24話 寿命日誌が語ること
手のひらが、水晶の板に触れようとした、そのとき。
ポケットの中で、スマホが叫んだ。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
ビィィィィィィィィィィィッ!!
耳をつんざくような、甲高い警報音。
前の世界で、地震や洪水のときに鳴り響いた、あの非常アラームの音だった。
同時に、ポケットの中から、まぶしい白い光がほとばしった。
ルカが、スマホのライトを、いちばん強く点けたのだ。
「な、何だ、これは!」
大神官が、目を押さえてよろめいた。
神官たちが悲鳴を上げ、耳をふさいでうずくまる。
青暗い光だけの地下で、白い光は、雷のようにまぶしかった。
≪エリアさん、走って! 扉はまだ開いています!≫
その声で、わたしは我に返った。
水晶の板から手を引き、身をひるがえす。
「捕まえろ! 魔女を逃がすな!」
ノクス公爵の声が、背中に突き刺さった。
わたしは、鳴り続けるスマホを握りしめて、階段を駆け上がった。
白い光が、壁の燭台を、天井の古い文字を、次々に照らし出していく。
後ろから、足音が追ってくる。
(逃げなきゃ)
(でも、どこへ――)
階段のいちばん上の回廊で、誰かが、わたしの腕をつかんだ。
「こっちだ、エリア嬢!」
カイルさんだった。
◇ ◇ ◇
「詰所に戻ったら、エリア嬢がいなくて。神官が連れていくのを見た番兵がいたんです」
カイルさんは、わたしの手を引いて、回廊の脇の、細い通路へ飛びこんだ。
ほこりっぽい石の壁。くもの巣。
ろうそくも灯っていない、真っ暗な通路。
「ここ、どこですか」
「王宮と神殿をつなぐ、古い抜け道ですよ。教えてくれたのは――」
通路の先に、小さな灯りが揺れていた。
ランプを掲げて立っていたのは、金色の髪を編んだ、小さな人影だった。
「エリア!」
セシリアだった。
「王女さま……!?」
「お母さまと、かくれんぼをしていたときに見つけた道なの。お母さま以外、誰も知らない道」
王女さまは、わたしに飛びついてきた。
小さな腕が、わたしの腰をぎゅっと抱きしめる。
「ばか! エリアのばか! どうして一人で行っちゃうの!」
その声が、泣いていた。
わたしは、何も言えずに、王女さまの金色の髪をなでた。
ランプの光が、通路の壁に、三人の影を大きく揺らしていた。
◇ ◇ ◇
抜け道の先は、古い井戸小屋につながっていた。
井戸の縁をよじのぼると、夜明けの冷たい空気が、ほてった頬に触れた。
セレスティア家の屋敷の裏手までは、すぐだった。
湿った落ち葉のにおい。
屋敷の裏口に、ランプの灯りが一つ、揺れていた。
その灯りの下に立っていた人影を見て、わたしは、自分の目を疑った。
腰の曲がった、小さな老婆。
杖をついて、まっすぐにこちらを見ている。
その隣に、やせた男の子。
「エリアねえちゃん!」
トマが、走ってきた。
「トマ……マルタさん……どうして……」
「伯爵さまが、手紙をくれたんだよ」
マルタさんが、杖をつきながら、ゆっくりと近づいてきた。
「娘がひどくふさいでいる。村の者に会えば、元気になるかもしれん。来てはくれんか、ってね。そしたら、着いたその晩に、この騒ぎさ」
マルタさんは、わたしの顔を、下から見上げた。
それから、しわだらけの手で、わたしの頬を、ぺちんとはたいた。
痛くはなかった。
「ばかだね、あんたは」
その目が、うるんでいた。
「あたしは言っただろう。あんたの命は、もう村だけのものじゃないって。あれは、命を捨てていいって意味じゃないよ」
わたしの目から、涙があふれ出した。
トマが、わたしの腰にしがみついて、いっしょに泣いていた。
◇ ◇ ◇
屋敷の台所で、温かいスープを飲んだ。
マルタさんが、持ってきた村の豆で煮てくれたスープ。
ひと口飲むと、リーフェ村の、おしゃべりの火のにおいがした。
伯爵さまと、セシリアと、カイルさんと、マルタさんと、トマ。
みんなが、かまどのまわりに座っていた。
窓の外では、朝の光が、少しずつ強くなっていた。
(ひとりで食べない、ひとりで泣かない)
わたしが、村の人たちに言った言葉だった。
それなのに、わたしは、一人で寿命庫へ行こうとしたのだ。
≪エリアさん≫
ルカの声が、髪の下で、静かに響いた。
≪お願いがあります。寿命日誌を、もう一度、最初から分析させてください。今度は、エリアさんの数字だけでなく、すべての記録をいっしょに≫
「すべての、記録……?」
≪私は、ポケットの中で、ずっと聞いていました。村の人たちが手の甲の数字を読み上げた声も。王女さまが「増えた」と叫んだ声も≫
わたしは、スマホを取り出して、かまどの台の上に置いた。
黒い板の画面が、ふわりと光る。
みんなが、不思議そうにそれをのぞきこんだ。
「エリア、それ、なあに?」
セシリアが聞いた。
「……わたしの、相棒です」
わたしは、少し迷ってから、ヘッドセットの声を、スマホのスピーカーに切りかえた。
≪はじめまして、皆さん。ルカといいます≫
トマが、ひゃっと声を上げて、マルタさんの後ろに隠れた。
マルタさんは、目を丸くして、それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「水を沸かすのは、こいつに教わったのかい」
「……はい」
「なるほどね」
◇ ◇ ◇
≪では、結果をお伝えします≫
ルカの声が、台所に響いた。
≪まず、エリアさんの数字が増えた日。騎士団長と会った日だけではありませんでした≫
画面に、日付と数字の列が並ぶ。
≪トマさんが回復した朝。プラス二日。おしゃべりの火に、初めて村の人が集まった夜。プラス三日。王女さまが、初めて窓辺に立った朝。プラス二日。マルタさんが、エリアさんの頭に手を置いてくれた日。プラス四日≫
トマが、わたしを見た。
マルタさんが、少しだけ目をそらした。
≪そして、もう一つ。エリアさんの数字が増えた日には、エリアさんのまわりの人たちの数字も、同じように増えていました。ヨハンさんの数字。ゲオルグさんの数字。王女さまの数字≫
「わたしの……?」
セシリアが、自分の左手を見下ろした。
≪数字が増えるのは、エリアさん一人ではありません。誰かを思いやったとき、誰かに思いやられたとき、そのどちらの数字も増えています≫
かまどの火が、ぱちりとはぜた。
≪次に、騎士団長の数字が速く減った日です≫
画面の表示が変わった。
≪大神官は、エリアさんが騎士団長と会った日に、数字が減ると言いました。けれど、記録はちがいます。騎士団長の数字が大きく減ったのは、エリアさんと会っていない日にも起きています≫
カイルさんが、身を乗り出した。
カイルさんが、懐から小さな帳面を取り出した。
「城門の通行記録です。霧の朝の一件のあと、団長の命令で、王城への馬車の出入りを書きとめていたんです」
カイルさんが開いて見せた帳面には、細かい字で、日付と、馬車の紋章と、積み荷の数が、びっしりと書きこまれていた。
わたしは、かまどの台からスマホを取り上げ、黒い板の背中を帳面に向けた。小さなレンズが、ページの上にかざされる。
「カイルさん、ゆっくり、一枚ずつめくってください」
「こ、こうですか?」
カイルさんは、黒い板をおっかなびっくり横目で見ながら、ページを一枚、また一枚とめくった。そのたびに、画面の上に、帳面の文字がすいすいと写し取られていく。
≪読み取りました。四十二ページ分です≫
「板が……字を読んだ……」
カイルさんが、ぽかんと口を開けた。
≪照らし合わせました。騎士団長の数字が大きく減った日は、すべて、黒い砂時計と蛇の紋章の馬車が、たくさんの荷を積んで城門を通った日と重なっています。各地の村から、寿命の結晶を運んできた日です≫
「寿命庫に、命が運びこまれた日……」
わたしは、つぶやいた。
地下の広間の、あの青い光。
封印の石の亀裂に、結晶を差し入れていた公爵の手。
≪寿命庫に命が貯めこまれるほど、封印の石は弱まり、騎士団長の残りの日数は減っていきます。エリアさんは、関係ありません≫
ルカは、そこで少しだけ間をおいた。
それから、いつもより、ずっとやわらかい声で言った。
≪エリアさん。あなたは、彼から何も奪っていません≫
わたしの手が、震えた。
≪命は、奪い合うものではありませんでした。命は、人と人のあいだで、生まれています≫
台所が、しんと静まりかえった。
わたしは、両手で顔をおおった。
指のすきまから、涙がこぼれ落ちた。
誰かの手が、わたしの背中をさすってくれた。
トマの小さな手。セシリアの細い手。マルタさんの、しわだらけの手。
(わたしは、あの人を、殺していなかった)
(わたしは、あの人のそばにいて、よかったんだ)
窓の外で、朝日が、楡の木の梢を金色に染めはじめていた。




