23話 寿命庫の地下
アルベルトさまは、騎士団の詰所の奥の部屋に運ばれた。
宮廷医が傷を縫い、わたしは一晩じゅう、そのそばについていた。
ろうそくの火が、小さく揺れている。
薬草を煎じたにおいと、血のにおい。
窓の外では、夜の雨が、静かに石畳を濡らしていた。
アルベルトさまは、眠ったままだった。
いや、眠っているのではない。気を失っているのだ。
百年ぶりに眠った夜の、あの穏やかな寝顔とは、まるで違っていた。
手袋のない左手が、毛布の上に出ている。
わたしは、その手を、そっと両手で包んだ。
冷たい手だった。
「残り28日」
日付が変わるたびに、数字は減っていく。
一日に、二日ずつ。
(このままじゃ、この人は、百年祭の日を待たずに消えてしまう)
◇ ◇ ◇
夜明け前。
部屋の戸を、そっと叩く音がした。
戸口に立っていたのは、白い衣の若い神官だった。
見覚えのある顔。リーフェ村で、わたしを柱に縛りつけた、神官ベルントだった。
「セレスティア家の娘御。大神官さまが、お呼びです」
わたしは、身を固くした。
「……行きません」
「騎士団長の命を救う方法を、お教えすると」
ベルントの声は、村で聞いたときとは違っていた。
どこか、おびえているようにも聞こえた。
「大神官さまは、おっしゃいました。娘御が来なければ、騎士団長は、十日ともたぬと」
わたしは、毛布の上のアルベルトさまの手を見た。
「残り28日」の数字が、ろうそくの光の中で、かすかに揺れていた。
≪エリアさん。罠の可能性が高いです≫
ルカの声が、髪の下で、小さく、けれどはっきりと響いた。
(わかってる)
(でも――)
(ノクス公爵は言っていた。命を返す方法は、ちゃんとある、って)
わたしは、立ち上がった。
医療バッグを、肩にかける。
「行きます」
≪エリアさん≫
(ごめんね、ルカ)
(でも、わたしが行かなきゃ、この人は死ぬの)
◇ ◇ ◇
寿命院は、王宮の北、神殿の奥にあった。
白い石の回廊を抜け、長い長い階段を下りていく。
一段下りるたびに、空気が冷たくなった。
壁の燭台の火が、青白く揺れている。
甘ったるい香のにおいが、だんだん濃くなっていく。
階段の底に、重い鉄の扉があった。
ベルントが扉を押し開けると、青い光があふれ出した。
わたしは、息をのんだ。
広い、地下の広間だった。
天井まで届く棚が、どこまでも並んでいる。
その棚という棚に、小指の爪先ほどの大きさの、青く光る結晶が、びっしりと並べられていた。
何千、いや、何十万という数。
一つ一つが、心臓の鼓動のように、かすかに明滅している。
「寿命庫へようこそ」
広間の奥から、声がした。
大神官オルドリクが、薄青い光の中に立っていた。
「美しいだろう。これはすべて、この国の民から買い集めた寿命だ。一つの結晶が、一年」
(一つが、一年)
わたしの頭に、リーフェ村の広場が浮かんだ。
水晶の板に手を置いた、ヨハンさんの曲がった背中。
「……一年を、差し上げます」と答えた、あのかすれた声。
寿命市場の石段の、しおれた花束。
この青い光の一つ一つが、誰かの一年だった。
誰かが、パンのために、薬のために、子どものために、手放した一年。
広間のいちばん奥に、巨大な黒い石が立っていた。
人の背丈の三倍はある、ごつごつとした石。
その表面には、無数の古い文字が刻まれている。
そして、石の真ん中を、太い亀裂が、上から下まで走っていた。
亀裂の奥から、黒い煙のようなものが、細く、細く漏れ出している。
「封印の石だ。百年前、あの英雄が、命と引きかえに刻蝕を封じこめた石」
その石の前に、もう一人、人影があった。
銀色の髪。上等な外套。
ノクス公爵が、棚から取った青い結晶を、一つ、また一つと、石の亀裂へ差し入れていた。
結晶が亀裂に吸いこまれるたびに、黒い煙が、少しずつ太くなっていく。
「公爵……あなた、何を……」
公爵は、振り向いて、にっこりと笑った。
「食事ですよ。わが主の」
◇ ◇ ◇
「おまえに、話しておこう」
大神官が、ゆっくりとわたしに近づいてきた。
青い光が、その顔に深い影を落としている。
「わしは、貧しい村に生まれた。おまえの村と、よく似た村だ」
わたしは、何も言えなかった。
「母は、わしを食べさせるために、毎年、寿命を売った。一年、また一年。そして、わしが十のとき、母は、わしの目の前で倒れた。手の甲の数字は、ゼロだった」
大神官の声は、静かだった。
静かすぎて、かえって、おそろしかった。
「母の亡骸を前にして、わしは誓った。二度と、命が足りぬ側には回らぬ、と」
(この人も……)
(この人も、ハンナ母さんのような人を、見てきたんだ)
「命は、奪わなければ足りぬのだ。この世界は、そういうふうにできている」
大神官は、わたしの左手を見下ろした。
「だが、おまえは違う。おまえの数字は、奪わずとも増える。神の定めを越えて、命を生む。おまえは、器だ。命を生む器だ」
「わたしを、どうするつもりですか」
「おまえの命を、あの英雄に捧げるがいい。時の外にいる者を、時の流れに戻す方法は、それしかない。古文書に、そう書いてある」
大神官は、封印の石の前の、黒い石の台を指さした。
台の上には、寿命の取引に使う、あの水晶の板が置かれていた。
「おまえが命のすべてを差し出せば、英雄は救われる。それが、おまえが奪ってきたものを返す、ただ一つの道だ」
(返す……)
(わたしが、あの人から奪ってきたものを)
足が、勝手に動いていた。
一歩、また一歩。
黒い石の台へ。
≪エリアさん、止まってください!≫
ルカの声が、髪の下で叫んでいた。
≪大神官の言うことには、根拠がありません! エリアさん!≫
(ごめん、ルカ)
(でも、もう、いいの)
前の世界の、あの濁流の夜を思い出した。
車の窓を割って、知らない人を助けて、わたしは水に流された。
あのときも、思ったのだ。
それなら、いいか、と。
(誰かのために、命を差し出す)
(それなら、わたしにも、できる)
(それしか、わたしには、できない)
わたしは、水晶の板の前に立った。
青い光が、わたしの顔を照らしていた。
大神官の後ろで、ノクス公爵が、満足そうに微笑んでいた。
左手を、ゆっくりと持ち上げる。
「残り2年160日」
アルベルトさまのそばにいて、増えた命。
これを全部、あの人に返せば――
わたしは、震える手を、水晶の板の上へ伸ばした。
あなたの毎日が、素敵な出来事で満たされますように。
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