30話 未来を選ぶ自由
音が、戻ってきた。
太鼓の音ではなかった。
悲鳴と、影のうなり声と、砕ける石畳の音。
広場の戦場が、そこにあった。
わたしは、祭壇の前に、ひざをついていた。
左手の甲を見る。
「残り0年1日」
ぎりぎりのところで、止まっていた。
隣で、アルベルトさまが、祭壇の文字から手を離した。
光の中に溶けかけていた彼の輪郭が、くっきりと戻っている。
彼は、わたしを見た。
わたしも、彼を見た。
二人とも、差し出すのを、やめた。
アルベルトさまが、わたしの手を引いて立ち上がらせた。
足に、力が入らない。
それでも、立てた。
彼の手が、支えてくれていたから。
◇ ◇ ◇
「アルベルトさま。あの壺」
わたしは、祭壇の脇に並んだガラスの壺を指さした。
何十万という青い結晶が、かすかに明滅している。
「あれは、みんなの命です。パンのために、薬のために、子どものために手放した、誰かの一年」
アルベルトさまは、うなずいた。
わたしは、肩の医療バッグに手を入れた。
指先が、冷たい鉄に触れる。
前の世界から持ってきた、非常用ハンマー。
濁流の夜、知らない人を助けるために、車の窓を割ったハンマー。
(あのときは、自分を差し出すために使った)
(今度は、ちがう)
わたしは、ハンマーを握りしめて、ガラスの壺の前に立った。
「何をする気だ、魔女め!」
ノクス公爵の叫び声がした。
わたしは、振り向かなかった。
ハンマーを、振り下ろした。
ガラスが、白く砕け散った。
壺の中から、無数の青い結晶が、あふれ出した。
いいえ。
結晶ではなかった。
光だった。
小さな、青い光の粒が、何十万と、暗い空へ舞い上がっていく。
二つ目の壺。三つ目の壺。
わたしは、ハンマーを振るい続けた。
腕がしびれても、手のひらが痛んでも。
光の粒は、空へのぼり、それから、雪のように、広場へ降りそそいでいった。
人々の手の甲に。
寿命を売った人たちの、手の甲に。
◇ ◇ ◇
「みんな!」
わたしは、ありったけの声で叫んだ。
「手を、つないで! 隣の人の手を、握って!」
広場の人たちが、わたしを見た。
怯えた顔。泣き腫らした顔。泥だらけの顔。
最初に動いたのは、トマだった。
「みんな、手をつなぐんだ! エリアねえちゃんが言ってるんだ!」
トマが、隣の知らないおじいさんの手を握った。
マルタさんが、反対の手で、倒れた若い母親の手を取った。
セシリアが、泣いている子どもの手を握り、国王陛下の手を握った。
カイルさんが、盾を捨てて、隣の騎士と腕を組んだ。
一人、また一人。
貴族も、下町の人も。
子どもも、老人も。
広場じゅうの人たちが、隣の誰かの手を握っていった。
そして、わたしは、見た。
つながれた手と手のあいだから、小さな光が生まれていた。
青い光ではない。
朝日のような、温かい、金色の光。
その光が、手から手へ、人から人へ、広場じゅうに広がっていく。
影が、たじろいだ。
金色の光に触れた影が、しゅうしゅうと音を立てて、薄れていく。
人々の足もとに絡みついていた黒い煙が、ほどけ、消えていく。
(恐れの、反対のもの)
(それは、きっと、これなんだ)
◇ ◇ ◇
「やめろ……やめろ、やめろ!」
ノクス公爵が、髪を振り乱して叫んでいた。
「わが主よ! 約束はどうなる! 私に、死なぬ体を――」
薄れていく影が、最後の力で、ぐるりと渦を巻いた。
そして、その渦は、公爵の体に、まとわりついた。
「ちがう、私ではない、私は――」
叫び声は、途中で途切れた。
影が消えたあとには、銀色の髪の一筋さえ、残っていなかった。
命を貯めこむことしか知らなかった男は、自分が呼びこんだ恐れに、のみこまれていった。
広場の真ん中で、黒騎士が、立ちつくしていた。
その黒い鎧から、黒い煙が、ほどけるように抜けていく。
ひびの入った兜が、ゆっくりと、石畳の上に落ちた。
現れたのは、緑色の目の、若い騎士の顔だった。
アルベルトさまと、同じくらいの年の。
百年前のまま、時を止められた顔。
「……ジーク」
アルベルトさまが、かすれた声で呼んだ。
ジークハルトさまは、ゆっくりとアルベルトさまを見た。
その目に、もう、黒い光はなかった。
そして、ほんの少しだけ、笑った。
「……アルベルト。おまえは、相変わらず、一人で全部背負いこもうとする」
「ジーク、私は――」
「百年前、おまえが光の中へ行ったとき、俺は、怖かった。死ぬのが、怖かった。その恐れに、喰われた」
ジークハルトさまの体が、足もとから、金色の光の粒になっていく。
「でも、もういい。やっと、時が戻る」
彼は、アルベルトさまの肩に手を置いた。
「アルベルト。今度こそ……生きろ」
光の粒が、風に舞い上がった。
アルベルトさまの手の中に、一筋の光だけを残して。
◇ ◇ ◇
空の太陽が、元の丸さを取り戻していた。
雲ひとつない青空が、広場の上に戻ってきた。
わたしは、自分の左手を見た。
数字が、消えていく。
「残り0年1日」の文字が、淡く光り、ゆっくりと薄れて、そして、消えた。
まわりで、ざわめきが起きていた。
「数字が……」
「おれの数字が、消えた」
「あたしのも……!」
広場じゅうの人たちが、自分の左手を見つめていた。
貴族の「残り80年」も。
下町の「残り2年」も。
すべての手の甲から、数字が、静かに消えていった。
誰も、自分の命の長さを、もう知らない。
誰も、それを売ることも、買うことも、できない。
わたしは、隣のアルベルトさまの手を取った。
数字のない手。
わたしと、同じ手。
そのとき、手のひらに、何かが伝わってきた。
とくん。
とくん。
脈だった。
彼の手首で、脈が、打っていた。
ゆっくりと、力強く。
わたしの脈と、同じ速さで。
アルベルトさまが、自分の胸に、手を当てた。
「……時間が、動いている」
その声が、震えていた。
「百年ぶりに、私の心臓が、世界と同じ速さで、動いている」
わたしは、彼に抱きついた。
声を上げて、泣いた。
彼の腕が、わたしを強く抱きしめ返した。
その胸の奥で、とくん、とくん、と、生きている音が鳴っていた。
◇ ◇ ◇
祭壇の陰に、一人の老人が、うずくまっていた。
白と金の衣は、泥に汚れ、ずり落ちている。
その顔は、深いしわに覆われていた。
八十を過ぎた、ふつうの老人の顔だった。
大神官オルドリク。
百五十年を生きるために買い集めた年月が、すべて抜け落ちたのだ。
老人は、震える両手を見下ろしていた。
数字のない、しわだらけの手。
「わしは……わしは、これから、どうすればいい……」
その声は、迷子の子どものようだった。
「命が、足りるのか、足りぬのか。もう、何もわからん……」
わたしは、アルベルトさまの腕からそっと離れて、老人の前にひざをついた。
その手を、取った。
冷たく、震えている手。
ハンナ母さんの手も、きっと、こんなふうだったのだろう。
この人のお母さんの手も。
「わたしも、わかりません。誰にも、もう、わからないんです」
老人が、顔を上げた。
「でも、今日から、よく眠ってください。温かいものを食べて、少し歩いて、誰かと話をしてください。ひとりで食べないで。ひとりで泣かないで」
わたしは、老人の手を、両手で包んだ。
「人生は、いつからでも変えられます。今日が最初の日です」
老人の目から、涙がひとすじ、こぼれ落ちた。
百五十年分の涙のように、見えた。
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