19話 リアナの影
「星祭りに行きましょう!」
カイルさんが、屋敷の玄関で、両手を広げて言った。
「年に一度の、王都いちばんのお祭りですよ。屋台がずらーっと並んで、夜には空に灯籠を飛ばすんです。団長も、たまには息抜きしないと」
「私は、警護の任務中だ」
「だから、警護すればいいじゃないですか。お祭りで。エリア嬢の、すぐそばで」
カイルさんは、わたしに向かって、ぱちんと片目をつぶってみせた。
(この人……わざとだ)
アルベルトさまは、長いため息をついた。
「……カイル。おまえは、ときどき本当に余計なことをする」
「分隊長のつとめですから!」
◇ ◇ ◇
星祭りの夜の王都は、光の海だった。
大通りの両側に、色とりどりの灯籠がつるされている。焼き栗のにおい。甘い蜜菓子のにおい。笛と太鼓の音。
人々の笑い声が、どこまでも続いていた。
「すごい……」
わたしは、思わず足を止めた。
リーフェ村のおしゃべりの火とはちがう。けれど、人が集まって笑っている光景は、どこか似ていた。
「はぐれるな」
隣で、アルベルトさまが言った。
騎士服ではなく、黒い平服を着ている。それでも、黒い革手袋だけは、いつものとおりだった。
カイルさんは、気がつくといなくなっていた。
(やっぱり、わざとだ)
二人で、ゆっくりと人ごみの中を歩いた。
屋台で、蜜をかけた焼きりんごを一つ買って、半分こにした。
「甘い」
アルベルトさまが、ぽつりと言った。
「甘いものを甘いと感じるのは、百年ぶりだ」
「じゃあ、今日は、お菓子の日ですね」
「お菓子の日?」
「王女さまと決めたんです。七日に一日だけ、甘いものを食べていい日」
アルベルトさまは、少しだけ口の端を上げた。
「では、今日は特別な日だな」
◇ ◇ ◇
大通りのはずれまで来たとき、わたしたちは、ある建物の前で足を止めた。
白い石造りの建物。扉の上に、砂時計の紋章。
寿命市場だった。
祭りの夜だというのに、その前には、長い列ができていた。
灯籠の光が届かない暗がりで、灰色の顔の人たちが、黙って並んでいる。
アルベルトさまは、その列を、長いあいだ見つめていた。
「百年前も、こうだった」
「え……?」
「人々は、パンのために命を売り、豊かな者は、それを買った。私は、そういう国を守るために、命を差し出した」
彼の声は、静かだった。
「そして百年たっても、何も変わっていない」
わたしは、何も言えなかった。
アルベルトさまは、手袋をはめた左手を、じっと見下ろした。
「エリア。君に、言っておかなければならないことがある」
「……はい」
「私には、未来がない。あと百二十日あまりで、私は消える」
祭りの音楽が、遠くに聞こえた。
「だから、私は、誰も愛してはいけないんだ。愛された者を、また一人で残していくことになるから」
その言葉は、わたしに向けたものではなかった。
もっと遠い、百年前の誰かに向けた言葉のように聞こえた。
わたしは、ぎゅっとこぶしを握った。
(この人は、百年も、ずっとそうやって)
(自分の未来を、最初から捨てて生きてきたんだ)
気がつくと、わたしは口を開いていた。
「だったら、わたしが買います」
「……何を」
「あなたの命を」
アルベルトさまが、目を見開いた。
「寿命市場で、命が買えるなら。わたしの数字が、あなたのそばにいるだけで増えるなら」
声が、震えた。
でも、止まらなかった。
「あなたと結婚できるなら、わたしは何度でもあなたの命を買います」
言ってしまってから、わたしは、自分が何を言ったのか気づいた。
(けっ……結婚……!?)
顔が、燃えるように熱くなった。
「ちがっ、いまのは、その、言葉のあやで、つまり――」
そのときだった。
アルベルトさまが、笑った。
口の端を上げるだけの、いつもの笑いではなかった。
声を出して、肩を震わせて、本当に、おかしそうに笑っていた。
「……君は」
彼は、笑いながら、手袋の甲で目もとをぬぐった。
「君は、本当に、変な人だな」
「よ、よく言われます……」
その笑い声を、わたしは、一生忘れないと思った。
◇ ◇ ◇
夜空に、灯籠が舞い上がりはじめた。
何百、何千という小さな光が、ゆっくりと、星の中へのぼっていく。
「きれい……」
わたしたちは、並んでそれを見上げていた。
アルベルトさまは、もう何も言わなかった。
けれど、人ごみの中で、わたしがよろけたとき、彼の手が、そっとわたしの手を取った。
黒い革手袋ごしの手。
それなのに、その手は、温かかった。
屋敷に戻ったあと、わたしは震える指で、寿命日誌を開いた。
左手の甲を、画面の明かりにかざす。
そして、思わず、声を上げそうになった。
「残り2年126日」
一晩で、一年。
たった一晩で、わたしの命は、一年も増えていた。
≪エリアさん。……記録しました≫
ルカは、それ以上、何も言わなかった。
心拍数のことも、言わなかった。
19話 リアナの影
星祭りから三日後の昼下がり。
わたしは伯爵さまに案内されて、屋敷の北の棟へ入った。
ふだんは閉めきられている、古い一角だった。
「エリアも、もうこの家の娘だ。一族の顔ぶれくらいは、知っておいてもらわんとな」
伯爵さまが重い扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出してきた。
長い廊下の壁に、肖像画がずらりと並んでいる。
セレスティア家の、歴代の当主と、その家族たち。
伯爵さまは、杖をつきながら、一枚ずつ、ゆっくりと説明してくれた。
わたしは、うなずきながら歩いた。
そして、廊下のいちばん奥で、足を止めた。
一人の娘の肖像画だった。
年は、二十歳くらいだろうか。
淡い金色の髪に、青いリボン。やわらかく微笑む、優しい目。
その胸もとには、小さな銀の剣のブローチが光っていた。
「リアナ・セレスティア。わしの、大叔母にあたる人だ」
伯爵さまの声が、少しだけ低くなった。
「百年前の人でな。騎士の婚約者がいた。その騎士は、黒き災厄の戦いに出て、二度と戻らなかった」
わたしの指先が、冷たくなった。
「リアナは、それから一生、嫁がなかった。毎日、屋敷の門の前に立って、婚約者の帰りを待ち続けたそうだ。そして、六十を過ぎたころ、門の前で、静かに息を引き取った」
肖像画の中の娘は、変わらずに微笑んでいた。
「婚約者の騎士の名は、伝わっておらん。ただ、リアナが最後まで手放さなかったという、その銀の剣のブローチだけが、一族に残っている」
(百年前の、騎士)
(黒き災厄の戦いに出て、戻らなかった騎士)
わたしの頭の中で、すべてがつながっていった。
屋敷に初めて来た日の、彼の顔。
セレスティアの名を聞いたときの、血の気の引いた横顔。
百年ぶりに眠った夜、彼の唇がかすかに呼んだ、誰かの名前。
「……リ……」
(リアナ)
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは眠れなかった。
東向きの大きな窓の部屋。
昔、一族の娘が使っていたという部屋。
(この部屋は……リアナさんの、部屋だったんだ)
寝台に座って、左手の甲を見る。
星祭りの夜に、一年も増えた数字。
(わたしは、あの人にとって、何なんだろう)
(百年前に失った人の、代わり?)
(同じセレスティアの名前を持って、同じ部屋で眠って、同じ屋敷の庭であの人に会う、ただの――)
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
前の世界で、何度も味わった痛みだった。
誰かの代わりでしかない。
本当の自分を見てくれる人なんて、どこにもいない。
≪エリアさん。眠れていませんね≫
「……ルカ。わたし、ばかみたい」
≪どうしてですか≫
「少しだけ、期待しちゃったの。あの人が、わたしを見てくれてるって」
ルカは、しばらく何も言わなかった。
≪エリアさん。記録上、騎士団長がもっとも長く笑ったのは、星祭りの夜です。リアナさんの話ではなく、エリアさんの言葉を聞いたときでした≫
わたしは、何も答えられなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、わたしは庭の楡の木の下で、アルベルトさまを見つけた。
彼は、北の棟の窓を見上げていた。
肖像画の廊下がある、あの棟を。
「……リアナさんの肖像画を、見ました」
アルベルトさまの肩が、ぴくりと動いた。
彼は、振り向かなかった。
「伯爵さまから、話を聞きました。百年前、騎士の婚約者を、待ち続けた人のこと」
長い沈黙があった。
楡の葉が、風に鳴った。
「……彼女は、待っていてくれたのか」
アルベルトさまの声が、かすれていた。
「戦いに出る前の夜、私は彼女に、帰らないかもしれないと言った。待たなくていい、と。それなのに」
「一生、門の前で、待っていたそうです」
アルベルトさまは、目を閉じた。
その横顔に浮かんだ痛みを、わたしは、見ていられなかった。
「……どうして、帰らなかったんですか」
聞いてはいけないと思いながら、言葉がこぼれていた。
アルベルトさまは、しばらく黙っていた。楡の葉が、また風に鳴った。
「封印のあと、王家は、英雄は戦死したと国じゅうに知らせた。私も、陛下の前で誓ったんだ。家族にも、恋人にも、正体を明かさないと」
「どうして、そんな……」
「命を売り買いするこの国で、年を取らない体の男が生きていると知られたら、どうなると思う。その体を欲しがる者が、必ず現れる。私のそばにいる者まで、狙われる」
(ノクス公爵のような人が)
「それに、帰ったところで、私は二十八のまま年を取らない。彼女だけが年を重ねていく。そして百年たてば、私は消える。……死んだと思ってくれたほうが、彼女は新しい人生を歩める。そう、自分に言い聞かせた」
アルベルトさまは、北の棟の窓を見上げた。
「封印のあと、私は自分から東の辺境の砦へ行った。刻蝕の残り影を狩りながら、何十年も過ごした。陛下には、彼女のことは二度と知らせないでほしいと頼んでいた。王都に戻ったとき、セレスティア家の門の前には、もう誰も立っていなかった」
(この人は、知らなかったんだ)
(リアナさんが、その門の前で、一生待っていたことを)
「彼女は、とうに嫁いで、幸せに暮らしたのだと……ずっと、そう思っていた」
その声は、ひどくかすれていた。
それでも、わたしは、聞かずにはいられなかった。
「アルベルトさま。わたしは……」
声が、震えた。
「わたしは、リアナさんの、代わりですか」
彼が、ゆっくりと振り向いた。
灰色の瞳が、まっすぐにわたしを見た。
「君は、彼女に似ていない」
その言葉は、思っていたよりずっと、はっきりしていた。
「リアナは、物静かな人だった。いつも、私の後ろに一歩下がって歩いていた。眠らない男を、患者だと言って東屋に寝かせたりはしなかった」
アルベルトさまは、少しだけ笑った。
「寿命市場の前で、命を買うと言い出したりもしなかった」
「……っ」
「君は、彼女に似ていない。君は、君だ」
わたしの目から、涙がこぼれた。
うれしかった。
うれしいはずなのに、胸のどこかが、まだ痛かった。
彼の瞳の奥に、百年分の痛みが、まだ沈んでいるのが見えたから。
(この人は、まだ、自分を許していない)
(リアナさんを、一人で待たせたことを)
アルベルトさまが、ふと、自分の左手に目を落とした。
黒い革手袋。
わたしには、その下の数字が見える気がした。
ゆうべ日誌に記録した、彼の残りの日数。
「残り118日」
三日前は、「残り123日」だった。
(……え?)
わたしは、心の中で、もう一度数えなおした。
三日で、五日。
彼の数字が、一日に一日より、速く減っている。
(どうして……?)
楡の木の向こうで、空が、ほんの少しだけ、かげった気がした。
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