3話 十九の子
リーフェ村は、川の曲がり目にしがみつくようにして建つ、三十軒ほどの小さな村だった。
わらぶきの家々は低く、壁の土はところどころ崩れている。家と家のあいだには、洪水が運んできた泥と流木がまだ残っていて、湿った土と家畜のにおいがした。
村人たちは川から戻ったわたしを、遠巻きに眺めた。おかえり、と言う人はほとんどいない。その目には、哀れみと、それから少しの距離があった。
「十九の子が、また命拾いしたってさ」
井戸ばたで、女たちがひそひそと話すのが聞こえた。
わたしは聞こえないふりをして、母の残した小屋の戸を開けた。
土間にかまどが一つ、板の寝台が一つ。棚には、乾いた豆の袋と、使いかけの塩の壺。
体の記憶が、どこに何があるのかを教えてくれる。この体は、この暮らしを知っていた。
(知らないのは、わたしの心のほうだ)
◇ ◇ ◇
それから数日のあいだに、わたしはこの世界の仕組みを少しずつ知った。
人は生まれると、神殿の「命名の儀」で、左手の甲に寿命の数字を刻まれる。
数字は神が定めた運命で、決して変わらない。変えられるのは、売るときだけだ。
村の誰もが、そう信じていた。
「売るって、どうやって?」
夜、わたしは小屋の寝台に腰かけて、髪の下のヘッドセットに小声で話しかけた。ルカの声はわたしにしか聞こえないから、外から見れば、ひとりごとを言っているようにしか見えないはずだ。スマホは、エプロンの胸ポケットに入れている。ポケットの縁から、小さなレンズの先だけがのぞいていて、ルカはそこから、わたしと同じものを見て、同じ音を聞いている。だから、わたしが見聞きしたことは、たいていルカも知っていた。
≪データが不足しています。ただ、昼間に聞こえた村の人たちの会話から推測すると、この世界では寿命が通貨のように扱われているようです≫
「通貨……」
わたしは自分の手の甲を見た。
数字は、目覚めた日から毎日、一日ずつ減っていた。
「残り0年358日」
◇ ◇ ◇
その答えは、七日目の朝にやってきた。川霧がうすく村を包み、鶏の声だけが、やけに大きく響く朝だった。
村の入口に、一台の黒い馬車が止まった。
扉には、黒い砂時計に蛇が巻きついた紋章が描かれている。降りてきたのは、上等な外套を着た痩せた男と、白い衣の神官だった。
「ノクス公爵家の使いだ」
村長のヨハンが、帽子を取って頭を下げた。
村人たちが、何かに引き寄せられるように広場へ集まってくる。
神官が、透きとおった水晶の板を台の上に置いた。使いの男は帳面を開いて、退屈そうに言った。
「いつもどおりだ。売れるのは一人につき一年に一回、最大で一年まで。一年につき、銀貨三枚」
銀貨三枚。
それがこの村で、ひと冬分のパンと薪の値段だということを、体の記憶は知っていた。
最初に進み出たのは、ヨハンだった。
四十を少し過ぎたばかりのはずなのに、背中が曲がり、髪の半分が白い。
彼が水晶の板に左手を置くと、使いの男が、その手に自分の手を重ねた。そして、帳面から目も上げずに、まるで天気の話でもするように言った。
「あなたの寿命を、私にください」
ヨハンは、少しのあいだ目を閉じた。それから、かすれた声で答えた。
「……一年を、差し上げます」
神官が短い祈りの言葉を唱えた。手の甲の数字が、淡く光って揺れる。
「残り3年」が、「残り2年」になった。
使いの男は、ヨハンの手を見もせずに、銀貨を三枚、台の上に転がした。
「……次」
あとでトマが教えてくれた。それは寿命院の取引で、買い手が必ず口にする決まり文句なのだという。買い手が「あなたの寿命を、私にください」と願い、売り手が「差し上げます」と答える。その二つの言葉がそろったときだけ、神官の祈りで数字が移るのだ。
命を差し出してもらうための、本当なら、とても重い言葉。
それを、あの男は、パンの値段を読み上げるような声で言った。
わたしは、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
ヨハンの家には、小さな子どもが三人いる。彼はもう何年も、こうして一年ずつ命を手放してきたのだ。
(一年に、一年。だから、この村の大人たちは、三十代で数字を使い切ってしまうんだ)
誰も、それをおかしいとは言わなかった。
売れる一年があるだけ、まだましなのだと、皆が思っていた。
列が進んでいく。
使いの男の目が、列の外に立つわたしに止まった。男はわたしの手の甲をちらりと見て、鼻で笑った。
「十九の子の一年など、誰も買わん」
笑い声が、少しだけ起きた。
わたしは唇をかんで、うつむかなかった。そのかわりに、馬車のほうへ目をそらした。
そこに、一人の騎士がいた。
黒い鎧に、黒い兜。顔はまったく見えない。
最初からずっとそこにいたはずなのに、誰も彼のほうを見ようとしなかった。騎士は身じろぎもせず、ただ広場を見下ろしている。
そのとき、わたしは気づいた。
騎士の足もとの草だけが、茶色く枯れていた。
背中に、冷たいものが走った。
「ルカ」
小さく呼ぶと、耳の奥で声がした。
≪見えています。説明できるデータはありません。ただ、あの騎士の周囲だけ、植物が急速に枯れています≫
黒い馬車が去ったあと、広場には銀貨の小さな音と、乾いた沈黙だけが残った。
その夜、わたしは眠れなかった。
手の甲の数字が、暗闇の中でぼんやりと光っていた。




