第十二話 幻
目的の店を目の前にして、伊織は大きくため息をついた。
伊織の師匠である幻は大通りに面した店を持ち、普段はそこで三味線を教えている。
大通りに店を持つためには、相当に資金が必要である。
もちろん三味線講義だけでやっていけるはずもなく、本業のつなぎ屋で稼いだ分をがっつりとため込んでいるのだ。
ちなみに、伊織を後継にして表向き引退してはいるが、金づるのお偉いさんからの依頼は今でも度々引き受けているらしい。
そんなことをするから、いつまでたっても自分に大きな仕事が回ってこないのだ、と伊織は常々思っているのだが。
「とうとう辿り着いてしまったな……永遠に着けなければよかったのに」
「うだうだ言わずに、さっさと入らぬか」
「……分かってるよ」
意を決して大きな戸を開けると、複数の三味線の音が一斉に聞こえてきた。
何人もの女性が輪になるように並んでいる。
この時間に講義するのが幻でないことは知っていた。
教えているのは、女性達に囲まれるようにして、中心で優雅に三味線を弾いていた男性。
彼は、伊織に気付くとその手を止めて、穏やかな笑みを浮かべた。
「やあ、伊織。久しぶり」
「こんちは。相変わらずの人気ぶりだな、苦楽」
苦楽、と伊織に呼ばれた男性は、彩から見ても確かにイケメンだった。
もしも現代にいたら、芸能人になっていても全く不思議ではない。
「猫も元気そうだね。そちらのお嬢さんは?」
「依頼人の彩だ。今日はこの件で師匠に相談に来た」
「なるほど。幻様はいつも通り二階だよ。あとでお茶を持っていこう」
「あ、気にしないでいい。苦楽は、早く皆さんのお相手に戻ってくれ」
これ以上苦楽を独占して、あの女性達の恨みがましい視線を浴び続けるのは御免である。
猫と彩を促して、伊織は上階へと続く階段を昇った。
そして、襖の閉まった奥の一室の手前で足を止める。
「猫、彩を」
「うむ。彩、こちらへ」
猫が彩の着物の袖を引っ張り、襖から少し離れた所まで下がらせる。
「……?」
「まあ、見ておれ」
それを横目で見届けた伊織は、大きく深呼吸すると襖の向こうに声を掛けた。
「師匠、伊織です。入りますよ」
中から返す声は無い。
一旦待って、そして返事を待たずに勢いよく襖を開けた。
と同時に、中から何かが飛んでくる。
伊織は驚きもせず、右手でそれを受け止めた。
「……!」
目を丸くする彩。
よく見れば、綺麗な模様のボールのような球体だ。
それが更にもう一つ。
今度は左手で受け止める伊織。
そして溜息をつく。
「師匠、もういい加減、にっ……!!」
両手が塞がる伊織の顔に、三つ目のボールが直撃した。
はずみで両手から転がった二つと共に、猫と彩の目の前に転がってくる。
手で顔を覆って蹲る伊織。
「何でボールが……」
「彩、これは鞠というのじゃ。そして前回は二個であったのだがな」
「んなことはどうでもいい!……師匠、いい加減に俺で遊ぶのはやめろ!」
鼻を赤くして室内に怒鳴る伊織。
それに対して、中から笑い声が返った。
彩はその声に再度目を丸くする。
予想に反し、若い女性の声がしたからだ。
「まだまだ修行が足らんぞ、伊織。お前では遊び相手にもならぬ」
「だったらやるなよ、阿保師匠」
「はて、相談があると聞こえたが。人にものを頼む態度とは到底思えんな」
「……土産はありますよ」
「ならばよし。話は聞こう。奥の娘子も猫も入っておいで」




