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第二十一話 苦楽

「そこまで!」


 山部がそう告げると、弟子たちが一斉にその場にへたり込んんだ

 流石に伊織も汗をかいたようで、胸元から取り出した手ぬぐいで顔を拭っている。


「伊織、少し休憩が必要か」

「……俺は続けて構いませんよ」

「では、次は清之助。こちらへ」

「はい!……いよいよ俺の出番ですよ、彩殿」

「これから二人で稽古ですか?」


 清之助はその場に立ち上がると、気合を入れるように深呼吸した。


「そうです。一応俺も師範代ですから。あいつは確かに強いですが、絶対に負けられない相手でもあります。道場のことでも……彩殿のことでも。だからちゃんと見ててくださいね」

「え……?」


 中央に向かう清之助と逆に、弟子達が下がってきた。

 誰もが汗だくで、息も絶え絶えと言った感じだ。


 そんな彼らは、いずれも彩から少し距離を置いて座った。

 清之助の言葉が効いているのだろうが、却って彩には居心地が悪い。

 遠巻きにしているものの、あちこちから興味深々の視線をひしひしと感じるのだ。


 助けを求めるように視線を泳がせると、入口から数人の人々がこちらをのぞき込んでいるのが見えた。

 見物人がいるのはいつものことなのか、道場の人々は誰も気に留めていない。

 しかし彩は、その中に見覚えのある人物を見つけた。


「苦楽さん」


 彩と目が合うと、苦楽は笑みを浮かべた。

 ほっとしたものの、彩は清之助の言葉を思い出し、伊織の方を振り仰ぐ。

 まさに立ち合いの寸前だったが、伊織が一瞬確かにこちらに視線を向け、小さく頷くのが見えた。

「すみません……急用ができたので失礼します。見学させていただいてありがとうございました」


 山部の掛け声とともに立ち上がり、誰の返事も待たずに、彼らの間を抜けて入口へと向かう。


「ちょっ……彩殿!」

「余所見する余裕があるのか、清」

「……くそっ、なんだよ!」


 ぶつかりあう木刀に混じり、清之助と伊織のやり取りが背後で聞こえた。


           ***


 表に出た彩を、門の横に立っていた苦楽が笑顔で迎える。


「気づいてもらえてよかったです」

「苦楽さんみたいなイケメン、どこにいても目立ちます」

「いけめん?」

「あっ、いえ……こっちの話です」


 苦楽は少し首を傾げたものの、笑顔のまま続けた。


「よろしければ少し場所を変えましょうか。このままでは皆さんが稽古に集中出来ないようですし」


 振り返ると、皆がこちらを窺っていた。

 清之助には本当に申し訳ないけれど、あの場に戻るのはどうにも気が引ける。

 そんな彩の心を読んだかのように苦楽が言う。


「ここは伊織に任せて大丈夫ですよ。ひとまず彼の刀は私が預かりますので、行きましょう」

「はい」


 伊織の刀を手にした苦楽は、どこか目指す場所があるのか迷いなく進んでいく。

 一方で、歩き慣れない彩を気遣い、ペースを合わせてくれているのも分かった。

 優しい人だと感じたものの、すぐに彩は思い出す。

 苦楽は人ではなく妖だと。

 だが猫も苦楽も、むしろ人よりずっと優しい存在なのではないだろうか。


「長屋を訪ねたが留守でしたのでね。近くで遊んでいた猫から、道場にいると教えてもらいました。彩さんは清之助君に随分気に入られたようですね」


 くすくすと苦楽が笑う。

 どうやら、一連の清之助の行動についても猫から聞いたらしい。


「苦楽さんも清之助さんをご存じなんですね」

「伊織の子供時分からの遊び仲間ですから。私も幻様も清之助くんのことはよく知っています。彼は気の良い人物ですが、少々自由すぎる。その点は彩さんもお気をつけなさい。……まあ、伊織がついているので大丈夫でしょうが」

「私……何もかも伊織に頼りきりで」

「彩さんが気にすることはありませんよ。伊織は仕事として正式にあなたの依頼を受けた。彼は決してそれを投げ出す人間ではありません」

「……はい」


 ()()だ(・)か(・)ら(・)()に(・)す(・)る(・)な(・)と苦楽は言う。

 その説明は全く正しい、ただ少し寂しいだけで。

 彩はそう思う自分を隠して笑顔を作った。


「そういえば、苦楽さんは今日はどうして伊織の所に来たんですか?」

「幻様からの言伝を届けに来たのですが……それについては伊織が合流してからお話します。あの稽古はもう暫くかかるでしょうから、先に休んでいましょう」



 しばらくして、一軒の小さな茶店の前で苦楽が足を止めた。


「清之助君が通うような評判の茶店ではありませんが、伊織はここの団子が昔から好物でしてね。すっかり店主とも顔馴染になって、何かあればここで落ち合うのが決まりなんです」

「私もお団子、好きです!」

「それはよかった。さあ、どうぞ」


 中に入ると、温厚そうな男性店主が相好を崩して出迎えてくれた。

 苦楽が傍に寄り二言三言何かを告げると、店主は軽く頷いて店の奥に視線をやった。


「いつもの所、使いな。お嬢さんには、後で飛び切り上手い団子を持っていくからね」

「わぁ、ありがとうございます!」


 苦楽について行った先は、店内から一歩奥に入り縁側に面した一室だった。

 どちらかといえば、ここはもう店ではなく奥につながる店主の住居側だ。


「あの人は幻様の依頼主だったこともあって、我々にはとても好意的です。ここなら普通の客も清之助君も来ませんから、落ち着いて話が出来るでしょう」

「…………」

「私の気にしすぎならいいのですが、彩さんは何か悩んでいるのではないですか?……もしも伊織や猫には話しにくいことであればお聞きしますよ」

「苦楽さん……」


 ちょうどその時、店主が入って来た。

 その手には美味しそうな団子とお茶を乗せた盆がある。

 それらを置いて笑顔で下がっていった店主を見届け、苦楽は敢えて部屋ではなく縁側に座った。


「天気もいいですから、彩さんもこちらにどうぞ」


 二人で横並びに座り、早速団子を頂く。


「すごく美味しい!」


 目を輝かせてそう声を上げた彩の顔を見て、苦楽が声を出して笑った。


「あ、すみません……はしゃぎすぎました」

「いいえ、こちらこそ失礼しました。喜び方が伊織とそっくりで、思わず笑ってしまいました」

「そ、そうですか」


 美味しい団子と温かいお茶、そして柔らかい日差しが差し込む庭。

 そして苦楽は彩を急かすでもなく、静かにお茶を飲んでいる。

 そんな穏やかな時間が流れる中、彩は意を決して口を開いた。


「……私、多分、元の世界のどこにも居場所が無かった。いじめられていた、のかもしれないです」


 何度か見た夢。

 切なさを感じる光景。

 戻りたいのか分からない心。

 それを全て考えると、答えは一つだった。

 辛い何かがあったのかもしれない、そう伊織は言ってくれた。

 けれど自分で出した結論は、伊織にも猫にも言いだせなくて。

 せっかく仲良くなれた二人に、自分が厭われる存在だったとは、知られたくなかったから。


「どうしてここに来られたのかは分からない。でもあの時代から逃げてきたのは間違いないと思うんです。伊織は私を元の世界に戻すと約束してくれた。初めは私もそう頼んだけど……でも、今は」

「戻りたくない?」

「戻るのが、怖い。この時代の人は皆とても優しくて。私はその優しさを知ってしまったから……ここから帰って元の世界で生きて行く自信が無いんです」


 盆の上に湯呑を置くと、苦楽はゆっくりと空を見上げた。


「ここももちろん、優しさだけではない世界ですよ。嘘、妬み、悪意、敵意、果ては殺意まで、ありとあらゆる負の感情が、溢れる程に存在している。きっとそれはいつの時代でも変わらないでしょう」

「…………」

「彩さんに見えているものは、この世界の真実の一部でしかない。……ただ、逆に言えば、一部ではあっても真実には違いない。彩さんが望むならば、ここに残ることは可能かもしれません……あなたがここに来た状況にもよりますが」

「……状況?」


 その問いには答えず、苦楽は空に向けていた視線をまっすぐに彩へと移した。

 やはり穏やかな表情と、澄んだ瞳をしている。

 この苦楽が妖だというのが、彩の中ではどうにも結びつかない。

 そう思っていると、苦楽が口を開いた。


「彩さんが私を信じて打ち明けてくれたのだから、私もお返しをしないといけませんね」

「…………?」

「私はずっと皆に嘘をついて生きているんです。伊織にも猫にも……幻様にも」

「……嘘、ですか?」

「そうです。もしも真実を知られたら私はもう、今の私のままではいられませんから」


 苦楽の瞳から目が離せない。

 澄んだ瞳は同時にどこまでも底知れぬ深さを併せ持つということに、ようやく気づく。


 恐怖すら感じてしまった彩を見つめ、苦楽の口がゆっくりと言葉を紡ぐ。


「彩さん。私はね-」

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