4話 熱の子トマ
洪水から十日目の朝。空は高く晴れていたが、村のあちこちに残った水たまりが強い日差しに温められて、なまぐさいにおいを立てていた。
その朝、トマの母親が、わたしの小屋の戸を叩いた。
トマが、夜中から何度も吐いて、ひどい下痢をしているという。
トマの家の土間に入ると、すっぱいにおいがこもっていた。
トマは藁の寝床に横たわり、浅く速い息をしていた。額に手を当てると、火のように熱い。唇は乾いてひび割れ、目が落ちくぼんでいる。
腕の皮膚をそっとつまんでみると、なかなか元に戻らなかった。
「脱水が進んでる」
わたしがつぶやくと、トマの母親が不安そうに顔をのぞき込んだ。
けれど、戸口に集まってきた近所の人たちは、意外なほど落ち着いていた。
「心配いらんよ。トマの数字は、まだ四十年以上残ってる」
「神さまが決めたことだ。数字が残ってるうちは、人は死なん」
わたしは、トマの左手の甲を見た。たしかに「残り41年」と光っている。
(違う。数字が残っていても、この体の持ち主は死にかけていた)
(数字は、熱も、乾いていく体も、止めてはくれない)
「ルカ、聞こえてた? 発熱、嘔吐、下痢。脱水も進んでる」
≪洪水で井戸が汚染されている可能性が高いです。まず、水分と塩分の補給を。煮沸した水を使ってください。塩と、糖分。甘いものはありますか≫
わたしは顔を上げた。
「蜂蜜、どこかにありませんか」
戸口の人たちが顔を見合わせた。
そのとき、人垣の後ろから、しわがれた声がした。
「あるよ」
腰の曲がった老婆が、杖をついて立っていた。村の産婆のマルタだ。この村で生まれた子どもは、ほとんど皆、マルタの手で取り上げられている。
マルタは懐から小さな壺を取り出し、わたしの手に押しつけた。
その目は鋭く、何かを確かめるようにわたしを見ていた。
◇ ◇ ◇
わたしは井戸の水を鍋にくみ、かまどでぐらぐらと煮立たせた。
冷ましたお湯に、ルカが教える割合で塩と蜂蜜を溶かす。それを木のさじで、ほんの少しずつ、トマの口に含ませた。
≪一度にたくさん飲ませると、また吐いてしまいます。少しずつ、何度も。経口補水液は、そうやって飲ませるものです≫
ルカの声にうなずきながら、わたしはさじを運び続けた。
トマの母親にもやり方を教え、二人で交代した。
日が沈み、かまどの火が小さくなる。
わたしは耳の後ろのヘッドセットに意識を向けたまま、トマの手首に指を当てて脈を数えた。速くて、弱い。
(まだだめ。もう少し。もう少しだけ)
夜が更けても、マルタは土間の隅に座ったまま、帰らなかった。何も言わず、ただわたしの手もとを見ていた。
明け方、トマの寝息の音が変わった。
浅く速かった息が、ゆっくりと深くなっていく。額に触れると、熱が少し引いていた。
トマが、うっすらと目を開けた。
「……エリアねえちゃん。のど、かわいた」
「うん。いっぱい飲もうね。ゆっくりね」
トマの母親が、声を上げて泣き出した。
わたしの肩から、力が抜けた。
窓の隙間から差し込む朝の光が、土間の上に白い線を引いていた。前世の、あの夜明けと同じ光だった。
◇ ◇ ◇
小屋を出ようとしたとき、マルタが杖で、わたしの行く手をふさいだ。
「あんた、本当にエリアかい」
わたしは、言葉に詰まった。
マルタは、生まれたばかりのこの体を取り上げた人だ。ごまかせる相手ではなかった。
「……わかりません。でも、この子を助けたかった。それだけは、本当です」
マルタはしばらく、何も言わずにわたしの目を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らして杖を下ろした。
「水を沸かすってのは、どこで覚えたんだい」
「遠いところで」
「そうかい」
マルタはそれだけ言うと、ゆっくりと背を向けて歩き出した。
その背中は、なぜか少しだけ、笑っているように見えた。




