20話 速く減る数字
それから十日のあいだ、わたしは毎晩、二つの数字を日誌に書きつけた。
わたしの数字と、アルベルトさまの数字。
窓の外では、楡の葉が少しずつ色を変えはじめていた。
朝の空気がひんやりと澄んで、屋敷の庭には、焚き火のような落ち葉のにおいが漂っている。
季節が、夏から秋へ移ろうとしていた。
日誌の画面を、指でたどる。
「残り118日」
「残り115日」
「残り111日」
「残り106日」
一日に、一日ではない。
二日、三日、ときには四日。
彼の数字は、坂道を転がり落ちる石のように、速さを増しながら減っていた。
そして、その同じ日付の横に並んだ、わたしの数字。
「残り2年130日」
「残り2年136日」
「残り2年143日」
わたしの数字は、増え続けていた。
≪エリアさん。この十日間で、騎士団長の残り日数は二十七日減りました。経過した日数の、およそ三倍です≫
「……原因は」
≪わかりません≫
わたしは、スマホの画面を伏せた。
黒い板の背中の、小さな太陽電池パネルが、窓からの月明かりをかすかに映していた。
◇ ◇ ◇
その知らせが来たのは、翌日の昼だった。
「大神官さまが、お見えです」
執事の声に、伯爵さまの顔がこわばった。
応接間に通されたのは、白と金の衣の大神官オルドリク。
そして、その後ろに、銀色の髪をなでつけたノクス公爵が、にこやかに立っていた。
部屋に、甘ったるい香のにおいが広がった。
寿命院の神官たちがいつもまとっている、あのにおい。
「突然の訪問、許されよ、伯爵」
大神官は、勧められた椅子にも座らず、まっすぐにわたしを見た。
「今日は、セレスティア家の娘御に、お伝えしたいことがあって参った」
伯爵さまが、わたしをかばうように一歩前へ出た。
「娘に、何の用だね」
「騎士団長の、命のことだ」
わたしの心臓が、どくん、と鳴った。
(この人は、知ってる)
大神官は、ふところから、古い羊皮紙の巻物を取り出した。
黄ばんだ紙。かすれたインク。
その一行を、細い指でなぞった。
「寿命院に伝わる、古い記録だ。百年前の、あの英雄について書かれている」
大神官は、ゆっくりと読み上げた。
「時の外に出でし者を、ふたたび時の流れに戻さんと欲するならば、一人の命、そのすべてを捧げよ」
応接間が、しんと静まりかえった。
「娘御は、ご存じのはずだ。騎士団長の手に、数字がないことを」
「……」
「そして、その残りの日々が、近ごろ、あまりに速く減っていることも」
わたしは、答えなかった。
答えられなかった。
ノクス公爵が、くすりと笑った。
「顔に書いてありますよ、お嬢さん」
大神官は、巻物を巻き戻しながら、静かに言った。
「では、なぜ減るのか。教えてさしあげよう」
灰色の目が、まっすぐにわたしを射抜いた。
「娘御の数字が増えはじめたのは、騎士団長と出会ってからであろう。騎士団長の数字が速く減りはじめたのは、娘御がそのそばにいるようになってからであろう」
「……ちがいます」
「何がちがう」
「わたしの数字は、村にいたときから――」
「村にいたときとは、比べものにならぬほど増えているはずだ。違うかね」
わたしは、唇をかんだ。
星祭りの夜。一晩で、一年。
大神官は、ゆっくりと言葉を区切った。
「娘御の数字が増えるのは、あの男の残りの時間を、吸い取っているからだ」
(……え?)
「おまえは、知らぬうちに、英雄の命を喰らっている。神の数字を変える力とは、つまりそういうものだ」
大神官の声が、低く響いた。
「おまえこそ、本物の魔女だ」
◇ ◇ ◇
「出ていってくれ」
伯爵さまの声が、応接間に響いた。
ふだんは穏やかな老紳士の声が、震えるほど怒っていた。
「わしの娘を、魔女呼ばわりする者を、この屋敷に置くわけにはいかん」
大神官は、表情ひとつ変えずに一礼した。
「お心を乱して、失礼した。ただ、真実をお伝えしたまで」
扉の前で、ノクス公爵が振り返った。
「お嬢さん。もし、あの英雄を救いたいと思ったら、いつでも寿命院を訪ねなさい。命を返す方法は、ちゃんとあるのだから」
そう言って、公爵は微笑んだ。
珍しい宝石を眺めるような、あの微笑みだった。
二人が去ったあとも、甘い香のにおいは、なかなか消えなかった。
わたしは、応接間の真ん中に立ちつくしていた。
左手の甲が、じんじんと熱かった。
「エリア」
伯爵さまが、わたしの肩にそっと手を置いた。
「あんな者の言うことを、信じてはいかんよ」
「……はい」
返事はしたけれど、わたしの耳の奥では、まだ、あの声が響いていた。
おまえこそ、本物の魔女だ。




