5話 命の灯をともす
トマが元気に走り回るようになったころ、わたしは、村のあちこちに目を向けるようになった。
前世の診療所で身につけた「人を見る目」で、この村の暮らしを見直してみたのだ。
夜の村は、驚くほど暗い。月のない夜には、自分の手さえ見えなくなる。その暗闇の中で、魚の油の灯りだけが、家々の窓にぽつりぽつりと揺れていた。
まず、夜が遅い。
村の女たちは、夜になると魚の油の灯りの下で、遅くまでかごを編む。公爵家の使いに売るためのかごだ。朝は暗いうちから起きて、川へ水をくみに行く。眠る時間は、どう見ても足りていなかった。
食べるものは、薄い麦の粥と、硬い黒パン。たまに豆。
老人たちは、冬のあいだ家から出ず、一日じゅう誰とも話さずに暖炉の前に座っている。
そして水は、あいかわらず井戸からそのまま飲んでいた。
「ルカ。この村の人たちの寿命が短いのは、寿命を売っているからだけじゃない気がする」
≪同感です。睡眠不足、栄養の偏り、運動量の偏り、孤立、衛生環境。どれも健康寿命を縮める要因です≫
「健康寿命……」
わたしは寝台の上で膝を抱えた。
(命の長さと、元気でいられる長さは、同じじゃない。前の世界の診療所で、何度もそれを見てきた)
◇ ◇ ◇
次の日から、わたしは小さなことを始めた。
まず、飲み水は必ず沸かすこと。トマの一件を見ていた人たちは、文句を言いながらも、少しずつ従った。
それから、かごを編むのは、日が沈んで二刻までにすること。
「眠りはね、明日のあなたをつくる時間なんです。眠っているあいだに、体は傷を直して、疲れを片づけて、病気と戦う力をためるの」
井戸ばたの女たちは、顔を見合わせて笑った。
「眠ってたら、かごが編めないじゃないか」
「十九の子は、のんきなもんだね」
わたしは笑われても、やめなかった。
村の誰もが冬に食べる、酸っぱいキャベツの漬物を、冬だけでなく毎日少しずつ食べるように勧めた。ヤギの乳を壺に入れて寝かせた、すっぱい発酵乳も。
「お腹の中には、あなたを守る小さな仲間が住んでいるんです。その仲間に、ごはんをあげるの」
「腹の中に、虫がいるってのかい」
「虫じゃなくて、仲間です」
それから、朝の水くみを、一人ずつではなく、皆でいっしょに歩いて行くことにした。老人たちにも、杖をついて土手まで歩いてもらった。椅子から立ったり座ったりを、十回くり返す練習も教えた。
「歩くことは、命を体じゅうに運ぶことなんです。体の中には、小さなかまどがたくさんあって、歩くと火が強くなるの」
最初についてきたのは、子どもたちだった。
トマが先頭に立って、「命を運ぶぞー」と歌いながら土手を走る。それにつられて、ほかの子どもも、その母親も、いつのまにか列に加わった。
◇ ◇ ◇
夕方には、広場で小さな焚き火をした。
仕事を終えた人たちが、そこに集まって、ただ話をする。わたしはそれを「おしゃべりの火」と呼んだ。
「ひとりで食べない、ひとりで泣かない。それだけで、人はずっと長く元気でいられるんです」
最初の夜、焚き火のまわりに座ったのは、わたしとトマと、トマの母親だけだった。
二日目には、マルタが黙ってやってきて、火のそばに腰を下ろした。
三日目には、村長のヨハンが、子どもたちを連れて来た。
四日目には、冬じゅう誰とも口をきいていなかったという老人が、昔の洪水の話をして、皆を笑わせた。
火の粉が、紺色の空へ舞い上がっていく。
煙のにおいと、誰かの笑い声。
わたしは膝を抱えて、その光景を見つめていた。
(前の世界では、こんなふうに誰かと火を囲んだことは、一度もなかった)
◇ ◇ ◇
その夜、小屋に戻ったわたしは、スマホのメモを開いた。
左手の甲を、画面の明かりに照らす。
「残り0年345日」
わたしはその数字を、日付といっしょに打ち込んだ。
それから、その日にしたこと、会った人、眠った時間、食べたもの。前世で、患者の記録をつけていたときと同じように。
≪エリアさん、それは何の記録ですか≫
「寿命日誌。毎日、わたしの数字を記録しておくの。何が起きても、あとで確かめられるように」
≪記録は、医療の基本ですね≫
「うん。それに……」
わたしは、手の甲の数字を指でなぞった。
祖父の声が、耳の奥でよみがえる。本当に大事なことは、静かな、小さな声で聞こえてくる。
「この数字が、本当に変わらないのか、知りたいの」
窓の外では、川が静かに流れていた。
その音は、もう、あの夜の濁流とは違って聞こえた。
あなたの毎日が、素敵な出来事で満たされますように。
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