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第十七話 桜の下

 柔らかな日差しの中、坂田老人の住む長屋へ。

 辿り着いた彼らを、坂田老は丁寧に頭を下げて迎え入れた。


「ご足労をおかけしました、ありがとうございます。どうぞおあがりください」


 二間続きの奥の部屋。

 布団の上に正座した坂田老の妻の姿が見える。

 彼らのような二人をこそ、似た者夫婦というのだろうか。

 夫によく似た穏やかな笑顔で、妻もやはり深く伊織達に頭を下げた。


「お待ちしておりました。この人が無理をお願いしたようで、申し訳ありません」

「俺は正当な仕事としてお引き受けしました。あなたやご主人が気にされることはなにもありませんよ」


 そう言って笑顔を見せる伊織を、彩は横からそっと見つめた。

 伊織から先程感じた、寂しげな感じが消えている。

 そのことに気づき安堵した。


「早速ですが、始めさせてよろしいでしょうか」

「もちろんです。どうぞよろしくお願いいたします」


 坂田老の答えに頷くと、伊織は猫をちらりと見た。

 万事心得ている猫が彩の袖を引き、少し下がって共に座るように促す。

 彩はもちろん、その流れに従うしかない。


「憑代は手にされていますか?」

「はい、ここに」


 妻の両手の中には、昨夜坂田老が見せてくれた手鏡が大事そうに収まっている。

 その姿に再度頷くと、伊織はその場に立ったまま、腰の刀をゆっくりと抜いた。

 そして、鈍く光る刀身を目線の高さに水平に掲げ、しばし動きを止める。


 それは、実際には数秒もしくは数十秒程のことだったのかもしれない。

 しかし彩は、長屋の外の喧騒が全て消えたかのような張り詰めた静寂に耳が痛くなった。

 すぐ目の前にいるはずの伊織の背中が、何故かひどく遠く感じられる。


 そんな彩の手に、猫は自分の手を添えた。

 我に返って猫を見れば、こちらを向いて口元で笑ってみせ、そのまま促すようにその視線を伊織に向ける。

 つられて彩も伊織に視線を戻した、その瞬間。


 伊織が刀を真っ直ぐに横に振った。


「……!!」


 -空間が斬られた-


 彩にはその表現しか浮かばなかった。


 何も無い空間を薙いだはずの刀。

 その軌跡に一本の筋が通り、そしてそこから一気に見知らぬ景色が溢れてきた。




 視界を埋め尽くすのは、満開の桜。

 聞こえるのは、すぐ横を流れる川のせせらぎ。

 ここちよい風が頬を撫で、あちらこちらに桜花が舞う。


「ああ、この桜です……忘れもしない」

「そうだね……あの時の桜だ」


 坂田老に支えられ、妻がよろめきながらもゆっくりと立ち上がった。

 そして二人が見つめる先に根付いた、ひと際大きな桜の木。

 その下に、若い男女の姿がある。


 -あれは……じゃあ、昔の坂田さん?-


 そう思い老夫婦がいた場所に目を向け、そして彩は言葉を失った。

 二人の姿が、その場に溶ける様に消えていく。


「彩、心配いらぬ」


 気付けば、横に立つ猫がしっかりと彩の手を握っていた。


「これがつなぎ屋の仕事だ」


 伊織は変わらずこちらに背を向けたまま、そう呟いた。

 既に刀は鞘に納められているが、その視線は大樹の下の若い男女に向けられたまま。


「最後まで見届ける。つなぎ屋は立会人でもあるからな」


 二人の声が聞こえてくる。


「あの時は、照れくさくてなかなか言えなかったな」

「ふふ、私はずっと待ってたんですからね」

「この手鏡を渡す機会をずっと窺っていた。……ありがとう、ずっと一緒にいてくれて。これから先も、ずっと一緒だ」

「こちらこそ、ありがとうございます。あなたと一緒にいられて、本当に幸せでした」


 姿は若い二人だが、その中身-意識は、今の老夫婦のもののようだった。


 きっともう二度と見られない桜の木の下で。

 自分の足できちんと立ち上がることが出来る体で。

 二人は手を取り合い、見つめ合い、幸せそうに笑っていた。



 それを見ていた彩の頭に、ふと懐かしい声が響く。


 -ここ、桜きれいだね-

 -本当。ね、来年も一緒に見に来ようよ-

 -そうだね、約束!-


「……っ!」

「彩、大丈夫か」

「……うん、何でもない。ごめん」


 懐かしい、と思ったのは何故なのか。

 語り合ったその相手が誰かすら分からないのに。

 ただ、彩の心には、泣きたくなるような感情だけが残った。



 しばらくして、ふわりと風向きが変わった。

 空を見上げた伊織が、視線を二人に戻して言った。


「そろそろ時間です。……思い残すことはありませんか」

「ええ、ええ。もう十分でございます」


 先程の伊織の視線が気になり、彩も同じように空を見上げる。


「……え」

「彩は上を見てはならぬ。妖に引き寄せられるぞ」


 手を強く引かれ、すぐに顔をそむけたものの。

 見上げた空には、伊織が初めにつけた刀の軌跡のような切れ目があった。

 だが、その奥は真っ暗で、その中に光る点のようなものがいくつも瞬いていた。

 あれが妖だというのならば、光るものは目だ。

 こちらの隙を窺う、無数の妖の目。


「戻る道は伊織が開く。迷うでないぞ」

「う、うん」


 伊織は、再度刀を構え、そして斬った。


 先程と同様に別の空間が辺りに広がり、気付けばそこは元からいた坂田夫妻の住まいに他ならなかった。

 坂田老はまず、支えていた妻を布団に座らせた。

 そして自分もその横に坐し、夫婦そろって深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました。あのような少ない対価で、これ程の夢を叶えていただけるとは……つなぎ屋様には感謝しきれません」


 伊織は、小さく笑って首を横に振った。


「俺の力ではありません。俺は時をつなぐだけ。どれだけの思いを叶えられるかはあなた達次第ですよ。……大事な手鏡を、懸けられたのでしょう」


 そう言われて妻が自分の手の中を見ると、持っていたはずの手鏡が消えていた。

 夫妻は顔を見合わせて、そして同じように笑った。


「いえ、いいんです。それ以上の思いを伝えあうことができましたから」

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