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第二十六話 仇討

 辺りは闇に包まれていた。

 厚い雲に阻まれ、月の姿は全く見えない。

 彩の知る現代の夜とはあまりに違う、暗く深い闇。

 その闇の中、こちらに近づいてくる光がある。

 心許ないその光が照らした女性の顔に、虹丸が呟いた。


「母ちゃん……」


 思わず一歩を踏み出した虹丸の手を、猫が握る。


「堪えろ、虹丸」

「……」


 猫の声が耳に入っているのかどうか。

 虹丸は目を見開いて、母親の姿を凝視している。


 と、突然横道から黒い影が躍り出てきた。



 一瞬の出来事だった。

 斬りつけられた虹丸の母親がその場に倒れた。


「母ちゃん!」


 彼女が背負う荷に手をかけようとしていた黒い影。

 それが虹丸の声に動きを止め、慌てたように反対方向に逃げ出した。


「待てっ、人殺し! ……絶対に許さない!! ……離せ、猫!」

「離さぬ。……っ!」


 虹丸が体を捻ると、猫の手が一瞬虹丸から外れた。

 その隙に虹丸が相手を負って走り出す。

 虹丸の片手には隠し持っていた短刀が光り、残された猫の手には一筋の血が浮かんでいた。


「猫ちゃん!」

「大事ない。……それより虹丸じゃ!」

「こちらも来るぞ」


 伊織の緊迫した声に上を見上げた彩は息を呑む。

 暗かったはずの空に次々と現れる光―妖の目だ。

 襲い掛かってくる妖を、伊織が刀で斬り伏せていく。

 猫もその手で妖を弾き飛ばしながら、虹丸を追いかけている。

 

 虹丸はといえば犯人を追いかけているが、子供の足ではやはり追いつくのは無理だと思われた。

 それを見つめていた苦楽が、傍にいた彩を引き寄せて、その耳元に小さく告げる。


「すみません、彩さん。私もまた嘘をつきました」

「え?」


 聞き返すと同時に、彩は苦楽の纏う空気が変わったことに気付いた。

 そして彼が何事かを口元で呟いた次の瞬間、辺りを一陣の風が吹き抜けた。


「苦楽っ、お前……!」


 伊織の叫び声が聞こえた。

 猫も驚いたようにこちらを振り返っている。


「殺してやる!」


 虹丸の声が辺りに響いた。


 はっとして前方を見れば、虹丸が犯人のすぐ後ろに迫っている。

 あれ程差が開いていたのに、何故。


 そう思って、改めて犯人を見た彩は気づいた。

 犯人は、必死で逃げようともがいていた。

 だが、その場から動けずにいるのだ。

 まるで、見えない力に抑えられているように。


「虹丸。仇を討ちたかったんだろう。……今ならできるよ」


 彩からそっと手を離した苦楽が、こちらに背を向けて虹丸に一歩近づく。

 その声はいつもと同じく穏やかな声なのに。

 その背中は、苦楽ではない全然別の何かのように思えた。


「……俺が、母ちゃんの仇を討つんだ」

「そうだ。その男はお前の母を殺した犯人だ。お前にはその男を殺す権利がある」


 震える虹丸の声と、それを励ますような苦楽の声。

 そこに、震える声が混ざった。


「済まねぇ、勘弁してくれ」

「今更何言ってんだよ! 何で母ちゃんを斬った! 答えろ!!」

「本当に悪かった……もう何日もまともに食えてなくて……ガキに腹一杯食わせてやりたくて、金が、欲しかったんだ……」

「ウチだって……母ちゃんだって金なんか持ってねぇよ、馬鹿野郎! そんなんで人殺しなんてふざけんな!!」


 虹丸が短刀を振り上げた。


「苦楽、止めろ!」

「虹丸、駄目じゃ!」


 妖を払いながら、それぞれに叫ぶ伊織と猫。

 

 彩は、はっと気づくと斬られた虹丸の母の元に駆け寄った。

 それを見て伊織は彩の元へ、そして猫が虹丸の元へと向かう。


「俺が……殺す!」

「そうだ。仇を討ち、お前の行動は正しいものだと示せ」

「駄目だ、虹丸!」

「うわぁぁぁぁっ!!」




 だがしかし。

 虹丸が振り上げた短刀は、空中で震えたまま。 


「俺がやるんだ……俺が、やるんだ……俺が」


 繰り返される虹丸の声は、その都度力を失っていく。


「なぜ殺さない、仇だろう? お前はこのために、今まで耐えてきたんじゃないのか?」


 苦楽の言葉に振り返った虹丸は、涙で顔を歪ませて言った。


「俺、母ちゃんが死んだ気持ちが分かるから。……こんな奴でも、俺が殺せば、残された子は俺と同じ気持ちになる。寂しくて、辛くて……会いたい。それが分かるから……殺せないよ」

「…………」

「ただ、約束しろ。もう絶対に、こんなことはするな。俺みたいな子を増やすな」


 犯人の男は、虹丸と同じように涙で顔を歪ませて何度も頷いた。


「済まねぇ。約束する、本当に悪かった」


 その光景を見届けた苦楽は静かに目を伏せた。

 それとともに、男の体が自由となったようだ。

 男は地に額を擦り付けるようにして土下座をして、そして転がるように闇の中に消えていった。


「……虹丸」


 何とかそこまで辿り着いた猫が、虹丸の肩を抱き、その手に握りしめていた短刀を取り上げた。


「よく堪えたな。お主はえらい男じゃ」

「ごめん、猫。怪我させちゃったな」

「かすり傷じゃ。こんなもの舐めればすぐ治る」


 そんな二人のやり取りに小さく笑って、苦楽は口を開いた。


「仇討ちは失敗した。もうお前に二度目はない。……ならば恨みは全て今、ここに捨てていくことだ」

「……分かった」


「虹丸。お母さんが!」


 彩の声に、虹丸が弾かれたように顔を上げた。


「あ、母ちゃんっ……!」


 慌てて母親の元に駆け出す。


「にじ、まる……なの?」

「母ちゃん!!」


 虹丸は母親にしがみついた。


「母ちゃん、ごめん。俺、仇を討とうと思ってたのにできなかった」

「……馬鹿だねぇ。そんなことしないで、いいんだよ。……あんたは、父ちゃんに似て、やさしいこ、だから……そのままで、いな。……まえを……むいて」


 母親は、この場に居合わせた息子を、夢幻だとでも思っているのかもしれない。

 それでも最期に会えた息子に心からの笑みを浮かべ、震える手でその頬を撫でた。


「とおちゃん、たのむね。……しあわせに、なりな……にじ、ま、る」

「母ちゃん?……母ちゃんっ!!」

「…………」


 二度と返ることのない返事を求め、虹丸は何度も叫ぶ。


 

 伊織は空を見上げた。

 虹丸の依頼は、違えることなく無事成った。

 虹丸の気が変化したことで、あれだけいた妖もいつのまにか姿を消していた。

 だとしてもー。


「苦楽……すべてお前の計算の内なのか?」


 犯人に逃げられ憎しみを燻ぶらせたままの心では、確かに虹丸は変われなかっただろう。

 妖に憑りつかれて闇に堕ちていたかもしれない。

 けれど、本当に仇討ちをなせば、その瞬間に虹丸の命は失われたはずだ。

 賭けるには危険が大きすぎる。


「さて、どうでしょうね」


 苦楽はいつも通りの笑顔で言った。


お立ち寄り感謝いたします。どんなことでも構いませんので、感想を頂けると嬉しいです。

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