22話 刻蝕の目覚め
出発の前の日。
わたしは、一人で下町へ出かけた。
どうしても、もう一度だけ、あの場所に行っておきたかった。
王都に着いた日、寿命市場の石段に座りこんでいた、「残り3日」のおじいさん。
寿命市場の前の広場は、あいかわらず、灰色の顔の人たちで埋まっていた。
古い石畳のすきまから、すえたにおいが立ちのぼってくる。
物売りの声。子どもの泣き声。鳩の羽音。
石段に、あのおじいさんの姿はなかった。
かわりに、小さな花束が一つ、置かれていた。
しおれかけた、野の花。
(お孫さんは、元気になったんだよね)
わたしは、石段にしゃがみこんで、その花束にそっと手を触れた。
そのときだった。
空が、暗くなった。
◇ ◇ ◇
最初は、雲がかかったのだと思った。
けれど、見上げた空には、雲なんて一つもなかった。
太陽が、欠けていた。
まるで、黒い歯でかじり取られたように、太陽の端が、少しずつ黒く削られていく。
広場の人たちが、ざわめきはじめた。
「日蝕か……?」
「いや、ちがう。あれは――」
誰かの悲鳴が、ざわめきを引き裂いた。
寿命市場の白い建物の扉から、黒いものがあふれ出していた。
煙のような、霧のような、形のない影。
それが、石畳の上を、水のように広がっていく。
影に触れた鳩が、ばさりと地面に落ちた。
羽根が、みるみる白く色あせ、ぼろぼろと崩れていく。
≪エリアさん、逃げてください! 書庫の記録にあった、刻蝕の特徴と一致します!≫
ルカの声が、髪の下で叫んだ。
影は、人々の足もとに絡みついた。
若い男が、悲鳴を上げて倒れた。
その髪が、見ているあいだに白くなり、頬がこけ、手の甲の数字が、ぱらぱらと音を立てるように減っていく。
「残り31年」が、「残り12年」に。
「残り12年」が、「残り4年」に。
「いやああっ!」
広場は、一瞬で地獄になった。
そして、影の中心に、それはいた。
黒い鎧。黒い兜。光を吸いこむ、黒い剣。
霧の朝の、あの黒騎士だった。
黒騎士は、影の先頭に立ち、まるで軍勢を率いる将のように、ゆっくりと広場を進んでくる。
そのたびに、足もとの石畳がひび割れ、崩れていった。
◇ ◇ ◇
逃げなきゃ。
頭ではわかっていた。
でも、足が動かなかった。
目の前で、小さな女の子が、母親の手を引いて泣いていた。
母親は、影に足を取られて、石畳の上に倒れている。
(だめ)
わたしは、走っていた。
医療バッグを肩からはずし、倒れた母親の腕をつかんで、影の外へ引きずり出す。
「立てますか! こっちへ!」
母親の手の甲の数字は、まだ残っていた。
脈も、ある。
女の子が、わたしの服のすそにしがみついてきた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
その言葉を、何度くり返しただろう。
倒れた人を引きずり、影の届かない路地へ運び、水を飲ませ、脈を測る。
両手が、泥と血で汚れていった。
(ルカ、脈拍が速すぎる人を教えて)
≪右から三人目の男性。それから、その奥の老人です≫
どれくらい、そうしていただろう。
ふと顔を上げたとき、広場に、白い光が走った。
「さがれ! 民を路地へ!」
聞き慣れた声が、広場に響き渡った。
騎士たちが、馬を駆って広場になだれこんでくる。
その先頭に、黒い騎士服の背中があった。
アルベルトさま。
(来て、くれた)
◇ ◇ ◇
アルベルトさまは、馬から飛び降りると、まっすぐに黒騎士へ向かっていった。
剣と剣が、ぶつかった。
霧の朝とは比べものにならない、すさまじい音だった。
火花が散り、二人の足もとの石畳が、衝撃で砕けて舞い上がる。
黒騎士の剣は、前よりも重く、速くなっていた。
空の太陽が欠けるほどに、影の力が増しているのだと、わたしは思った。
二つの影が、広場の中心で、何度もぶつかり合う。
アルベルトさまは、押されていた。
黒い剣を受けるたびに、その腕がわずかに震える。
それでも、一歩も引かなかった。
彼の背中の向こうには、路地へ逃げこんだ人たちがいたから。
そして、アルベルトさまの剣が、黒騎士の兜を、横から打った。
鈍い音。
黒い兜に、ひびが入った。
ひびの隙間から、ほんの一瞬、何かが見えた。
目だった。
深い緑色の、人間の目。
アルベルトさまの動きが、止まった。
まるで、時間ごと凍りついたように。
「……ジーク……?」
その唇が、かすかに動いたのを、わたしは見た。
その一瞬を、黒い剣は見逃さなかった。
「アルベルトさまっ!」
黒い刃が、アルベルトさまの胸を、深く斬り裂いた。
◇ ◇ ◇
騎士たちの叫び声。
カイルさんが、剣を振りかざして黒騎士に斬りかかる。
黒騎士は、ひびの入った兜を片手で押さえ、ゆっくりと後ずさった。
そして、影の中に溶けるように、消えた。
影もまた、潮が引くように、寿命市場の扉の中へ吸いこまれていった。
空の太陽が、少しずつ、元の丸さを取り戻していく。
わたしは、石畳の上に倒れたアルベルトさまのもとへ、転がるように駆け寄った。
「アルベルトさま! アルベルトさま!」
騎士服の胸が、赤く染まっていた。
わたしは医療バッグを開き、傷口を押さえた。
手が、震えて止まらない。
(落ち着いて。落ち着いて。止血。圧迫。いつもと同じ)
傷口を押さえながら、わたしは、彼の左手を見た。
斬られた拍子に、手袋がはずれかけていた。
その下に、あの数字があった。
「残り30日」
昨日の夜、日誌に書いたのは、「残り91日」だった。
(六十日も……一度に……)
黒い剣が、彼の残りの時間を、喰らったのだ。
「……エリア」
アルベルトさまが、うっすらと目を開けた。
血の気のない唇が、かすかに動く。
「来なくて、いい」
「しゃべらないで」
「君は……生きろ」
それだけ言うと、彼の目が、ゆっくりと閉じた。
「いやっ……!」
脈は、ある。息も、ある。
気を失っただけだ。
わかっているのに、涙が止まらなかった。
わたしは、彼の傷口を押さえ続けながら、声を上げて泣いた。
(わたしのせいだ)
(わたしが、この人のそばにいたから)
(わたしが、この人の命を、吸い取っていたから――)
欠けた太陽の名残の、薄暗い光の中で、わたしの左手の甲の数字だけが、場違いなほど明るく光っていた。




