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あなたの寿命を、私にください ――世界でたった一人、私だけが彼の死を知っている  作者: Hamin
第8章 神の答え

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30話 未来を選ぶ自由

音が、戻ってきた。


太鼓の音ではなかった。

悲鳴と、影のうなり声と、砕ける石畳の音。

広場の戦場が、そこにあった。


わたしは、祭壇の前に、ひざをついていた。

左手の甲を見る。


「残り0年1日」


ぎりぎりのところで、止まっていた。


隣で、アルベルトさまが、祭壇の文字から手を離した。

光の中に溶けかけていた彼の輪郭が、くっきりと戻っている。

彼は、わたしを見た。

わたしも、彼を見た。


二人とも、差し出すのを、やめた。


アルベルトさまが、わたしの手を引いて立ち上がらせた。

足に、力が入らない。

それでも、立てた。

彼の手が、支えてくれていたから。


◇ ◇ ◇


「アルベルトさま。あの壺」


わたしは、祭壇の脇に並んだガラスの壺を指さした。

何十万という青い結晶が、かすかに明滅している。


「あれは、みんなの命です。パンのために、薬のために、子どものために手放した、誰かの一年」


アルベルトさまは、うなずいた。


わたしは、肩の医療バッグに手を入れた。

指先が、冷たい鉄に触れる。


前の世界から持ってきた、非常用ハンマー。

濁流の夜、知らない人を助けるために、車の窓を割ったハンマー。


(あのときは、自分を差し出すために使った)


(今度は、ちがう)


わたしは、ハンマーを握りしめて、ガラスの壺の前に立った。


「何をする気だ、魔女め!」


ノクス公爵の叫び声がした。

わたしは、振り向かなかった。


ハンマーを、振り下ろした。


ガラスが、白く砕け散った。


壺の中から、無数の青い結晶が、あふれ出した。

いいえ。

結晶ではなかった。

光だった。

小さな、青い光の粒が、何十万と、暗い空へ舞い上がっていく。


二つ目の壺。三つ目の壺。

わたしは、ハンマーを振るい続けた。

腕がしびれても、手のひらが痛んでも。


光の粒は、空へのぼり、それから、雪のように、広場へ降りそそいでいった。

人々の手の甲に。

寿命を売った人たちの、手の甲に。


◇ ◇ ◇


「みんな!」


わたしは、ありったけの声で叫んだ。


「手を、つないで! 隣の人の手を、握って!」


広場の人たちが、わたしを見た。

怯えた顔。泣き腫らした顔。泥だらけの顔。


最初に動いたのは、トマだった。


「みんな、手をつなぐんだ! エリアねえちゃんが言ってるんだ!」


トマが、隣の知らないおじいさんの手を握った。

マルタさんが、反対の手で、倒れた若い母親の手を取った。

セシリアが、泣いている子どもの手を握り、国王陛下の手を握った。

カイルさんが、盾を捨てて、隣の騎士と腕を組んだ。


一人、また一人。

貴族も、下町の人も。

子どもも、老人も。

広場じゅうの人たちが、隣の誰かの手を握っていった。


そして、わたしは、見た。


つながれた手と手のあいだから、小さな光が生まれていた。

青い光ではない。

朝日のような、温かい、金色の光。

その光が、手から手へ、人から人へ、広場じゅうに広がっていく。


影が、たじろいだ。


金色の光に触れた影が、しゅうしゅうと音を立てて、薄れていく。

人々の足もとに絡みついていた黒い煙が、ほどけ、消えていく。


(恐れの、反対のもの)


(それは、きっと、これなんだ)


◇ ◇ ◇


「やめろ……やめろ、やめろ!」


ノクス公爵が、髪を振り乱して叫んでいた。


「わが主よ! 約束はどうなる! 私に、死なぬ体を――」


薄れていく影が、最後の力で、ぐるりと渦を巻いた。

そして、その渦は、公爵の体に、まとわりついた。


「ちがう、私ではない、私は――」


叫び声は、途中で途切れた。

影が消えたあとには、銀色の髪の一筋さえ、残っていなかった。

命を貯めこむことしか知らなかった男は、自分が呼びこんだ恐れに、のみこまれていった。


広場の真ん中で、黒騎士が、立ちつくしていた。

その黒い鎧から、黒い煙が、ほどけるように抜けていく。

ひびの入った兜が、ゆっくりと、石畳の上に落ちた。


現れたのは、緑色の目の、若い騎士の顔だった。

アルベルトさまと、同じくらいの年の。

百年前のまま、時を止められた顔。


「……ジーク」


アルベルトさまが、かすれた声で呼んだ。


ジークハルトさまは、ゆっくりとアルベルトさまを見た。

その目に、もう、黒い光はなかった。

そして、ほんの少しだけ、笑った。


「……アルベルト。おまえは、相変わらず、一人で全部背負いこもうとする」


「ジーク、私は――」


「百年前、おまえが光の中へ行ったとき、俺は、怖かった。死ぬのが、怖かった。その恐れに、喰われた」


ジークハルトさまの体が、足もとから、金色の光の粒になっていく。


「でも、もういい。やっと、時が戻る」


彼は、アルベルトさまの肩に手を置いた。


「アルベルト。今度こそ……生きろ」


光の粒が、風に舞い上がった。

アルベルトさまの手の中に、一筋の光だけを残して。


◇ ◇ ◇


空の太陽が、元の丸さを取り戻していた。

雲ひとつない青空が、広場の上に戻ってきた。


わたしは、自分の左手を見た。


数字が、消えていく。


「残り0年1日」の文字が、淡く光り、ゆっくりと薄れて、そして、消えた。


まわりで、ざわめきが起きていた。


「数字が……」


「おれの数字が、消えた」


「あたしのも……!」


広場じゅうの人たちが、自分の左手を見つめていた。

貴族の「残り80年」も。

下町の「残り2年」も。

すべての手の甲から、数字が、静かに消えていった。


誰も、自分の命の長さを、もう知らない。

誰も、それを売ることも、買うことも、できない。


わたしは、隣のアルベルトさまの手を取った。

数字のない手。

わたしと、同じ手。


そのとき、手のひらに、何かが伝わってきた。


とくん。


とくん。


脈だった。

彼の手首で、脈が、打っていた。

ゆっくりと、力強く。

わたしの脈と、同じ速さで。


アルベルトさまが、自分の胸に、手を当てた。


「……時間が、動いている」


その声が、震えていた。


「百年ぶりに、私の心臓が、世界と同じ速さで、動いている」


わたしは、彼に抱きついた。

声を上げて、泣いた。

彼の腕が、わたしを強く抱きしめ返した。

その胸の奥で、とくん、とくん、と、生きている音が鳴っていた。


◇ ◇ ◇


祭壇の陰に、一人の老人が、うずくまっていた。


白と金の衣は、泥に汚れ、ずり落ちている。

その顔は、深いしわに覆われていた。

八十を過ぎた、ふつうの老人の顔だった。


大神官オルドリク。

百五十年を生きるために買い集めた年月が、すべて抜け落ちたのだ。


老人は、震える両手を見下ろしていた。

数字のない、しわだらけの手。


「わしは……わしは、これから、どうすればいい……」


その声は、迷子の子どものようだった。


「命が、足りるのか、足りぬのか。もう、何もわからん……」


わたしは、アルベルトさまの腕からそっと離れて、老人の前にひざをついた。


その手を、取った。

冷たく、震えている手。

ハンナ母さんの手も、きっと、こんなふうだったのだろう。

この人のお母さんの手も。


「わたしも、わかりません。誰にも、もう、わからないんです」


老人が、顔を上げた。


「でも、今日から、よく眠ってください。温かいものを食べて、少し歩いて、誰かと話をしてください。ひとりで食べないで。ひとりで泣かないで」


わたしは、老人の手を、両手で包んだ。


「人生は、いつからでも変えられます。今日が最初の日です」


老人の目から、涙がひとすじ、こぼれ落ちた。

百五十年分の涙のように、見えた。


第8章、最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


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