第十八話 過去
坂田老の住む長屋を出て、帰り道を歩く。
と、猫が声を上げた。
「虹丸たちが待っておるゆえ、ワシは先に帰る」
「そういえば朝言ってたな。ついでにお前からも、もう一度ちゃんと説明しといてくれ。あいつ、絶対まだ勘違いしてるからな」
「どうだかのう。子供の眼の方が濁りがないのではないか」
「……は?」
「では、彩。すまぬが伊織を頼むぞ」
「え? ……あ、うん」
「待て待て。逆だろ、おい」
伊織の指摘を無視すると、猫はすぐ横にあった店と店の間にと入り込んだ。
だが、そこは明らかに人の幅より狭い隙間で。
彩が慌てて目で追うと、その姿は日陰の中で流れるように猫へと変わり、そのまま向こうの隙間から駆け出していった。
「……行っちゃった」
「猫はいつもあんなもんだ。早く遊びに行きたかったんだろ」
「虹丸と仲がいいんだね。っていうか、猫ちゃん、子供と一緒に遊んだりするんだね」
普段の猫の様子からすると、少し想像しにくい。
そう思って尋ねると、伊織が苦笑する。
「まあ、五十歳っていうとあれだけど、それでも妖でいえばまだまだ子供らしいからな」
「そうなの?!」
「おかしいよな、あれこれ世話を焼くくせに。まるで親かなんかみたいだ」
親、という伊織の言葉に、彩は先日見た夢を思い出しどきりとする。
「どうかしたか?」
「ううん、何でもない。えっと、そういえば……伊織の親御さんは今どうしてるの?」
咄嗟に彩が口にした質問に、伊織は目を伏せて首を横に振った。
「俺には物心ついた時から父も母もいない。だからずっと師匠が本当の親で……そうだな、苦楽と猫は兄姉みたいにして育ってきた。だから、その点についてはあの三人に感謝してるよ。ま、不満や恨みも同じくらいあるけど」
そう言って、小さく笑う。
「そっか……」
「なあ、彩。せっかくだし、ちょっと川原で休んでから戻らないか。どうせ猫も日暮れまで帰ってこないし」
「うん、そうだね」
伊織に連れられてきた川原。
今は桜の時期ではないが、きっと春になればまたここも桜の花びらが舞うのだろう。
先程の坂田夫妻が、かつて心に焼き付けた風景の様に。
少し離れた所では子供たちが遊ぶ姿が見えた。
猫や虹丸ではないが、きっと今頃は彼らも同じように長屋の傍で遊んでいるのだろう。
そう考えて、自然と彩は笑顔になった。
横に並んだ伊織がその顔を見て、ほっとしたように息をつく。
「何?」
「いや。……彩が実際につなぎを見てどう思うか、本当は少し心配だった。だから、笑ってくれて安心してる」
「もちろん、びっくりしたよ! ……あんなことできる伊織はすごいと思うし、あんな風に人の役に立てて羨ましいって思った」
「俺がすごい訳じゃないよ」
伊織は、すぐ傍らに置いていた刀に左手を添え、一方で右手を軽く持ち上げた。
その右手首には、深い緑色をした数珠が巻かれている。
「時を斬ることのできる刀と、時の流れに抗うことのできる数珠。師匠から引き継いだこの二つのどちらが欠けても、俺にはつなぎができない。すごいとしたら、俺じゃなくってこっちだ」
「そんなことないよ」
「……ま、それはともかく、つなぎっていうのはあんな感じだ。これまでは過去につないだことしかないが、未来につなぐっていうのも基本は同じはずだ。未来への強い思い、その想いをのせる憑代、そして対価があれば、きっと時はつなげられると思う」
「……うん」
「何か新たに思い出したことがあるのか?」
「…………」
彩は迷った末に、この間見た母親の夢、そして先程のつなぎの最中に感じた懐かしい声について話した。
「私……親とうまくいってなかったのかもしれない。もう一つの声はよく分からないんだけど……友達、とかなのかな」
友達という言葉を口にした瞬間、微かに胸の奥が痛み、彩は驚いた。
「……違うのかな」
「もしかしたら、元の世界で何か辛いことがあったのかもな。人間誰だって、いい思い出ばかりじゃない。……だとしても、彩が元居た場所に帰る理由は必ずあるはずだ。彩の帰りを待ってる人が、きっといる」
「伊織……」
「ただ、焦って思い出す必要はない。彩が寂しくないなら、しばらくこっちにいればいいんだ。だからしっかり思い出せ。それが俺の、つなぎの力になるから」
伊織の言葉は、ぶっきらぼうな口調とは裏腹に優しさに満ちていて。
彩は思わず泣きそうになる自分を、笑いでごまかした。
「寂しくはないよ、皆優しいもん。この時代に来てたった数日だけどね……何か、いいなって思ってる」
「そうか? 俺にはよく分からないが」
「うん。……私のいた時代は、ここよりずっと色んなものがあって便利。……でもその代わり皆余裕が無くって、大人も子供もいつも忙しそうにしてる。そうしないと生きて行けないし。伊織の長屋の人たちみたいなご近所づきあいとかもほとんど無くなっちゃってるしね。ここと比べると、あんまり優しい世界じゃないかな」
「そっちはそっちで大変そうなんだな」
「そうだね」
そこで少し会話が途切れた。
遊んでいる子供達の声が、一層よく聞こえる。
「……ね、伊織は私の、未来の世界のこと、全然聞かないんだね」
伊織は自分の話を信じてくれているが、ならば普通は気になるのではないだろうか。
記憶の欠落はあっても、未来について全て忘れている訳ではない。
それでも伊織は、これまで未来について何も尋ねてこなかった。
「そうだな……まあ、二百年後なら猫はいるかもしれんが、俺は間違いなく存在してないんだ。自分がいない世界の話を聞いても仕方ないだろう」
「それはそうだけど」
「……それに、未来につなぎ屋みたいのはいないって、彩、前に言ってたろ? 俺はそれが分かっただけでいいよ」
「?」
「つなぎ屋なんて存在しない方がいい。過去は過去。過ぎ去ったものを取り戻したり変えたりなんて、本来できないはずなんだ。だからこそ、人は後悔もするし、逆に思い出を糧にして前に進んでいく。過去はそのためのものだ。……俺はそう思ってる」
「…………」
「などと言っときながら、実際には自分で不要だと思ってるはずの商売で食ってる訳だから、相当恰好悪いよな」
「じゃあ、伊織はどうしてつなぎ屋さんになったの?」
そんなにいやだったら別の仕事を選んだらいい。
伊織だったら、きっと何でもできそうだ。
いや、そもそもあの幻は、何故伊織を弟子に選んだのだろう。
彩が単純に思って何気な口にした言葉に、伊織が息を呑んだのが分かった。
「あ、ごめんなさい、立ち入ったこと聞いちゃって」
「いや、隠すことでもない。……俺、親父に売られたんだ」
「……!」
「俺、両親のことは全然覚えてないけど。お袋はすごく優しい人だったらしいんだけど、親父がろくでもない男でさ。俺が赤ん坊の頃にお袋が病気で死んじゃってからは、俺をほったらかして毎日飲んだくれてたんだと。当然すぐに金も尽きるよな。師匠とは当時同じ長屋にいて、お袋がもともと仲が良かったらしくて。だから、あの人がそれなりに稼ぎがあるのも知ってたんだろう。ある日、俺を買ってくれって言ったそうだ。売り飛ばそうが下働きとしてこき使おうが自由だからってな」
淡々と語る伊織の横顔には、何の表情も窺えなかった。
「どう考えたんだかは知らないが、師匠はその申し出を呑んだ。金を手に入れた親父はそれっきりだ。とっくにどこかで野垂れ死んでるだろう。そして、師匠は結局、俺を売り飛ばすこともせず、育ててくれた訳だ。……師匠は俺がつなぎ屋になる必要はないって言ってたけど、俺が望んだ。だから、俺にこれ以外の生きる道なんてないんだよ」
「伊織……」
「俺のことばかり話し過ぎたな。悪い、彩だってそれどころじゃないのに」
「ううん。伊織のこと、聞けてよかったよ」
風が少し強くなった。
そろそろ帰ろうか、という伊織の言葉に彩も頷き、歩き始める。
すると先を歩く伊織が、突然立ち止まって慌てたように振り向いた。
「あ、でもな、彩。彩が未来に戻ると決めた時には、俺はどんな手を使っても必ずお前を元の時代に返してやる。それはつなぎ屋として引き受けたことだから、責任を持つ。俺が自分の仕事が好きかどうかっていうのとは全然別の問題だから、安心しろ」
「大丈夫、疑ってなんて無いよ」
「随分愚痴を言ってしまったからな……猫には黙っててもらえると有難い」
「うん、言わないよ」
安心した様子の伊織に、彩は切なさを感じながらも笑った。




