第二十話 稽古
ふと気づくと、誰もいない静かな教室にいた。
覚えてる……ここは自分の教室だ。
帰って来たんだろうか、元の世界へ。
それとも夢だったんだろうか、あの世界全て。
そう思った瞬間。
一気に音が溢れ、景色が変わる。
誰もいないと思った教室には、多くの生徒達。
あちこちで声や笑いが聞こえた。
-ああ、私も自分の席につかなくちゃー
足は戸惑う自分の意思に反し、勝手に動く。
そしてー。
辿り着いた先には、机も椅子も無かった。
心臓がまるで誰かに掴まれているように痛い。
必死に顔を上げても、誰も私を見ていない。
「あの……」
顔は分かるのに名前が思い出せない。
だからそう呼び掛けたが、誰も振り返らない。
「ねえ、誰か!」
声を張り上げるが、やはり誰も反応しない。
当たり前だよと、頭の中で自分の声がする。
-私はここには必要ない人間なんだから-
「……っ!」
跳ね起きて、彩は今見たものが夢であったと気づく。
隣で寝ていた猫が、ぴんと耳を立ててこちらを見つめていた。
辺りはまだ薄暗く、伊織はといえば壁に張り付くようにして眠っていた。
と猫が近づいてきて、彩の手に自分の頭を擦りつけた。
ふわふわの毛が心地良く、そっと撫でてみれば猫の喉がごろごろと音を立てる。
それを聞きながら、彩は次第に自分の心が落ち着くのを感じた。
「ありがとう、猫ちゃん」
「悪い夢でもみたか」
「……そう、だね」
「夢は現実とは似て非なるもの。悪夢は妖に通ずる。気にしすぎて取り込まれるでないぞ」
「……うん」
彩の手を離れた猫は、大きく伸びをすると少女の姿に戻った。
朝餉の支度を始めるようだった。
「私にも手伝わせて。お世話になってるし、何かしたいんだ」
それからしばらくの後。
「……ごめんなさい!」
彩は伊織と猫に頭を下げた。
目の前には焦げたご飯と、微妙な味の味噌汁が並んでいる。
彩はとても安易に考えていたが、この時代には炊飯器も顆粒だしも存在しないのだ。
猫に教わりながらやってみたが、見事に失敗してしまった。
「彩が謝る必要は無い。慣れないのに、わざわざ作ってくれたんだろう」
「そうじゃのう。……内緒じゃが、寝坊助の伊織より余程役に経っておるぞ」
「……全部聞こえてるぞ。内緒話ならせめて声を潜めろ」
そう言うと、伊織はいつも通り箸を手にして食べ始めた。
「普通に美味いよ。ありがとう、彩。でも無理はするな。彩はまず、自分のことを一番に考えてればいいんだから」
「…………」
ぎこちなく固まる彩に、猫がちらりと視線を向けた。
今朝方の夢が原因だと気付いているのだろう。
「どうかしたか?」
「ううん、何でもない。……えっと、今日は道場だよね、がんばってね」
「……まあ、それなりな」
「猫ちゃんも行くでしょ?」
「伊織を見て何が楽しい。それこそ時間の無駄というものじゃ。ワシは行かぬ」
「別に来て欲しい訳じゃ無いが、面と向かって言われると腹が立つな。どうせお前はそこらで虹丸と遊んでるだけだろうが」
「余程有意義に時間を使っておるだろう」
「……そりゃ良かったな」
***
伊織が彩を伴い道場に着くと、既に門前で清之助が待ち構えていた。
「さすがに今回は逃げずに来たな、伊織。……彩殿も今日は一段と美しい。やはりこんなむさくるしい所にお入りにならない方が良いのでは?」
「あ、いえ、大丈夫です」
「本当に口の減らない奴だな」
「お前は逆に言葉が足りん。言わねば伝わらない事の方が世の中多いのだぞ。さ、彩殿、どうぞ」
促されるように中に進むと、既に20人程が稽古を行っていた。
それを正面から見渡していた年配の男性が、こちらに気づき近寄ってくる。
「ようやく来たか、伊織。お前がおらんと皆の気合が入らんのだ。もう少しまめに顔を出してくれんか」
「いや、何度も言ってますが俺は無関係な人間ですから。やるなら門下生だけでやってくださいよ」
「真の強さとはどんな敵に対峙しても負けぬこと。お前に勝てぬうちは、我が流派を極めたとは認められん。……おっと、失礼いたしました」
男性は、横に立つ彩に丁寧に頭を下げた。
「彩殿ですな。私はこの道場の師範を務めております山部宗十郎。お話は清之助から窺っております。ただ、誠に申し訳ございませんが、本日は先に伊織の稽古を行わせていただいてもよろしいでしょうか」
「……はい?」
「清之助の出番まで、今しばらくあちらでおくつろぎください。では伊織、早く準備を」
宗十郎は再度頭を下げ、こちらを遠巻きに眺める弟子たちの中に戻っていった。
彼が指し示した場所には、座布団が引かれている。
気遣いは有難いが、その一方で彼の言っている話の内容がどうにも掴めない。
「……清。お前、師範に何て言ったんだ?」
「彩殿が上役の娘で、俺の婿養子入り話が進んでいると言った。そのお方が是非とも俺の剣技を見たいそうなのでどうぞよしなに、と」
「……は?」
「……え?」
目を丸くする二人に対して、清之助は悪びれもせずに笑い、小声で続けた。
「そうでも言わなければ、お前以上に朴念仁の師範は、彩殿に気の一つも使えん。こんな獣だらけの場で彩殿をお守りするには、こうしておくのが手っ取り早い。俺が頼むと言えば……まあ、実際には俺ではなく俺の家の力だが、結果ご覧のとおりという訳だ」
清之助の家はそれなりに名の知れた、この太平の世の武家としては珍しく裕福な家であった。
こちらの道場へも、清之助が世話になっている礼としてそれなりの金を納めているようだ。
その清之助から頼まれれば、確かに態度は変わるであろうが。
「だからって、お前な」
「伊織。早く準備を!」
「……はい」
伊織は溜息をつくと、腰の刀を外し、彩に差し出した。
「ひとまず言ってしまったものは仕方ない。彩、これを預かっててくれ」
「うん。がんばってね」
「彩殿は任せろ」
「お前はそこで反省してろ」
いつもと変わらず、ごく自然に道場の中央へと歩いていく伊織。
対して、列になって並んでいる弟子たちはいずれも緊張した面持ちである。
それにつられて彩も緊張して見つめていると、清之助に手を取られた。
「さ、どうぞ。ゆっくり座って見物しましょう。悔しいですが、なかなかの見物ですので」
山部から木刀を受け取った伊織は、一呼吸ついて、それをゆっくりと構えた。
その瞬間、彩には、道場の空気が変わったように感じられた。
「はじめっ!」
掛け声を合図に、まず先頭の弟子が伊織に向かう。
思いきり打ち込んだであろうその一撃を、難なく片手で受け止める伊織。
そしてそのまま流れるように木刀を返し、相手の喉元寸前に突き付けた。
その間、たった数秒。
素早く身を引く弟子の後ろから、続けて次の弟子が仕掛けてくる。
それもまた、瞬時に返されその次へ。
その繰り返しだった。
誰も伊織に勝てぬまま、あっという間に弟子が一巡する。
それでも稽古は終わらず、そして伊織は顔色一つ変えていない。
「お見事。つなぎ屋なんてやらせておくのが勿体ない。彩殿もそう思い……」
苦笑しながらそう言って、彩に目をやった清之助は、最後の言葉を飲み込んだ。
彩があまりにも真剣な表情で伊織を見つめていたから。
そしてその横顔に、清之助は自分でも説明のできない感情を抱いた。
体の奥が熱く痺れるように痛い。
-何だ、どうしたんだ、俺は-
一方、彩は伊織の姿に見とれていた。
清之助が言うように伊織は本当に強く、そしてその姿は美しかった。
それなのに彼は、つなぎ屋でしか生きて行けないと諦めている。
自分と違ってあんなに輝いて、何にでもなれる力を持っているのに。
「彩殿……?」
清之助の声に我に返る。
知らぬうちに涙ぐんでいる自分に気付き、慌てて目元を拭った。
「す、すみません……ぼうっとしちゃって」
「俺は全然構いませんよ。むしろ、あいつの稽古なんて見ないで欲しいくらいですから」
茶化すように話す清之助に、思わず彩も笑った。
それを見て、清之助も安心したように笑う。
そして、しばらく二人はそれぞれの思いを胸に、稽古をみつめていた。




