1話 濁流の夜
雨は夕方から、空の底が抜けたように降り続いていた。
アスファルトを叩く雨のにおいが、閉めきった待合室の中にまでしみこんでくる。
小さな診療所の窓を打つ音は、いつのまにか、打つというより流れ落ちる音に変わっている。
わたし、水瀬灯は、受付のカウンターで最後のカルテを閉じ、壁の時計を見上げた。午後七時を少し過ぎていた。
待合室のテレビは、市内の各地区に出された避難指示を、同じ調子で読み上げ続けている。
「水瀬さん、今日はもう上がって。道が通れなくなる前に」
奥から顔を出したのは、院長の佐伯先生だった。六十を過ぎた白髪まじりの医師で、この町で三十年、患者を診てきた人だ。
わたしは首を振った。
「先生こそ。わたしはまだ片づけが残ってますから」
本当は、片づけなどほとんど残っていなかった。
帰っても、待っている人はいない。わたしの部屋にあるのは、冷蔵庫の低いうなりと、充電器の小さな緑色のランプだけだ。
子どものころから、家というのはそういう場所だった。
母はわたしが八歳のときに出ていき、父は酒を飲むと物を投げた。親戚の家を転々として、高校を出てからは、アルバイトをしながら看護学校に通った。そして、この小さな診療所にたどり着くまで、わたしはずっと一人で生きてきた。
誰かに抱きしめられた記憶は、思い出そうとしても見つからない。
だからわたしは、人の役に立つことでしか、自分がここにいていい理由を見つけられなかった。
「ありがとう」と言われるたびに、ほんの少しだけ、自分の輪郭がはっきりする気がした。
そのとき、天井の明かりが消えた。
テレビの声がぷつりと途切れ、雨の音だけが急に大きくなる。数秒おいて、非常灯がぼんやりと緑色に点いた。
「停電か」
先生がつぶやいたのと同時に、入口のガラス戸が激しく叩かれた。
ずぶ濡れの若い母親が、毛布にくるんだ男の子を抱えて立っていた。
三歳くらいだろうか。唇の色が悪く、ひゅう、ひゅう、と細い笛のような音を立てて息をしている。
「救急車が、来られないって。道が、川みたいになってて」
母親の声は震えて、ほとんど言葉になっていなかった。
わたしが戸を押さえて二人を中へ入れたときには、もう体が動いていた。
◇ ◇ ◇
「先生、ぜん鳴です。呼吸が速い」
佐伯先生の顔つきが変わった。
停電で、いつもの電動の吸入器は動かない。わたしは懐中電灯を口にくわえて処置室の棚を開け、酸素ボンベと、電気のいらない吸入用の筒を取り出した。
男の子の指先に小さな測定器をはさむと、青白い数字が浮かぶ。低い。
わたしは男の子を母親の膝の上に座らせ、背中をそっと起こした。
濡れた毛布から、雨と泥と、子ども特有の甘い汗のにおいがした。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね。吸って、吐いて。上手、上手」
先生が薬を準備するあいだ、わたしは耳の後ろにそっと指を当てた。髪に隠れて誰からも見えない、指先ほどの小さな骨伝導ヘッドセット。声は耳の穴ではなく骨を伝って届くから、まわりの人には何も聞こえない。
この診療所は、山あいの集落を巡回する「僻地医療支援」の試験に参加していて、わたしには背面に小さな太陽電池パネルを貼った業務用スマホと、医療支援AIが貸し出されていた。
名前は、ルカ。
「ルカ、小児のぜん鳴。停電中。病院の当番医につないで」
≪了解しました、灯さん。回線が混み合っていますが、つなぎ続けます≫
落ち着いた、男とも女ともつかない声が、耳の奥で答えた。
やがてつながった病院の医師の指示を、ルカが一言ずつ正確に読み上げる。
わたしはそれを先生に伝え、時間を計り、数字を読み、男の子の背中をさすり続けた。
外では雷が鳴り、窓の外の道路は、街わたしの消えた黒い川になっていた。
どれくらい時間がたったのか、わからない。
気がつくと、ひゅう、ひゅう、という音が小さくなっていた。
測定器の数字が、少しずつ上がっていく。男の子は母親の胸に顔をうずめ、疲れきったように眠っていた。
午後十時を過ぎたころ、ようやくゴムボートに乗った救助隊がたどり着き、母子を高台の病院へ運ぶことになった。
ボートに乗る前、母親はわたしの手を両手で包んだ。
「ありがとうございました。本当に、ありがとう」
冷えきった手だった。
それなのに、わたしの指先には、その手の温かさがいつまでも残った。
(わたし、いま……誰かに、必要とされたんだ)
生まれて初めて、そう思えた。
◇ ◇ ◇
「水瀬さん、君もぼくと避難所へ。小学校の体育館だ。向こうでも手が足りないはずだから」
先生に言われて、わたしは防水の医療用非常バッグを肩にかけた。
救急キット、体温計、懐中電灯、車の窓でも割れる非常用ハンマー、そしてルカの入った、黒い板のようなスマホ。
小学校までは、坂道を上って十分ほどだ。
雨は少しも弱まっていなかった。
街灯の消えた坂道は真っ暗で、雨粒が顔を打ち、冷たい水が靴の中まで入りこんでくる。どこかで、水に押し上げられたマンホールのふたが、がたがたと鳴っていた。
先生の後ろを歩き、膝まで水につかりながら坂の下の交差点まで来たとき、わたしは足を止めた。
冠水した道路の真ん中で、一台の軽自動車が半分沈みかけていた。
水の中でヘッドライトだけがぼんやりと光り、その光の中で、運転席の窓を内側から叩く手が見えた。
ドアは、水圧で開かないのだ。
考えるより先に、わたしは水の中へ入っていた。先生も、すぐあとに続いた。
流れは思ったよりずっと速く、足もとをすくおうとする。車の屋根にしがみつくと、ガラスの向こうに、若い男の青ざめた顔があった。
「顔を離して! 窓を割ります!」
わたしはバッグからハンマーを取り出し、窓ガラスの角を狙って振り下ろした。
三度目で、ガラスが白く砕け散った。
わたしは男の腕をつかんで引き、男は割れた窓から外へ這い出して、車の屋根へよじ登った。
「つかまって、そこから動かないで!」
そう叫んだ瞬間、足もとの地面が消えた。
水が、わたしの体を横からさらった。伸ばされた先生の指先が、わたしの手をかすった。つかめなかった。
冷たい、という感覚さえ一瞬で遠くなる。泥の味がした。耳の中で、濁流が低くうなっている。
遠くで男が自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、それもすぐに水の音にのみ込まれた。
(あの子は、助かった。あの人も、助かった。それなら、いいか)
(でも――)
(一度でいいから、誰かに愛されてみたかった)
肩にかけたバッグのベルトだけが、最後まで、わたしの体をしっかりとつかんでいた。




