16話 眠れない騎士
セレスティア伯爵家の屋敷は、王都の西のはずれ、古い楡の木に囲まれた静かな場所にあった。
石造りの、少し古びた館。廊下にはやわらかな絨毯が敷かれ、どの部屋にも、日だまりのにおいがした。
「この部屋を使いなさい。昔、一族の娘が使っていた部屋だ」
伯爵さまが案内してくれたのは、東向きの、窓の大きな部屋だった。
朝の光が、まっすぐに差しこむ部屋。
(眠りの灯には、ぴったりだ)
わたしは、思わず笑ってしまった。
伯爵さまは、不思議そうに首をかしげていた。
◇ ◇ ◇
それから数日後の夕方。
屋敷の門の前に、黒い馬が止まった。
降りてきたのは、アルベルトさまだった。
「陛下の命令だ。セレスティア家の娘の警護を、騎士団長みずから務めよと」
そう言うアルベルトさまの顔は、どこか、こわばっていた。
屋敷の玄関に足を踏み入れたとき、彼は一瞬だけ立ち止まり、天井を見上げた。
まるで、なつかしい場所に帰ってきた人のように。
あるいは、二度と来たくなかった場所に来てしまった人のように。
(この人は、この屋敷を知っている)
わたしは、何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは屋敷の庭で、彼を見つけた。
楡の木の下で、剣を地面に向けて、月を見上げている。
王宮の庭で見たのと、同じ姿だった。
「アルベルトさま」
「……まだ起きていたのか」
「あなたこそ。今夜も、眠らないんですか」
「眠らなくていい体だと、前にも言った」
わたしは、深呼吸をした。
「わたしは、医者の手伝いです。眠らない患者さんを、放っておくわけにはいきません」
アルベルトさまが、眉を上げた。
「私は、患者か」
「はい。今夜から、わたしの患者さんです」
しばらく、沈黙があった。
それから、アルベルトさまは、ふっと息を吐いた。
笑ったのかもしれなかった。
「……わかった。何をすればいい」
◇ ◇ ◇
わたしは彼を、庭の東屋に連れていった。
石の長椅子に、伯爵家の古い毛布を敷く。
「横になってください」
「剣は」
「剣は、そこに立てかけておいてください。手の届くところに」
アルベルトさまは、少しためらってから、言われたとおりにした。
長い体を、窮屈そうに長椅子に横たえる。
「まず、ゆっくり息を吐いてください。吸うことより、吐くことを大事に」
「吐く……」
「はい。肩の力を抜いて。おなかの底から、ゆっくり、ゆっくり」
彼の息が、少しずつ深くなっていく。
わたしは、屋敷の台所でつくってもらったスープの器を、彼の手に渡した。
豆と根菜を、やわらかく煮込んだスープ。少しだけ、トマのお母さんの漬物の汁を落としてある。
「温かいものを、少しずつ。お腹が温まると、体が『もう休んでいい』って思うんです」
アルベルトさまは、スープをひと口飲んだ。
その手が、止まった。
「……どうしました?」
「いや」
彼は、器を見つめていた。
「何でもない」
もうひと口。もうひと口。
ゆっくりと、器が空になっていった。
わたしは、東屋の柱にもたれて座った。
「目を閉じてください。眠れなくても、いいんです。ただ、目を閉じて、息を吐くだけで」
「君は、どうする」
「ここにいます。あなたが眠るまで」
アルベルトさまは、長いあいだ、わたしを見ていた。
それから、ゆっくりと目を閉じた。
夜の庭は、静かだった。
楡の葉が、風にさらさらと鳴っている。
遠くで、ふくろうが一度だけ鳴いた。
どれくらいたっただろう。
ふと見ると、アルベルトさまの胸が、ゆっくりと、規則正しく上下していた。
眉間のしわが、ほどけていた。
(眠ってる……)
百年。
百年ぶりの、眠り。
わたしは、毛布の端を、そっと彼の肩まで引き上げた。
その寝顔は、驚くほど若かった。
英雄でも、騎士団長でもない、ただの二十八歳の青年の顔だった。
彼の唇が、かすかに動いた。
「……リ……」
誰かの名前を、呼んだような気がした。
けれど、それは、夜の風にまぎれて聞き取れなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
東の窓から差しこむ光で目を覚ましたわたしは、あわてて庭へ駆け出した。
東屋の長椅子は、空だった。
毛布が、きちんとたたまれて置いてある。
「……おはよう」
背後から、声がした。
振り向くと、アルベルトさまが、楡の木の下に立っていた。
朝の光の中で、その顔は、いつもと少しだけ違って見えた。
「眠れましたか」
「ああ。……夢を、見た」
「どんな夢ですか」
アルベルトさまは、少し考えてから、首を振った。
「覚えていない。ただ、温かかった」
それから、少しだけ照れくさそうに、目をそらした。
「エリア。昨日のスープだが」
「お口に合いませんでしたか」
「いや」
アルベルトさまは、ゆっくりと言った。
「味が、した」
わたしは、言葉を失った。
「百年ぶりに、スープの味がした。豆の甘さも、少しすっぱいのも、ちゃんとわかった」
そう言って、彼は、笑った。
不器用で、ぎこちなくて、少しだけ泣きそうな笑顔だった。
わたしの胸が、どきん、と鳴った。
(だめだ)
(この人の、こんな顔を見たら――)
≪エリアさん。心拍数が――≫
(言わなくていい!)




