↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたの寿命を、私にください ――世界でたった一人、私だけが彼の死を知っている  作者: Hamin
プロローグ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/36

1話 濁流の夜

挿絵(By みてみん)


雨は夕方から、空の底が抜けたように降り続いていた。

アスファルトを叩く雨のにおいが、閉めきった待合室の中にまでしみこんでくる。

小さな診療所の窓を打つ音は、いつのまにか、打つというより流れ落ちる音に変わっている。

わたし、水瀬(みなせ)灯(あかり)は、受付のカウンターで最後のカルテを閉じ、壁の時計を見上げた。午後七時を少し過ぎていた。

待合室のテレビは、市内の各地区に出された避難指示を、同じ調子で読み上げ続けている。


「水瀬さん、今日はもう上がって。道が通れなくなる前に」


奥から顔を出したのは、院長の佐伯先生だった。六十を過ぎた白髪まじりの医師で、この町で三十年、患者を診てきた人だ。

わたしは首を振った。


「先生こそ。わたしはまだ片づけが残ってますから」


本当は、片づけなどほとんど残っていなかった。

帰っても、待っている人はいない。わたしの部屋にあるのは、冷蔵庫の低いうなりと、充電器の小さな緑色のランプだけだ。

子どものころから、家というのはそういう場所だった。

母はわたしが八歳のときに出ていき、父は酒を飲むと物を投げた。親戚の家を転々として、高校を出てからは、アルバイトをしながら看護学校に通った。そして、この小さな診療所にたどり着くまで、わたしはずっと一人で生きてきた。


誰かに抱きしめられた記憶は、思い出そうとしても見つからない。

だからわたしは、人の役に立つことでしか、自分がここにいていい理由を見つけられなかった。


「ありがとう」と言われるたびに、ほんの少しだけ、自分の輪郭がはっきりする気がした。


そのとき、天井の明かりが消えた。

テレビの声がぷつりと途切れ、雨の音だけが急に大きくなる。数秒おいて、非常灯がぼんやりと緑色に点いた。


「停電か」


先生がつぶやいたのと同時に、入口のガラス戸が激しく叩かれた。

ずぶ濡れの若い母親が、毛布にくるんだ男の子を抱えて立っていた。

三歳くらいだろうか。唇の色が悪く、ひゅう、ひゅう、と細い笛のような音を立てて息をしている。


「救急車が、来られないって。道が、川みたいになってて」


母親の声は震えて、ほとんど言葉になっていなかった。

わたしが戸を押さえて二人を中へ入れたときには、もう体が動いていた。


◇ ◇ ◇


「先生、ぜん鳴です。呼吸が速い」


佐伯先生の顔つきが変わった。

停電で、いつもの電動の吸入器は動かない。わたしは懐中電灯を口にくわえて処置室の棚を開け、酸素ボンベと、電気のいらない吸入用の筒を取り出した。

男の子の指先に小さな測定器をはさむと、青白い数字が浮かぶ。低い。

わたしは男の子を母親の膝の上に座らせ、背中をそっと起こした。


濡れた毛布から、雨と泥と、子ども特有の甘い汗のにおいがした。


「大丈夫だよ。ゆっくりでいいからね。吸って、吐いて。上手、上手」


先生が薬を準備するあいだ、わたしは耳の後ろにそっと指を当てた。髪に隠れて誰からも見えない、指先ほどの小さな骨伝導ヘッドセット。声は耳の穴ではなく骨を伝って届くから、まわりの人には何も聞こえない。

この診療所は、山あいの集落を巡回する「僻地医療支援」の試験に参加していて、わたしには背面に小さな太陽電池パネルを貼った業務用スマホと、医療支援AIが貸し出されていた。

名前は、ルカ。


「ルカ、小児のぜん鳴《めい》。停電中。病院の当番医につないで」


≪了解しました、灯さん。回線が混み合っていますが、つなぎ続けます≫


落ち着いた、男とも女ともつかない声が、耳の奥で答えた。

やがてつながった病院の医師の指示を、ルカが一言ずつ正確に読み上げる。

わたしはそれを先生に伝え、時間を計り、数字を読み、男の子の背中をさすり続けた。

外では雷が鳴り、窓の外の道路は、街わたしの消えた黒い川になっていた。


どれくらい時間がたったのか、わからない。

気がつくと、ひゅう、ひゅう、という音が小さくなっていた。

測定器の数字が、少しずつ上がっていく。男の子は母親の胸に顔をうずめ、疲れきったように眠っていた。

午後十時を過ぎたころ、ようやくゴムボートに乗った救助隊がたどり着き、母子を高台の病院へ運ぶことになった。


ボートに乗る前、母親はわたしの手を両手で包んだ。


「ありがとうございました。本当に、ありがとう」


冷えきった手だった。

それなのに、わたしの指先には、その手の温かさがいつまでも残った。


(わたし、いま……誰かに、必要とされたんだ)


生まれて初めて、そう思えた。


◇ ◇ ◇


「水瀬さん、君もぼくと避難所へ。小学校の体育館だ。向こうでも手が足りないはずだから」


先生に言われて、わたしは防水の医療用非常バッグを肩にかけた。

救急キット、体温計、懐中電灯、車の窓でも割れる非常用ハンマー、そしてルカの入った、黒い板のようなスマホ。

小学校までは、坂道を上って十分ほどだ。

雨は少しも弱まっていなかった。

街灯の消えた坂道は真っ暗で、雨粒が顔を打ち、冷たい水が靴の中まで入りこんでくる。どこかで、水に押し上げられたマンホールのふたが、がたがたと鳴っていた。


先生の後ろを歩き、膝まで水につかりながら坂の下の交差点まで来たとき、わたしは足を止めた。

冠水した道路の真ん中で、一台の軽自動車が半分沈みかけていた。

水の中でヘッドライトだけがぼんやりと光り、その光の中で、運転席の窓を内側から叩く手が見えた。

ドアは、水圧で開かないのだ。


考えるより先に、わたしは水の中へ入っていた。先生も、すぐあとに続いた。

流れは思ったよりずっと速く、足もとをすくおうとする。車の屋根にしがみつくと、ガラスの向こうに、若い男の青ざめた顔があった。


「顔を離して! 窓を割ります!」


わたしはバッグからハンマーを取り出し、窓ガラスの角を狙って振り下ろした。

三度目で、ガラスが白く砕け散った。

わたしは男の腕をつかんで引き、男は割れた窓から外へ這い出して、車の屋根へよじ登った。


「つかまって、そこから動かないで!」


そう叫んだ瞬間、足もとの地面が消えた。

水が、わたしの体を横からさらった。伸ばされた先生の指先が、わたしの手をかすった。つかめなかった。

冷たい、という感覚さえ一瞬で遠くなる。泥の味がした。耳の中で、濁流が低くうなっている。

遠くで男が自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、それもすぐに水の音にのみ込まれた。


(あの子は、助かった。あの人も、助かった。それなら、いいか)


(でも――)


(一度でいいから、誰かに愛されてみたかった)


肩にかけたバッグのベルトだけが、最後まで、わたしの体をしっかりとつかんでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。