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あなたの寿命を、私にください ――世界でたった一人、私だけが彼の死を知っている  作者: Hamin
第1章 数字の刻まれた村

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2話 川辺の目覚め

最初に戻ってきたのは、においだった。

湿った土と、ちぎれた草と、どこか遠くで焚かれている薪の煙のにおい。

次に、音。川の流れる音が聞こえる。

けれどそれは、あの夜の濁流のうなり声ではなく、石の上を転がるような、穏やかな水音だった。


わたしはゆっくりと目を開けた。

空が青かった。雲がちぎれながら、驚くほどの速さで流れていく。体の下には、泥にまみれた草の感触がある。


(生きてる……?)


そう思ったのは、ずっとあとだった。

起き上がろうとして、わたしは自分の腕を見て息をのんだ。

細い。日に焼けて、小さな傷がいくつもある、知らない少女の腕だった。

肩から胸へ垂れているのは、短い黒髪ではなく、栗色の長い髪だ。泥にまみれた粗末な麻の服。足は裸足だった。


そして、左手の甲に、それはあった。

皮膚の下から淡く光る、細い文字。読めないはずの文字なのに、なぜか意味がわかった。


「残り1年0日」


数字を見つめた瞬間、頭の中に、知らないはずの記憶が流れ込んできた。

川沿いの小さな村。わらぶきの屋根。

この体の持ち主の名前は、エリア。生まれたときに神殿で刻まれた寿命は、十九年だった。だから村では「十九の子」と呼ばれていた。

母のハンナは、いつも笑っている人だった。毎年、秋の終わりになると、「町の市場にかごを売りに行ってくるよ」と言って、一人で隣町まで歩いていった。そして必ず、パンと薬を抱えて帰ってきた。


その「市場」が、隣町の寿命院だったことを、エリアも、村の誰も知らなかった。

知ったのは二年前の冬。冷たくなった母の左手の甲に、「残り0年0日」の文字を見たときだった。

母は、娘のパンと薬のために、毎年一年ずつ、自分の寿命を売っていたのだ。

それから、祖父の声がした。


白いひげの、背中の曲がった老人。若いころ神殿で古い書物を書き写す仕事をしていたという祖父は、幼いわたしを膝に乗せて、何度も同じ話をしてくれた。


「エリア、おまえの名前はな、昔の預言者からもらったんだ。その人が山の上で神さまを待っていると、大風が吹いて山を裂いた。けれど神さまは、大風の中にはいなかった」


祖父は、指を一本ずつ折っていく。


「次に地震が来た。神さまは地震の中にもいなかった。次に火が来た。神さまは火の中にもいなかった。そのあとにな、静かな、小さな声がしたんだよ」


しわだらけの指が、エリアの胸をとんとんと叩いた。


「だから、本当に大事なことは、静かな小さな声で聞こえてくる。忘れるなよ」


わたしは胸に手を当てた。


(この話……知ってる)


前世の診療所の待合室の本棚に、誰かが置いていった古い聖書があった。患者のいない昼休みに、何気なく開いたページ。旧約聖書の、預言者エリヤの物語だった。


(どうして、この世界に同じ言葉があるの……?)


記憶の最後に残っていたのは、昨夜のことだった。

熱にうかされた少女は、増水した川へ水をくみに出て、足をすべらせた。濁った水の中で、少女は祈っていた。

もう自分は長く生きられない。だから、この体でもいい。誰かを助けられる人に、生きてほしい、と。


「……あなたの体、なの?」


わたしは自分の胸に向かって、小さくつぶやいた。

答える声はない。ただ、川の音だけが続いていた。


(手の甲の数字は、まだ残っていた。それなのに、この子は死にかけていた)


そのことが、胸の奥に小さな棘のように引っかかった。


◇ ◇ ◇


肩に重みを感じて、わたしはようやく気づいた。

防水の医療バッグが、ベルトをたすきがけにしたまま、体にしがみつくように残っていた。

震える手でファスナーを開ける。救急キット。体温計。懐中電灯。非常用ハンマー。そして、スマホ。

知らない人が見れば、ただの黒い板にしか見えないだろう。背面には、スマホと同じ大きさの、手のひらほどの薄い太陽電池パネルが貼ってある。ふだんなら部屋の明かりでも少しずつ充電できるのに、画面は真っ暗だった。


わたしは黒い板を裏返し、パネルを空に向けて、祈るような気持ちで日の光に当てた。しばらくして、画面に小さな充電のマークが灯った。

耳の後ろに指をやると、小さな硬いものが、まだ髪の中に引っかかっていた。骨伝導ヘッドセット。あの濁流の中でも、外れずに残っていたのだ。電源ボタンを長く押す。


≪……起動しました。声紋を確認しています。……一致しました。ただ、声が少し若くなっています≫


聞き慣れた声だった。わたしは思わず、両手で耳をおさえた。


「ルカ」


≪はい。現在位置を確認しています。……GPS信号なし。基地局なし。衛星も見つかりません。ここは、私のデータにない場所です≫


笑おうとして、うまく笑えなかった。目の奥が熱くなる。

知らない体、知らない世界。それでもこの声だけは、あの夜の続きにあった。


(前の世界のわたしは、あの濁流の中で一度死んだんだ)


左手の甲の数字を、そっと指でなぞる。


(この子は、自分の体を、誰かを助けられる人に託してくれた。だったらわたしは、この子として生きよう)


「ルカ。お願いがあるの。これからは、わたしのことを『エリア』って呼んで」


≪……理由を、うかがってもいいですか≫


「この体の持ち主の名前。わたしは、この子の命を借りて生きるから」


少しの沈黙のあと、耳の奥の声は、いつもより少しだけやわらかく答えた。


≪了解しました。はじめまして、エリアさん≫


「エリアねえちゃん!」


土手の上から、甲高い声がした。

やせた男の子が一人、こちらを見下ろして目を丸くしている。八歳くらいだろうか。記憶の中に、その顔があった。隣の家のトマだ。


「生きてた! みんな、エリアねえちゃんが生きてるよ!」


トマは村のほうへ駆け出していった。

その小さな背中を見送りながら、わたしは、ゆっくりと泥の中から立ち上がった。

足の裏に、冷たい川の石の感触があった。

見上げると、土手の向こうに、わらぶきの屋根がいくつか並び、細い煙がまっすぐ空へのぼっていた。遠くの丘では、見たことのない形の風車が、ゆっくりと回っている。


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