29話 時の神アイオーン
最初に気づいたのは、静けさだった。
太鼓の音も、悲鳴も、剣の音も、影のうなり声も。
何もかもが、消えていた。
目を開けると、そこは、白い場所だった。
上も下も、前も後ろもない。
ただ、やわらかな白い光が、どこまでも広がっている。
足もとに、地面の感触はなかった。
それなのに、不思議と、落ちていく気はしなかった。
(ここ……知ってる)
濁流にのまれた、あの夜。
意識が遠のいて、リーフェ村の川辺で目を覚ますまでの、あの何もない時間。
あのときも、わたしは、ここにいた気がした。
隣に、アルベルトさまがいた。
彼も、白い光の中で、呆然とあたりを見回していた。
わたしたちの手は、まだ、重なったままだった。
≪……エリアさん。時刻が、表示されません。時計が、止まっています≫
ルカの声が、髪の下で、かすかに響いた。
◇ ◇ ◇
白い光の向こうに、何かが立っていた。
大きな砂時計だった。
人の背丈の何倍もある、透きとおったガラスの砂時計。
その中で、金色の砂が、静かに、静かに流れ落ちている。
顔は、なかった。
神殿の像と同じ、顔のない砂時計。
時の神、アイオーン。
わたしは、祖父の声を思い出していた。
大風が吹いた。神さまは、大風の中にはいなかった。
地震が来た。神さまは、地震の中にもいなかった。
火が来た。神さまは、火の中にもいなかった。
そのあとに、静かな、小さな声がした。
広場の戦いは、大風のようだった。
砕ける石畳は、地震のようだった。
燃えるような命の光は、火のようだった。
そして、そのすべてが止まった、この静けさの中で。
声がした。
「よく、来たね」
それは、雷のような声ではなかった。
耳もとでささやくような、静かな、小さな声だった。
男の声とも、女の声とも、子どもの声とも、老人の声ともつかない声。
◇ ◇ ◇
「おまえたちに、話しておくことがある」
砂時計の中で、金色の砂が、さらさらと流れている。
「人の手の甲に刻まれた数字。おまえたちは、それを、わたしが定めた運命だと思っているね」
「……ちがうんですか」
わたしの声は、かすれていた。
「あれは、鏡だよ」
神の声は、どこまでも静かだった。
「今の生き方が、そのまま続いたら、どれだけ生きられるか。それを映しているだけの、鏡だ。よく眠り、よく食べ、よく歩き、誰かと笑えば、数字は増える。ひとりで閉じこもり、自分を粗末にすれば、数字は減る」
わたしは、息をのんだ。
マルタさんの言い伝え。
大昔、数字は揺れるものだった。
「そして、何よりも数字を増やすのは、人が、人を思うことだ。誰かを思い、誰かに思われるとき、命は、そのあいだに生まれる」
(ルカが見つけた、あの数字)
(誰かを思いやったとき、思いやられたとき、どちらの命も増えていた)
「わたしが人に与えたのは、寿命ではない。未来を選ぶ自由だ。どう生きるかを、自分で選べる自由」
砂時計の砂が、ほんの少しだけ、流れを速めた。
「けれど、人は、それを忘れた。数字を運命だと思いこみ、売り買いし、奪い合うようになった。命が足りぬと恐れる心が、命を貯めこむ心を生み、その恐れが集まって、影になった」
「刻蝕……」
アルベルトさまが、つぶやいた。
「そう。刻蝕は、わたしが送った災いではない。人の、死への恐れそのものだ。命を奪い合う仕組みが続くかぎり、何度封じても、よみがえる」
アルベルトさまの手が、わたしの手の下で、震えた。
「では、百年前に、私がしたことは……」
「おまえは、自分のすべてを差し出して、人々に百年の時間をくれた。それは、尊いことだった」
神の声は、やさしかった。
「けれど、その百年で、人は何も変わらなかった。誰かが一人で犠牲になっても、恐れは消えない。恐れを消せるのは、恐れの反対のものだけだ」
◇ ◇ ◇
「エリア」
神が、わたしの名前を呼んだ。
灯ではなく、エリアと。
「おまえにだけ、この者の数字が見えた理由を、知りたいかい」
「……はい」
「あの数字は、誰かのために命を差し出した者にしか、見えない。この者は、百年前に。そしておまえは、あの濁流の夜に」
わたしは、目を見開いた。
車の窓を割って、知らない人を助けて、流された夜。
「おまえたちは、同じ者どうしだった。誰かのために、自分を差し出すことでしか、生きる意味を見つけられない者どうし」
アルベルトさまが、わたしを見た。
わたしも、彼を見た。
(この人は、わたしだった)
(わたしは、この人だった)
そのとき、白い光の中に、もう一つの人影が現れた。
栗色の長い髪。日に焼けた細い腕。粗末な麻の服。
裸足の少女。
わたしと、同じ顔だった。
いいえ。
この体の、本当の持ち主の顔だった。
「……エリア」
わたしは、その名前を呼んだ。
少女は、恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありがとう」
小さな、澄んだ声だった。
「わたしの体で、たくさんの人を助けてくれて。トマを。村のみんなを。王女さまを。それから――」
少女は、わたしの隣のアルベルトさまを見て、くすりと笑った。
「たくさんの人を、愛してくれて。わたしは、誰かを助けられる人に生きてほしいって祈ったけど、本当は、それだけじゃなかったの。誰かを愛せる人に、生きてほしかった」
わたしの目から、涙があふれた。
「わたしね、これから、母さんのところへ行くの。母さん、きっと待ってるから」
少女は、わたしの手を、そっと握った。
温かい手だった。
「だから、わたしの名前、ずっと使ってね。今度は、自分を差し出すためじゃなくて、生きるために」
光の中に、少女の姿が溶けていった。
最後に、もう一度だけ、笑い声が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「さあ」
神の声が、静けさの中に響いた。
「選びなさい」
砂時計の砂が、止まった。
「また誰かが死ぬことで、世界を救うか」
一呼吸。
「それとも、共に生きることで、救うか」
わたしは、アルベルトさまの手を、握った。
彼も、わたしの手を、握り返した。
言葉は、いらなかった。
二人とも、もう、答えを知っていた。
「「生きます」」
二人の声が、重なった。
「二人で。……みんなと、いっしょに」
砂時計の中で、金色の砂が、ふたたび流れはじめた。
顔のない神が、笑ったような気がした。
「それでいい」
静かな、小さな声だった。
「それが、わたしがずっと見たかった答えだよ」
白い光が、まぶしいほどに強くなっていった。




