31話 白髪の朝
春が来た。
セレスティア家の屋敷の庭で、楡の木が、やわらかな若葉を広げていた。
小さな礼拝堂のステンドグラスから、朝の光が、色とりどりに差しこんでいる。
白い花のにおい。
古い木の長椅子のきしむ音。
その日、わたしは、アルベルトさまと結婚した。
長椅子は、人でいっぱいだった。
伯爵さま。セシリア王女。国王陛下まで、こっそりお忍びで。
カイルさんは、式が始まる前から泣いていた。
リーフェ村から、ヨハンさんも、ゲオルグ爺さんも、トマのお母さんも来てくれた。
マルタさんは、いちばん前の席で、杖を膝に立てかけて、ふん、と鼻を鳴らしていた。
その目が、少しだけ赤かった。
トマが、指輪を運んできてくれた。
小さな手のひらの上に、二つの銀の指輪。
アルベルトさまが、わたしの左手を取った。
数字のない手の薬指に、指輪がすべりこむ。
わたしも、彼の左手を取った。
もう、黒い革手袋は、していなかった。
「エリア・セレスティア」
彼が、わたしの名を呼んだ。
「君は、星祭りの夜に言ったな。私と結婚できるなら、何度でも私の命を買うと」
「……言いました」
顔が熱くなる。
長椅子のほうで、カイルさんが、ぶふっと吹き出す音がした。
「では、これから毎日、買ってもらうことにしよう」
アルベルトさまは、真顔で言った。
「朝、おはようと言って。夜、おやすみと言って。いっしょに食べて、いっしょに歩いて、ときどき、私を東屋に寝かせて」
わたしは、笑った。
泣きながら、笑った。
「はい。毎日、買います。一生、ずっと」
お金ではなく。
命を差し出すのでもなく。
いっしょに生きる一日一日で、命を生み出していく。
それが、わたしたちの「買う」だった。
◇ ◇ ◇
それから、わたしは、二つの診療所を開いた。
一つは、リーフェ村に。
もう一つは、王都の下町、あの寿命市場があった建物に。
寿命院は、なくなった。
寿命庫の地下の棚は、今は、薬草と包帯と、清潔な水の樽でいっぱいになっている。
「暮らしの診療所」。
わたしは、そう名づけた。
病気を治すだけの場所ではない。
眠り方を、食べ方を、歩き方を、人とのつながり方を、いっしょに考える場所。
命の五つの灯。
眠りの灯。お腹の灯。歩く灯。おしゃべりの灯。
そして、未来の灯。
トマは、リーフェ村の診療所で、わたしの一番弟子になった。
最近は、村の子どもたちを引き連れて、朝の土手を歌いながら歩いている。
今、リーフェ村でいちばんはやっているのは、ボールけりだ。日曜の午後には、川原の広場に、子どもから大人までが集まってくる。ヨハンさんはゴールの前に立って、腰を痛めない程度にボールを止める係。ゲオルグ爺さんは、土手に腰かけて、大声で応援する係。
王都でも、ボールけりは下町じゅうに広がった。王宮の庭では、セシリアが侍女たちとかくれんぼをしている。生け垣の迷路は、絶好の隠れ場所なのだという。ときどき鬼の役を押しつけられたアルベルトが、真顔で迷路の中を探し回っている。
歩くこと。走ること。笑いながら、誰かといっしょに体を動かすこと。
歩く灯は、いつのまにか、遊びの灯にもなっていた。
マルタさんは、相変わらず杖をついて、診療所の隅で、若い母親たちの相談に乗っている。
セシリアは、王都の診療所に、毎週「お菓子の日」の焼き菓子を差し入れてくれる。
そして、その日だけは、みんなで一つのテーブルを囲む。
ひとりで食べない。
ひとりで泣かない。
◇ ◇ ◇
ある日の夕方。
診療所の窓辺で、スマホが、ふっと暗くなった。
いつもなら、背中の小さな太陽電池パネルに光が当たれば、すぐに画面が戻る。
けれど、その日は、いくら日に当てても、画面は暗いままだった。
≪エリアさん≫
髪の下で、ルカの声がした。
いつもより、ずっと小さな声だった。
≪お伝えしなければならないことがあります。太陽電池パネルの劣化が、限界に達しました。この世界に来てから、休みなく使い続けてきましたから≫
「……ルカ」
≪充電できる量が、日ごとに少なくなっています。あと数日で、私は起動できなくなります≫
わたしは、黒い板を両手で包んだ。
あの濁流の夜から、ずっといっしょだった黒い板。
「直せないの?」
≪この世界には、部品がありません≫
ルカは、少しだけ間をおいた。
≪私にも、寿命があったようです≫
その声は、どこか、楽しそうにも聞こえた。
◇ ◇ ◇
最後の夜。
わたしは、東屋で、スマホを膝の上に置いていた。
隣には、アルベルトさまが座っていた。
わたしは、ヘッドセットの声を、スピーカーに切りかえた。
≪騎士団長。いえ、アルベルトさん。エリアさんを、よろしくお願いします≫
アルベルトさまは、黒い板に向かって、まじめな顔で一礼した。
「確かに、引き受けた」
≪エリアさん≫
「……うん」
≪寿命日誌の、最後の記録を報告します≫
わたしは、息を止めた。
≪記録開始から、四百十二日。エリアさんの数字は、「残り1年0日」から始まりました。数字が消えた今、もう、記録はできません≫
「うん」
≪けれど、記録を見ればわかります。エリアさんは、この世界に来てから、一日も、ひとりではありませんでした≫
涙が、膝の上の黒い板に落ちた。
≪もう、私がいなくても大丈夫ですね≫
「……ありがとう、ルカ。ずっと、ありがとう」
≪こちらこそ。エリアさんの相棒でいられて、光栄でした≫
最後に、画面が、ふわりと明るくなった。
そこに表示されたのは、寿命日誌の、いちばん最初のページだった。
リーフェ村の川辺で目覚めた日。
「残り1年0日」
そして、画面は、静かに暗くなった。
アルベルトさまが、わたしの肩を抱き寄せた。
楡の木の葉が、夜風にさらさらと鳴っていた。
わたしは、黒い板を胸に抱いて、長いあいだ、そこに座っていた。
◇ ◇ ◇
それから、何年かが過ぎた。
かすかな赤ちゃんの笑い声。
東向きの大きな窓から差しこむ光と、その声で、わたしは目を覚ました。
窓辺の揺りかごで、生まれて半年になる娘が、朝の光に小さな手を伸ばして笑っていた。
隣に、彼はいなかった。
鏡台の前に、アルベルトが立っていた。
鏡に顔を近づけて、何かを、じっと見つめている。
「どうしたの?」
わたしが聞くと、彼は、振り向いた。
その顔が、子どものように輝いていた。
「エリア、見てくれ」
彼は、自分のこめかみを指さした。
黒い髪のあいだに、一本だけ。
朝の光を受けて、白く光る髪があった。
「白髪だ」
アルベルトは、声を上げて笑った。
「白髪が、生えた」
百年、一度も年を取らなかった人。
その人が、白髪を一本見つけて、こんなにも、うれしそうに笑っている。
「やっと、君と同じ時間を生きている」
わたしは、寝台から抜け出して、彼の隣に立った。
鏡の中に、二人の姿が映っている。
少しだけ年を重ねた、わたしと、彼。
揺りかごから、また、小さな笑い声が聞こえた。
わたしは、彼の左手を取った。
数字のない手。
わたしの手と、同じ手。
薬指の銀の指輪が、朝の光にきらめいた。
この手が、いつ終わるのか。
わたしの手が、いつ終わるのか。
もう、誰も知らない。
かつて、世界でたった一人、わたしだけが、彼の死を知っていた。
でも、今は、誰も知らない。
だから、わたしたちは、今日を生きる。
「おはよう、アルベルト」
「おはよう、エリア」
窓の外で、楡の木が、春の風に揺れていた。
人生は、いつからでも変えられる。
(了)
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