少女はいつもこうして一人、外で待ち続けているのだろう。
「……大丈夫?」
大丈夫な訳がない。
そう思うのに、口から発することが出来た言葉は先程と同くそれだけ。
皆に背を向けたままの少女は、返事の代わりに小さく頷いた。
「彩、行くぞ」
「……う、ん」
伊織の声に、彩はぎこちなく起き上がる。
それを見届け歩き出した伊織だが、数歩で足を止めて振り返った。
背負っていた風呂敷に手を入れ、探るようにして小さな包みを取り出す。
さらにその包みを開け、中にあった大福餅を一個手に取った。
「これを食べて待ってろ。ばれぬように、食べたら必ず口を拭け」
「…………」
少女は再び驚いた顔で伊織を見上げた。
「さ、帰るぞ」
背を向けて今度こそ歩き出す伊織に、少女が立ち上がって呼びかけた。
「待って」
「……?」
「……兄ちゃんは、つなぎ屋、なの?」
「……!」
先程の会話を聞かれていたのか。
清之助を睨みつけるが、もう遅い。
「だとしたらどうする」
「母ちゃん、ずっと兄ちゃんのこと探してるんだ。……でも、今日はきっと遅くなるから、明日もう一度ここに来て」
「…………」
「お願い。兄ちゃんが来てくれたら、きっとすごく喜んでもらえるから」
少女の必死な様子を見て、伊織は溜息をついた。
「……分かった。約束する」
「ありがとう!」
少女は、初めて笑顔を見せた。
その夜、伊織はふらりと一人で出て行って、結局そのまま戻らなかった。
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